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五
副戸長の職を辞して、一年ほどを学業や家庭に費やした武であったが、次の年にはまた県庁の任によって、次はもっと大きな区画の副戸長を任ぜられた。
散々不満を漏らしていた職への復帰を心配するハマをよそに、武は人事に不満なく、むしろ登庁を楽しみにしていた。もちろん、楽しみにしているのは丈作に会えるかもしれないという期待によるものである。
職を休んでいる間に聞いたところによると、印南丈作という男は、随分と波乱万丈な人生を送ってきた男であった。十歳で村を継いだ武も相当に変わった経歴だけれども、丈作の紆余曲折は比にならない。また聞きではなく、もっと、当人のことを知りたいと、武が思うのも当然の流れであった。
「丈作さん! この後いっしょにいかがですか。牛鍋を出す店があるんですよ」
登庁し、また同僚となってのち、丈作を見つける度に武は声をかけた。話せば話すほどに、丈作は面白い男であった。穏やかな語り口でありながら、凛とした芯のある意志があった。丈作も、元より聡明な武を気に入り、ふたりは二十程の歳の差を感じないほど親しくなって、仕事で同席した後は、夕餉を共にして、朝まで語らうのが恒例となっていた。
「那須野が原は、あんなに広い土地なのに、もったいないと思いませんか」
「もったいない、ですか」
もったいない、という口ぶりが、武には面白かった。まるで野菜の切れ端を惜しむのと同じように、丈作は広大な土地について口にした。
「広く開けた土地というのは、貴重ですよ。しかも、すごく広い。もったいないじゃあありませんか」
「たしかに、水さえあれば、拓けるのでしょうけれど」
「では、水を曳きましょう。大運河を、我々の手で作りましょう」
大きな思想を描くのが、丈作は得意な男であった。丈作の構想に、武は骨や肉をつけ、ふたりの話はいつも長引いた。
酒も飲まずに朝帰りする武を、ハマは寝ぼけ眼で寝所から出てきてからかった。
「佐司馬さんの次は丈作さんですか。ほんと、妬けちゃうんだから」
丈作と武の話題はもっぱら、県名が宇都宮県から栃木県に変わっても、広大な那須野が原にあった。
「私の故郷は、谷にあったから、佐久山に来てからはじめてこんな広い土地を見たんですよ」
那須野が原を近くに育った武からすると、他所から見た印象は新鮮であった。地元の民からすると、那須野が原は砂利に覆われて水はけが良く、川も地下深くに潜っているために開墾に適さない、死んだ土地であった。住民にとっての利用価値は、年に一度、春先に火入れを行って枯草を焼き、その後の季節は草刈り場としてのみ利用されてきた。樹木も成長しないために、風が強く、余計に土地を枯らしていた。
しかし、平野は平野である。山や谷によって広い農地が拓けない日本において、珍しく広い平野である。外国式の大規模農場を拓くことですら、可能な土地を、丈作はもったいないと評す。
「那珂川から水を引き入れたらどうでしょう。運河を真ん中にずっと通せば、運搬にも利用できる」
「しかし、そんな大規模な工事、我々の私財ではどうにも」
「ふむ、お国に頼むしかないでしょうな。なに、知り合いも多くいるのですよ」
丈作は、戊辰戦争に従軍した折、政府の要人たちと知れた顔になっていた。
武が無理であると断ずる理由を、丈作はひとつひとつ解していく。話していくうちに、できないことなど何もないと、感情ではなく理屈で理解させられる、丈作はそういう人であった。
「那須野が原、開拓できたら、我々は一大事業主ですね」
「できたら、ではなく、できるんですよ。さて手配を考えないと」
県の仕事や、家の仕事をこなしながら、ふたりは寝る間を惜しんで那須野が原開拓について語り合った。もちろん、常の仕事も忙しい二人であるし、地道な根回しや金策が必要である、その計画の目途が立ち始めたのは、それから五年以上の歳月が費やされた後であった。
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