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柔らかな風が吹いている。
ハナは立ち上がった。目を恐る恐る開けて、景色を確かめる。
そこは、小さく開けた土地だった。足元に目をやると、そこにはうっすら芝が生えていて、ほとんど砂のような土があらわになっていた。そこからゆっくり先のほうへと視線を向けると崖のようになっており土地が途切れ、その下には石造りの家々が見えた。その間に張り巡らされた道はきれいに整備されており、その道が集まる広場は、朝日にきらきらと輝いている。と、遠くで白い点のような鳩の群れが群青の空へ飛び上がるのが見えた。
ここはどこ?
ハナは我が手を見下ろした。血管が青く浮き出て、細く節だった指。それを見たとたんに、急に疲れた気分になった。
「またここにいらっしゃったのですか、ご主人様」
ハナが後ろを見ると、そこには白い髪をしたフロックコートを着込んだ男が立っていた。手には厚手のコートを持っている。
「馬車で追いかけてきたのですよ。おはようございます」
「わたくしは、…」
ハナは自らの声にぎょっとして思わずのどに手をやった。あの自慢だった声がどこに行ってしまったのだろうか、老いたおばあさんのような、震えた声だった。そのまま無造作に頭に手をやると、手に何本かの白髪が抜け落ちた。いや、しかし、もしかしたら本当に―。
その様子を見ていた男は微笑んだ。その顔から悲しみや憐憫がにじみ出ていた。
「ここはリンツですよ、奥様。ここは日本ではありません。オーストリアです」
ハナはぼんやりと男の後ろを見やった。同じく石造りの、大きな城が立っている。フロックコートの男がゆっくり歩み寄ってきた。
「わたくしは奥様の執事でございます。さあ、こちらに暖かいコートにマフもございます。どうぞお付けになってください」
そう言って執事はハナの背中にコートを優しくかけた。
「…知っているわ」
ハナは小さな声で答えた。
「知ってるわ。ここはリンツよ。那須のお屋敷じゃない」
ハナは来た道を見やった。そこには二頭立ての馬車が止まっており、その両側にモミの樹が城までどこまでも並んでいる。
「お父様もお母様も亡くなったの」
ハナは一人自分に言い聞かせるように言う。それを見た執事は、ますます悲しそうに眉をひそめた。
「ただ、…ただね」
やはりハナは独りごとのように言い続けた。
「わたくしは夢を見ていたのよ。とってもいい夢だったわ、わたくしがお嫁に行くときの夢よ。若かったわ」
「そうですか」
執事はただそう返事をしたのみだった。ハナはその返事を聞きながら、もう一度眼下に広がる景色をしばらく眺めていた。今まで忘れていた何か重いものが、再びその背中にのしかかったかのような気分だった。
やがて執事に促されるまま、ハナは、馬車のほうによろよろと歩み寄った。一歩、また一歩と何とか歩きながら、ハナは地面を見下ろしたままかすれた声で詩をつぶやいた。
Die kalten Winde bliesen
Mir grad’ in’ s Angesicht
Der Hut Flog mir vom Kopfe
Ich wendete mich nich
冷たく風が吹いた
まっすぐ私の顔に向かって
帽子はわたしのあたまからとんでいったけれど
私は振り返らなかった
「本当にこの詩のとおりね」
ハナはそう言って小さく申し訳なさそうに笑った。
「そうだったわ。わたくしはとうとう、あの那須野が原にご挨拶をしないでここへきてしまったのよね」
ハナはそう言って、何度も小刻みにうなずいた。
「そして、結局答えもわからずじまいだった」
「ええ、そうでしたね」
そういって優しく頷く執事は、すでにその話を何度も聞きなれた様子だった。そして、少し間を開けてから静かにハナに語り掛けた。
「シューベルトの菩提樹には最後の六番があったでしょう。それを歌ってごらんになってください、マダム」
「いいえ」
ハナは自嘲気味に低く笑った。
「あの頃の歌声はもう私にはないわ」
「いいえ、マダムの歌声は健在です。歌ってごらんなさい」
ハナは立ち止まり、ゆっくりと背後を振り返った。そこには、やはり変わらずリンツの風景があった。
ハナはおずおずとうたいだした。
Nun bin ich manche Stunde
Entfent von jenem Ort
Und immer hor’ ich’s rauschen
Du fondest Ruhe dort!
今となってはたくさんの時間が過ぎた
私はあの場所から遠く離れたところにいる
だが私には絶えずあの木のざわめきが聞こえる
あそこではあなたは安らぎを見いだせたのに
ハナの歌声は透き通るようで、リンツの街並みより遠くに飛んでいった。それとともに、心が軽くなってゆく気がした。
ああ、那須野の大地よ。
ハナは心の中でそう呼びかけた。今なら分かる。ハナのほほにはいつの間にか涙が伝っていた。
わたしにもちゃんと故郷(ふるさと)があったのね。
たくさんの思い出がよみがえってくる、あの地が。景色の一つ一つにハナの様々な感情が編み込まれている、あの地が。いつもハナを歓迎し、見守ってくれていたあの地こそが。
「こんな歳になるまでわからなかったわ。お母様のおっしゃったとおり、答えは出ていたのね」
ハナはそう言って楽し気に笑った。
「もしかして、那須野が原は怒っているのかしら。わたくしがとうとう帰ってこないことに」
「いいえ」
執事は穏やかな表情で首を振った。
「ずっと待っているのです。奥様が訪れられずとも、そのご子息を、そしてその孫を。そうしてこのリンツとかの地はつながっているのです。奥様の心の中にかの地がある限り、ずっと。それを伝えたくて、こうして奥様の夢に現れたのでしょう」
「そういうものなのかしら」
「そうですとも」
ハナはモミの樹の道の端に立った。目を閉じると、風がハナの横を通り過ぎ、道の果てに吸い込まれていった。それは少し暖かく、春を思わせた。そして、湿った冷たい土の残り香だけがハナの鼻に強く薫った。それはどこかで確かにかいだことのある、懐かしい香りだった。
ハナは心の中で、農場を貫く杉の並木道を思った。その先には、青と白の館が輝いている。その前に立っているのは、お母様とお父様だ。ハナのほうを向いて、にこやかに笑っている。その上を、朱色からすみれ色、濃紺へと変わる那須野の幻想的な空が覆っている。その全部が、ハナにこう言っていた。
いつまでも待っている、と。
ハナはゆっくり目を開けた。そして、道の端手を見つめた。ハナはその道の果てに、おぼろげな、しかしはっきりと、あの縹色の影が確かにそこに佇んでいるのを見た。
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