縹色の影

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ハナはドレスをちょっとつまんで優雅に礼をすると、ピアノの伴奏者に目配せをして歌い始めた。曲はシューベルトだ。軽やかな伴奏の後に、ハナが静かに歌い始めると、会場中の目という目は皿のように丸くなって自分に注目し、息をのんで歌声に耳を澄ますのがありありとかんじられた。 Am Brunnen vor dem Thore Da steht ein Lindenbaum: Ich träumt' in seinem Schatten So manchen süßen Traum いつの間にか緊張が吹き飛んで、ハナはとにかく夢中で歌い続けた。自分の声が会場全体に響き渡ってゆくのが気持ちいい。たくさんの人が自分の歌声に耳を傾けてくれるのも初めてだった。練習であれほど苦労したフォルテも、ピアノも、クレシェンドもデクレシェンドも、なぜか自由自在に歌いこなせる。まるで魔法のようだ。 そうして無心に歌ううちに、気が付くとあっという間に歌はすべて終わってしまった。やがて伴奏も終わり、ほっと一息つくと、会場は拍手に包まれた。目の前に座っているはかま姿の女学生たちは、ぼうっとしてハナを呆けた顔で凝視している。ハナは我を忘れたまま、深深と礼をした。ステージを降りる足もおぼつかなかった。 「ハナ様、素晴らしかったわ。来賓として素晴らしい演奏だったわ」 コンサートが終わってから、ホールのロビーである夫人がハナに話しかけてきた。ハナはいまだ夢の中のような心地がしていたので、急に話しかけられ何とか言葉を返した。 「そうおっしゃっていただけて、うれしいですわ」 「あの曲はなんていう歌詞でしたの?何度も何度も同じ節で歌ってらしたのね」 「ええと、そうですわね、リンデンバウム、日本語で言うところの菩提樹という樹だそうですわ。あの、井戸の前にある菩提樹の陰で夢を見るというのが一番で」 何しろ六番まである曲なので、どうまとめたらよいかと一生懸命考えて何とか説明していると、そこへ貴族らしい男が歩み寄ってきた。ハナと夫人が会話をしているのにも構わず、男はあいさつした。 「青木周三大臣のお嬢様ハナ様ですね。いや、最後のシュウベルトは素晴らしかった。まるで今日の主役のようでしたな」 そう言って礼儀正しく礼をする。父と同じぐらいの年かそれより若くみえた。痩せて、顔色の白い一重瞼の男だ。急に話に入ってきた男に驚きつつ、ハナはあいさつを交わした。 「はあ、ありがとうございます」 「私はかねがねお父様にお世話になっている者です」 そう言って、男は自分の名前と政府での立場を言った。ああ、とハナは合図地を打った。父が母に何度かその名前を言っていたのを聞いたことがあった。 男は猫なで声のような、妙にご機嫌を取るような優しい声で言った。 「いや、今日は私の娘も実は出演していたのですよ」 「あら、そうでしたの。ご卒業おめでとうございます」 「これは光栄ですな、青木のお嬢様にそうおっしゃっていただけるとは、ぜひ娘に直に聞かせてやりたかった」 そういって、男は笑う。しかし、ハナはそこに明らかな敵意を感じていた。 ハナの少し引きつった笑顔を見て何を思ったのか、男は何かをとりなすように言った。 「いや、娘といいましても何とも出来の悪いものでしてな。よしておけばいいのにこんな学校に通いたいといい始めて、卒業したといっても歌も下手なままとうとう着物の一つも満足に縫えないまま17になってしまった」 「いいえ、お嬢様のお歌も素晴らしいものでしたわよ」 それまで黙っていた先ほどの夫人がいうと、男は一層大きな声で笑った。「まさか!」 ハナはゆっくり、夢が覚めていくのを感じた。ホールの入り口に掲げられた幕には、「東京音楽大学卒業発表会」の文字が並んでいる。その黒い字がハナの目に痛い。ロビーには卒業した女学生たちとその親族たちが何かをしゃべっている。その人たちがみな、ハナを白けた視線で見ている気がした。嘲り、蔑み、疎み、妬み。ハナにはいつもそれが付いて回る。上手く逃げられたと思うのに、楽しくなっているといつの間にか追いついてハナを驚かそうと背中に潜んでいるのだ。そして虚を突かれたハナを容赦なく襲う。 ああ、また。 ハナは思った。 どうしていつもこうなってしまうのだろうか。 男は話し続けている。 「青木のお嬢様には到底足元にも及びません。何しろ、こんな私どもとは違うのですから」 男はそう言ってもったいぶるように言葉を切った。 「どういうことでしょう」 精いっぱい皮肉を込めて言い返したつもりだった。しかしそう言ったハナの声は、自分でも驚くほど弱弱しかった。男はその白い顔に薄笑いを浮かべて言った。 あのお母様と似ていらっしゃるから。
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