夢は贈り物

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夢は贈り物

 ――私は、あなたとずっと一緒にいるよ。  *  私がその喫茶店を知ったのは、友人の水島菜月から紹介されたからだった。視界を遮るほどの建物の数がなく、広々とした住宅街が続く中に、ひっそりとその喫茶店はOPENの看板を掲げている。  ログハウスのような外観をしており、その周囲を通る通路は煉瓦敷きで、とても雰囲気に合っていた。駐車場が狭いのが難点だが、その木製のドアを開くと小気味良いベルが鳴り、明るい店内がその先に待っていた。  流れているのはほとんど落ち着いたクラシックかジャズで、私の好みに合っていた。元々人込みが苦手で、静かな空気の流れる場所が好きだった。その店を知っていた友人が紹介してくれたことに私は心底感謝していたが、恥ずかしくてそのことを口に出せなかった。  私は口数が少なくて愛想も良くないし、明るくて交友も広く、誰にでも好かれる菜月とは全く違っていた。それでも何故か私達は気が合うのだった。でも、それは私がそう錯覚しているだけで、菜月が憐憫の感情を抱いて私に気遣っているのかもしれなかった。  その日も私は店内の奥の席に座り、菜月を待っていた。使い込まれた調度品はどれも木製で、そこに刻まれた傷の数だけ人々の思い入れが篭っているようだった。  その時、読んでいたのはゲーテの『若きウェルテルの悩み』だった。ゲーテの作品はファウストを時間をかけてゆっくりと読んでいたが、この小説に触れて本当に物語に浸っているのが心地よいと再確認するような気がした。  私には本しか生き甲斐がないのだから、いつまでもこうして喫茶店でページを捲り、空想に耽りたいと強く思った。  そこで菜月がやって来た。彼女は「ハロー」と快活に笑うと、私の向かいの席にいつものように腰を下ろした。彼女の栗色の長い髪がふんわりと揺れて、彼女の甘いシャンプーの香りが漂ってきた。私が男だったら、彼女に恋をしていただろう。  そして、少しは愛想良く彼女に対して話をすることができていたかもしれない。 「こんにちは、菜月」  私はそれだけを言ってまた本へと視線を戻し、ページを捲った。 「ごめんね、ちょっと友達が頼み事をしてきてね、その用事で遅れてしまったの」 「別に構わないわ」  私は意図して冷たく言った訳ではなかったが、どうしてもそういう口調に聞こえてしまう。彼女は目立たないけれど上品な色の口紅が乗った唇を微笑ませて、身を乗り出してきた。  彼女のガラスの底を覗くようなきらきらした瞳と、高い鼻、きめ細かな肌が私へと迫る。 「最近、調子はどう?」 「調子って?」 「仕事はうまくいってる?」  私は本をテーブルに伏せ、小さく首を振った。菜月は少し心配そうな目で私を見つめ、そして再び微笑んで、うなずいてみせた。 「何かうまくいっていないことがあるなら、私に何でも話してみて」 「仕事のことはあまり話したくないの」  私はそう言って唇を噛んだ。そうしてアイスコーヒーの注がれた長細いグラスの底をじっと見つめた。再び顔を上げて彼女を見つめ、彼女のまっすぐな眼差しを受け止める。  彼女はどうしてこんなにも私を気遣ってくれるのだろう。私のことを大切だと想ってくれているのだろうか。  そう考えて、すぐにその可能性を打ち消す。彼女は明るくて優しくて、数えきれないほどの友人が他にいて、私のことなど可哀想で付き合ってるぐらいなんだろうな、と思った。  私は彼女の顔から視線を外し、本の表紙をそっと撫でた。 「私なんて生き甲斐もないし、ここでずっと本を読んでいるか、家にこもってる方がいいのよ、きっと」  私が掻き消えそうな声でそうつぶやくと、彼女は少しだけ笑みを消し、私の手に掌を重ねた。 「あのね、私調べてみたんだけど、今度都内にある文学館に一緒に行ってみない? 瑞希、すごく本が好きだし、行ってみれば楽しそうだなって思うのよ」  私は押し黙り、ストローを握ってグラスの中の氷を掻き混ぜる。 「行きたくない」  はっきりとそう言った。菜月は視線を伏せて寂しそうな表情を浮かべたが、やがて小さくうなずいて、再び私へと顔を向けた。 「ねえ、そんなに他のことに興味ないなら、物語を書いてみるのはどうかしら?」 「……え?」 「だって、そうでしょう? 数えきれないほどの本を読んで、その才能を活かせるわよ、きっと」  私は彼女の提案が本当に予想外だったので、声を失って彼女の顔をまじまじと見つめてしまう。そして、そっと口を開きかけた。そんなの、嫌よ、と言おうとする。でも、何故かそこで否定の言葉が喉につっかえて出てこなかった。 「今度、タイプしたの持ってきてよ。私読むからさ」 「いや、だって、私はパソコン苦手でタイピングもできないし」 「じゃあ、原稿用紙でいいわよ」  彼女はそう言って一斉に花が咲き乱れて周囲に色取り取りの花畑が広がるような、そんな美しい笑顔を見せて、私の手を再び握った。 「どう、やってみない?」  その透き通るような純粋な眼差しに、私は視線を彷徨わせていたが、やがてふっと息を吐いて彼女を見返した。 「わかったわよ、書いてみるわ」 「やったわね。じゃあ、楽しみにしてるから」  菜月は大きな声でそう言うと、ようやく落ち着いたのか、ウェイトレスに自分の分のコーヒーを頼んで文庫本を取り出した。また時代小説を持ってきたらしく、彼女はいつものようにそれを読み出す。  私はそんな彼女の顔をじっと見つめながら、自分でも気づかないうちに、ずっと気になっていたことを聞いた。 「なんで菜月は私と会おうとするの?」  菜月が本から顔を上げて、きょとんとした顔をした。 「え? どういうこと?」 「私なんて捻くれてるし、一緒にいても気分悪いでしょ?」  私がそう言って視線を伏せると、何故かそこで菜月はぷっと噴き出して笑い始めた。 「何、笑ってるの?」 「いや、だって……私はね、瑞希、あなたがどんなに捻くれていても、一向に苦にならないのよ」 「嘘よ、そんなの」  私は唇を尖らせて、顔を反らしてしまう。彼女はまだ笑い続けたまま、ただその言葉をつぶやいた。 「私が会いたいって思ってるんだから、それでいいでしょ」  彼女のその顔をそっと見遣ると、彼女は全く笑顔を崩さず、私をじっと見つめていた。その眼差しが本当に嘘偽りなく柔らかなものだったので、私はあきらめて本を握った。  そして、もう何も言わずに読書を再開する。お互いに無言で読書を続けるその時間は、何物にも代えられない穏やかな一時で、私にとっても本当に大好きな時間だった。  でも、私は素直でなかったので、彼女に本当のことを言うことはなかったのだけれど。  *  私は小説を貪るように読んでいても、小説を書くということには一切触れたことがなかった。どんな作品を書けばいいのか、どんな風に書けばいいのか、全くわからなかった。  でも、わからなくてもとりあえず書こうと原稿用紙に向かったが、アパートにこもって淡々と文章を綴っていても、全く面白くなかった。  図書館に行けば資料もあるし、書けるかもしれないと思って赴いたが、アパートで書くのと大して差はなかった。  もうやめようかな、と思って筆を置いた時、ふと鞄に入っていた一冊のハードカバーに気付いた。 『星の降る街』  菜月が一番好きだという作品を私に譲ってくれたのだった。私も何度も読み返して、思い入れのある作品と言ってもいい。  私はそのページを捲って執筆のことをすっかり忘れて読み耽ってしまった。その心を捕えて離さないような美しい文章やストーリー、そういうものに触れて私もこんなものが書きたいな、とふと思った。  気づいた時には、鉛筆を再び握っていた。  原稿用紙にそっと筆を滑らせて書き始めるが、そこからは本当に何故か書くことが楽しくて仕方なかった。  どうしてこんなにも溢れるように文章が心から零れ出てくるんだろう、と思ってしまう程に、私はその作業にのめりこんでいた。  我に返った時には、もうその作品を一つ、書き終わっていた。  私は原稿用紙をそっと集めて読み返してみたが、果たしてこれが読む価値のあるものなのか疑問だった。でも、とりあえず菜月に見せてみようと思う。  彼女が一体、どんな感想をくれるのか、楽しみだった。  *  菜月は私の原稿を受け取ってから、もう三十分以上も何も言わなかった。私は寄る辺のない心境のまま、時折アイスコーヒーを飲んで彼女からの言葉を待っていた。  菜月は彼女にしては珍しい、全くの無表情で唇を結び、ただ無言で原稿に視線を走らせていた。彼女が用紙を捲る音が、私の心に踏み込んでくる彼女の足音のように聞こえた。  私は何度も口を開きかけて、彼女の真剣な眼差しに言葉を呑みこむということを繰り返していた。  どうだろうか、もしかしたらどんな感想を言ったらいいのか困っているのかな。  そこで菜月が最後まで読み終わったのか、その原稿をテーブルに置いた。ふう、と吐息をつき、私へとすっと真剣な表情を向けてくる。私の心臓がドクンと鳴った。 「瑞希」 「……どうだった?」  菜月は目を閉じ、もう一度深い吐息をついた後、瞼を開いてそっと私の手を握った。 「すごく面白かった。初めて書いたもので、これだけのものが書けるなんて、私には本当に驚きだわ」 「な、何言ってるの。そんなことある訳ないでしょ」 「ううん、嘘じゃない。あなたにはすごい才能があるわ。この作品、賞に出してみたらどうかしら?」  私は菜月の震える声に、返す言葉もなく口を開いて硬直していたが、やがてふっと苦笑した。 「そんなの落ちるに決まってるでしょう。冗談で言ってるんでしょ?」 「本気で言ってるの。これ、すごいわよ。新たな道が拓けるかもしれないわ。ねえ、やってみない?」  私の手を握る彼女の力に、その言葉は嘘でも冗談でもないことがわかった。私は目を見開き、彼女を凝視していたが、視線をふと伏せた。  編集関連の仕事に就いている菜月が言うのだから、それは本当なのだろう。私にももっと別の、明るい道が拓けてくるのかもしれない。それは案外、すぐ側にあったものなのかもしれなかった。  そう、踏み出してみればいい。菜月の言葉を信じて、一歩前に。  私はうなずき、そして口を開いた。 「やっぱりやめとくわ」  でも、口から零れ出たのは、やはりそんなあきらめの言葉だった。 「本当に絶望的な確率で、私が受賞できたとしても、私にはその先やっていく自信なんてないから。きっと私にはこういう生活が似合ってるのよ」  違う。私はあんなにも小説を書くのを楽しんでいたじゃない。今すぐにとは言わなくても、それを目指す覚悟はいつかふっと心に舞い降りるかもしれない。  でも、私はその勇気が出なかった。 「そう。残念ね」  菜月はその原稿を握り締め、本当に泣きそうなほど寂しげな表情を見せた。でも、数秒後にはいつものような笑顔を浮かべ、まあ、いいわ、と私の掌をぽんぽんと叩いた。 「まだまだ書いてみればいいじゃない。賞がどうのこうのなんて関係ないわね、確かに」  菜月はそう言ってウェイトレスにショートケーキを二つ頼み、奢るから、と話した。私は彼女にうなずきながら、何か自分が間違った選択をしてしまったのではないか、とそんな予感がふつふつと心を突き刺すような気がした。  *  その一週間と二日後、菜月は事故に遭った。  *  菜月。心の中で呼んでみても、口に出して名前を彼女に囁きかけても、彼女が語ることはなかった。  彼女の葬儀が営まれ、冷たくなったその皮膚に触れた時、私は涙が出てくるのかと思った。当然出てくるはずだろう。  でも、出なかったのだ。  私は本当に卑劣で、捻くれていて、どうしようもない冷たい人間なんだ。深くそう思った。  棺桶の中の彼女はそれでも美しく、私は周囲で泣き出す彼女の友人達を見ながら、涙は出なくても、心の中に何か大きな空洞が際限もなく大きくなっていくのがわかった。  私は菜月というその名前を心の中にも、彼女が好きだった本の中にも、あの喫茶店にも見出せなくなってしまうのだろうか。  それは残酷だ。でも、一番残酷なのは、彼女を喪って呆然としている自分自身だった。  *  平山瑞希を慕ってくれる友人など、もうこの世にいなかった。でも、菜月が好きだったその喫茶店はまだそこに残っていた。  私は彼女といつも会っていた土曜日の午後にその喫茶店を訪れ、扉を開いた。すると、いつものジャズピアノが私を包み込み、そっと心を優しく撫でてくれた。唇を結んでその懐かしい空気に俯きながら、私はオーナーの挨拶に頭を下げて奥の席へと向かった。  いつものようにアイスコーヒーを頼んで本を開いても、その大切な“何か”はやって来なかった。私はページを捲って視線を走らせ、その何かが訪れるのをずっと待った。でも、来なかった。来るはずがなかった。彼女がいないのだから。  私は本を閉じ、額に手を当ててきつくきつく唇を噛み締めた。菜月、と呼んでも、もうあの微笑みは見ることができないのだ。  菜月がいないこの喫茶店に、私の心の置き場所はないのかもしれなかった。  ぐっと拳を握り、立ち上がろうとした時、ふと鞄の隙間からそのハードカバーの背表紙が見えた。  星の降る街。  私は彼女の存在がどれだけ私を支えていたかをようやく知った。知るのが遅すぎた。一番言葉を伝えたかった相手はもう、海原の彼方へと旅立ってしまった。  そっとその席に座り直し、そのハードカバーを手に取って開いた。すると、人気作家の巧みな文章がページを泳ぎ出し、もう一度海の向こうから菜月を呼び寄せた。  彼女がその本の中にいた。湖で出会った少女二人が星の降る街を探して旅を始める冒頭、奈月という女性が出てくる。彼女は自分の進む道を迷っている二人に助言を与えた。もっと彼女達が幸せになるように、自分のありったけの優しさと思いやりと、少しの熱情を分けてあげるのだ。  それが私にくれた言葉のような気がして、私は涙の味を口の中に感じていた。そっと瞼から雫が伝い落ち、それが唇の隙間から中に入った。  ――あなたにはすごい才能があるわ。この作品、賞に出してみたらどうかしら?  ――新たな道が拓けるかもしれないわ。ねえ、やってみない?  菜月が私に残してくれた言葉を、私は大切に抱いて歩いていくべきなのだ。  私は星の降る街のハードカバーの本を彼女から受け取った時のことを思い出す。  彼女は声を潜めて囁いてきて、私の手にその本を握らせたのだ。そうしてこう言ったのだ。  ――瑞希だけに、私だけのとっておきの小説を教えてあげるわ。まだ誰にも教えてないのよ。  瑞希だけに。とっておきの……  私はもう止め処なく流れてくる涙をそのままにして、本のページを濡らして染みを作ることを繰り返した。  私の目の前に新たな道が一つ、拓けたのを感じた気がした。それはまっすぐに未知なる世界へと伸びていて、それはきっと菜月の想いへと続いているのだと思う。  だから、私は――。  鞄の中のその紙の束を、ぎゅっと握った。  *  ――それから、数年後。  菜月が好きだったその喫茶店が閉店すると聞いて、私はその最後の日に駆け付けたのだった。扉はいつもと変わらず照明の光によって擦りガラスをキラキラと輝かせていたが、その先にはたくさんの人々の笑顔が華やいでいた。  今までありがとうございました、と常連らしき女性客の集団がマスターへと花束を渡していた。今までその男性へと意識を向けたことはなかったが、今、私も本当に感謝の言葉を伝えたかった。  女性客が帰っていくまで待った後、私はマスターへと近づき、今までありがとうございました、と頭を下げた。 「ああ、菜月さんと一緒に来てた方ですね。本当に懐かしいです」  最近通うことがなくなった私に、マスターの男性は微笑みかけ、確かに覚えていてくれたらしかった。 「菜月さんがあんなことになってしまって……私の喫茶店を本当に気に入ってくれたので、残念です」 「ここで菜月と一緒に過ごす時間が、どんなに私にとって大切だったか、言葉では言い表せないくらいです。本当に今までありがとうございました」 「いいえ。菜月さんが大切にしていた友達ですから、あなたも本当に優しい方だと思っていました」  私はふっと自嘲げに笑って首を振った。 「私なんて、いつも菜月にわがまま言ってばかりいて……とても大切な友達とは思ってなんていなかったと思います……」  マスターの男性は細い目をさらに糸のようにさせ、にっこりと微笑んで「そんなことないですよ」と語った。 「でも、私といても、煩わしかったんじゃないかな」 「いいえ。それは絶対にありません。私、以前菜月さんにあなたとの関係を聞いてみたことがあったんです。そしたら、菜月さんは――」  私にとって誰よりも大切な一番の親友なんですよ。あの子ぐらい、仲が良い友達なんていませんから。  私の心がすっと浮き上がり、ジャズの落ち着いた音色に溶け込んで吹き抜けを突き抜けていった。 「だから、菜月さんはあなたのことを一番の親友だと思っていたみたいですよ」  そんな、だって、菜月は……。  私はそっと鞄の中のその本に触れた。彼女がそれを差し出した時の言葉が――。 『瑞希だけに――』  私の瞼から一つの雫が落ち、宙に瞬いた。 「それより、受賞おめでとうございます」  マスターは手を差し出して、握手を求めてきた。私はうなずき、彼に微笑みを向けた。  私は五か月前、新人賞を取り、作家になった。  それも菜月のおかげだった。彼女が私に新しい可能性を示してくれなかったら、一歩踏み出すことはできていなかったと思う。  私の処女作、『友』は今嬉しいことにベストセラーとなって注目されている。でも、私には菜月にそのことよりも、そのペンネームを教えてあげたいと思うのだ。  そう、私のペンネームは、 『平山菜月』  水島菜月と平山瑞希はこれでずっと一緒にいることができるようになる。  私は微笑み、本の中の彼女へと言葉を投げかける。  ――私は、あなたとずっと一緒にいるよ。 了
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