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履きならしたブーツが、土の上の霜を踏んでしゃくしゃくと音を立てる。僅かな光に反射して、それは土に埋もれた水晶のように白く光った。吸い込むと体の髄まで凍りそうなほどの風に吹かれながら、ハナは歩く。あたりは日の出前の紺色に染まっていた。まるでこの道全体が海の底に沈んだように、静かな曙(あけぼの)だった。
ふと自分が抜け出した背後の館を思う。ベッドで寝ているのがクッションだと分かった、ばあやの顔が目に浮かぶようだ。まして、古い革のブーツと寝巻にマントといういでたちで、冬空のもと一人で出かけたと知ったら。もしかしたら小言ではすまないかもしれない。
ひどく寒かった。顔の上に氷が張るのじゃないかしらと思う程、寒かった。白い指の先は桃色になり、足先は凍るようだ。しかし、ハナは歩みをやめようとはしなかった。
行く道の両側には、黒々とした杉が並んでいる。来た道の始まりを振り返ると、杉に隠れた大きな建物の藍色の影が見える。杉の木立の中でその影は静かに佇んでいて、ゆっくり離れてゆくハナの背中を見守っている。さっき後にしてきたばかりなのに、もう見えなくなってしまいそうだわとハナは思った。まるで影絵のように、ひっそりと息をひそめてたたずむ梢の道を、ハナはひたすら歩く。しかし、その歩みは心なしか重くもある。
歩きながら、ハナはいつの間にかつぶやいていた。
「わたしったら、何をしているのかしら、…」
真冬に女一人が暗い道を歩くなんて。我ながら正気とは思えなかった。そして、どうしてこんなことをしているのかすらも、ハナは知らなかった。それを考えようとすると、意識がどんどんもやの中をさ迷うようになって、分からなくなるのだ。
しかし、何かがハナを動かしていることも、またわかっていた。ハナの中にいる誰かが、耳元に囁いているのだーこの道を行け、と。ハナはただその声に導かれるまま、この道を歩いていた。
そうしてひたすら景色も変わらぬ道を歩いて、ーいつからだろうか、どこからか歌声が流れてきたのだった。それは風の音か、空耳なのかわからなかったが、ハナはそれに耳を澄ました。柔らかい、たおやかな旋律に乗せて、歌詞が聞こえる。
…An Brunnen vor dem Thore…
「あっ、・・・」
それは、ハナの知る曲だった。なんであったかと何度も反芻するうちに、いつの間にかメロディーは鼻歌となって体の外へ流れていた。それに合わせて足を繰り出すうちに、いつの間にかどんどん早足になっていた。時折吹きぬけてゆく風に身震いしながらも、どこかホカホカと体の芯は暖かくなってゆく。マントを握りしめる手が汗でぬれて、心臓がぽんぽんと軽やかに脈打っていた。こんな感覚を、どこかで味わった気がする。
背筋をまっすぐ、一直線を歩くように。いつかばあやが口うるさくいったことだ。なぜかそれが思い出された。胸を張って、けして緊張することはない。いつも通りに、いつも通りに。
ハナはふと足元を見下ろした。コツコツと床を高らかに鳴らすそれはいつの間にか古いブーツから真新しいものに代わっている。どこからかライトが上からいくつもハナを照らしてまぶしい。ハナは大きく深呼吸して、きっと目の前をにらんだ。そこには黒い影に沈んだ何百人もの人が、拍手をしてハナを見ていた。
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