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七
アメリカからの賓客のもてなしも万事済ませ、一行が下山するまで、丈作は普段の通りを貫いた。夕餉のおりには、那須野が原の事業について、武と語らうほどであった。
だから、武も含めて、皆の気持ちは那須野が原に帰ったあとの仕事に向いていて、丈作が抱いている違和には、全く持って気付かなかったのである。
日光から戻る汽車が発車する、警笛がなった途端に、その違和は破裂して、突然に現れた。
「私は、もう一泊していきますから、武さんたちはお帰んなさい」
丈作は突然、席を立ちあがって、さっと汽車をおりてしまった。五十も目前の身体とは思えないような、素早い動きであった。
「丈作さん?」
武たちが降りようにも、驚いて追い付こうとするまでに、既に汽車は動き出してしまっていた。車窓から乗り出した武に、丈作は乗車場で独り、ふらふらと手を振って汽車を見送った。
本当に武たちは、その時まで、丈作が普段一辺倒の心持でいるものだと、安堵しきっていた。
そんな訳はないのだ。
丈作は、生まれ故郷が荒廃して、平静でいられるような、冷たい男ではない。
だのに、ここまで平然を保っているのは、なにか異様な気がした。突然、汽車を降りることもあるまい。
日光に、丈作が帰ってしまって、那須野が原に一人ぽつんと取り残されたとしたら。
十歳の時の、両親が亡くなって、もうどうしようもなく頼るものが無くなった当時の心持が、思い出されて、武は目の前が暗くなる。
「丈作さん、どうしたんでしょうか」
「突然、汽車を降りるような、突発的なお人では無いと思うのだけれど」
「まさか、荒れた故郷に、乱心されて殉ずるなんて」
誰かの口をついて出た考えが、皆の口を閉じさせた。
しかしまさか、いくら荒れたとて故郷に絶望して、殉じたりするような人では無いはずだ。逆に、荒れた故郷を復興させようと、意志を固くするような人であって、まさか日光に意志を固くして、那須野が原を忘れたら。武を置き去りに、日光に帰郷してしまった。武は、武の中の抑え込んだ十歳の記憶は、暗く震える寒さを感じた。
帰りの汽車は、静かだった。徐々に暗くなる車窓の外を、皆、手持無沙汰に眺めていた。
汽車が那須に着き、帰宅したとて、日光への連絡の手段もない。
「丈作さんのことですよ。きっと色々しらべて、手を回しているんでしょう」
落ち着きのない武に、ハマは優しく諭してくれる。
一人残されたら、という不安について、武はハマには話せなかった。ハマはいるし、頼る人ならいくらでもいる。十歳の時とは違うのだ。この不安を口に出すのは、ハマに対して失礼だ。
しかし、武にとって、丈作というひとは、大きな存在であった。丈作ひとりがいなくなることで、他のすべてに勝るぐらいの空虚がのしかかる、そんな存在。職を辞した県庁の前で施された言葉によって、武は丈作に表しきれない大きなものを感じていた。
「私、知っていますよ。何日もおうちに帰らないぐらい、ずっとお仕事に打ち込むぐらいには、丈作さんと武さんが那須野が原を思っているのは、知っています」
ハマは、武の不安を見抜いているのか、優しい声音で諭し続けた。
「ね、丈作さんが那須野が原を見捨てる訳はないでしょう。でもね、おんなじでね、きっと、日光も見捨てられないんですよ。直に帰ってらっしゃるわ」
今の丈作には、自分と何夜も語り合った那須野が原の開拓への意志がある、はずだ。
不安で眠られない武が、目をつぶったのは明け方のことで、しかし翌日も丈作は那須野が原に帰らないのであった。腑抜けてしまった夫を、ハマは優しくいたわってくれた。腑抜けなりに仕事には行くし、作業はこなすのだけれども、丈作の気配のない間、武は地に足のつかぬ思いをした。
丈作がひょっこりと武の家を尋ねたのは、それから数日後のことである。
「丈作さん! 心配しましたよ!」
「なに、そんな心配させるようなことをしましたか」
「突然汽車を飛び降りるから、乱心されたのかと」
「いや、ふと調べものを思いついてね。心配させたのならすまなかったね」
ハマが茶を出しながら、私の言った通りでしょう、と武に目くばせをする。丈作はまったく平静通りで、ハマさんのお茶はおいしいねえ、などと、湯のみをすすった。
武もハマの淹れてくれたお茶をぐいっと煽った。丈作が来るときには、丈作の好みに合わせて、ハマは少し茶を薄く淹れた。その心遣いが、今の武には余計に感ぜられて、余計に不機嫌になった。
「数日も何をされてたんですか」
「鍋島さんにね、日光を荒らしておくのはもったいないから整備して公園にした方が良いだろうと申し上げてきたんですよ」
鍋島というのは、県令である。丈作は、戊辰戦争に従軍した際に培った人脈で、幅広く要人に顔がきいた。普通なら県令に簡単にには行けないのに、ふらっと会いに行ってしまうのが、丈作の強さであった。しかし、何事も知らされず、待つ身からすると甚だ心もとない。
武にとっては、急用も予定もなかったとはいえ、那須野が原を放っておいて、日光のために駆けまわっていたというのも、面白くない。
「数人に相談して寺社保全のための金の工面はできそうなんですが、幹事の人手が足りないのでね、きみにもお願いしようと思って、今日は伺ったんですよ」
「それは、那須野が原よりも、日光を優先するんですか」
自分でも驚くぐらい、低い声が出た。
それは、おそらく、現在の武の声ではなかった。十歳の、両親が他界して置いてけぼりにされた武の、今まで抑えていた不安の声であった。
ここ数年ふたりで語り合い計画を練ってきた。那須野が原の大運河よりも、丈作が久しぶりに見た故郷を優先するのではないかと、武を独りにするのではないかと、そればかりが武の心を揺るがしてきた。
「いいや、君がいてくれたら、日光も那須も両方整備できるでしょう」
しかし、拗ねたような武の言葉に、丈作はきょとんとした声を出した。
「はい?」
「君の才をもってすれば、日本全国とはいかずとも、栃木周辺であれば万事安泰でしょう。日光に本意はないかもしれないけれど、君は私が頼んだら断らないでしょう」
「それは、そうですが」
穏やかに信じ切った言葉に、武はすっかり毒気を抜かれた。頼んだら断らないのなんて、当然だ。丈作に頼まれて、断る理由なんて、武には全くないのである。丈作の嬉しそうなのを見て、武はため息をつく。
「私はね、故郷を出て良かったよ。故郷にずっと留まっていたら、故郷を本当の意味では守れなかった」
「故郷に、そんな意志があったなんて、思っていませんでした」
「はは、意志はあっても、才はなかったと、思っていたんだがね。違う方向の才で、どうやら故郷を守れそうだ」
丈作が日光にとられるのではないか、そんなのはただの気苦労であった。丈作は、いなくならない。少なくとも、自分の才を信用して、求めてくれる。そして、丈作の意志は、ひとところに留まらない。
県庁で職を辞したあの日、はじめて丈作と話した時に感じた、あの清々しさ。
日光も那須野が原ももったいないから保全し、開拓しようという、丈作の寛容さは、武にはついぞ追い付けない思考であった。
「才の使い方も、色々だね」
持ちえないから、ありがたいのだ。丈作の才は、武には眩しく見えた。
「なんだか、疲れました。他の人たちも、丈作さんのこと心配してますから、早く元気な姿を見せてください。乱心して身投げでもしたんじゃないかって話してたんですよ」
「なに、みんな、想像力が豊かだなあ。さて、これから、日光の保全も、那須野が原の開拓も、忙しくなりますよ。よろしくお願いしますね」
丈作は、笑って武の手を握った。二十も年上の男の手は、乾燥して、節くれだって、しかしあたたかな手であった。
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