縹色の影

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 歌を歌いながら、ハナは母の姿を思う。心の中の母の姿は、洋傘を手に佇んでいる。母が身に着けているのは、ずっと大切にしまっていた故郷のものだ。前掛けにコルセットのようなものをブラウスの上についてる少し風変わりなものだが、母が身に着けるとドレスと母はぴたりと似合っている。 その母がこよなく愛した歌、それがあのDer Lindenbaumだった。 心の中の母は己の国の言葉で言う。ここは果てしない海と陸地で隔てられた愛しい故郷にどこか似ている、と。その後ろには、あの那須の館が佇んでいる。  ハナは長く住んだ東京の屋敷よりも、この館を愛しく思っている。この屋敷で、那須野の大地で、ハナが見たものは美しい夢のようだった。  神聖な雰囲気をたたえる那須連山は、夏には真っ青に染まり、秋には炎のように真っ赤になる。その上を果てしない空が覆っている。空とはこれほどまでに広く、青く、深いものだったのかとハナはこの地で知った。 そして、辺りを包む香ばしい土の匂い。気の遠くなるほど多くの人が鍬で耕し、種をまき、豊かにしていった那須野我原の大地のにおいは、脈々とつながってきた力強い生命そのものだった。  ここにいるときだけ、ハナは本当の安らぎを得られた。東京で負ったすべてのしがらみが、この地にいるとすべてするすると解けてゆく。ここにいるときのハナは何者でもない、ただ大いなる自然の一部だった。何者かになろうとする必要もなかった。 そしてそこに、あの青と白の館が静かに、しかし堂々と建っていたのだ。父が建てさせた、自慢の洋館だ。抜けるような白塗りの壁に、青い瓦の、まるで陶磁器のような館。その色は、那須の空と大地にぴったりだった。 あの青と白の館でも、ハナはあの歌をよく歌を歌った。
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