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 辞職をし、晴れ晴れとした気持ちで、県庁を後にしようとした、その時である。  洋館の造りの県庁のまえで、一人の男が武に声をかけた。 「これ、君、辞めるそうじゃあないか」  和装をしゃんと着た男性は、印南丈作であった。  これまで、挨拶ぐらいしかしたことのない二十も年上の丈作に突然話しかけられて、武は警戒する。どうせ嫌味でも言われるのだろう。うんざりとしながら、武は足を止めた。 「はい。学業に専念したいと思いまして」 「良いことじゃないですか。君ほどの男が、雑事に忙殺されるのはいかがかと、思っていたんですよ」  県庁の脇には堀があって、鯉が群れて泳いでいた。通りすがりの母子が、堀を覗き込む。子供が、鯉にちょっかいを出して、母親が堀に落ちないように抱きしめる。 「はは。私なんて、若いだけの男ですよ」 「若いだけなんて、とんでもない。これまでやってこれたのは、君の才でしょう」  ぽちゃん、落ちた小石に驚いて、鯉が跳ねて水音が響く。 「才ですか」  きょとんとした返事を、武は口にした。  世は明治初期、封建世襲の価値観の残る時代である。長男であれば、家業を継ぐのが当たり前で、それは個人の資質とは関係ない、そんな世の中だ。  突然投げ込まれた、才という耳馴染まない言葉を、武はなにかとてもありがたい言葉のように受け取った。 「そうですよ、生まれなんてただ状況を作るだけでしょう。君が自分の意志で家業をやり遂げ、県の要職まで任ぜられた、それは君の意志であり才でしょう」 「意志ですか」 「はは、私はね、絵方師の家に生まれたのに、画の才がなくて家を追い出されたような男なんです。意志があっても才がなくては務まらない。君は立派ですよ。次の場所でも、健勝でね」  ひらりと手を振って、丈作は去ろうとして、再度振り返った。 「妻にはね、花を贈りなさい。花の嫌いな人はいないから。じゃあ」  もう一度、ひらりと手を振って、袖をひるがえして丈作は去っていった。もう年上の男のいうことなど聞くものかと嫌気していた武だったのに、数分のうちにすっかりほだされて、駅前で赤い花を一輪買って家に帰った。 「まあ、お花! あらあら珍しい。飾らないと。ふふ」  玄関に迎えに出てくれたハマが、花を見て喜ぶのを見ながら、武は、辞した職でも笑顔の妻でも休暇のことでもなく、先ほど会ったばかりの丈作のことばかりを思い出していた。
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