縹色の影

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あの日もそうだった。洋館に作られた唯一和室のちいさな窓は開け放たれて、部屋の中は初夏の風でいっぱいだった。その中に、ハナと母で二人だけ、くつろいで座っていた。 窓の外を眺めると、見る限り一面農場が広がり、遠くの山の峰が薄紺色にかすんで見える。そんな農場の真ん中を杉の並木に挟まれた一本道が地平まで伸びていて、その濃い緑色の葉は昼間の太陽の光で柔らかく照っていた。さっきその道を通って行った父の馬車の轍がかすかに残っていた。  ハナが歌い終わると、母は拍手した。  「ハナの喉は大事にしなくちゃだめね」 どうして?と言って母のほうを振り返ると、髪を上げたばかりで首元が涼しく感じた。髪を下ろしていた頃より頭が大きくなったように感じて、実は余り気に入ってはいなかった。母は珍しく穏やかだった。こうして髪を上げてやっとおてんばが治り始めてから性格が丸くなったような気がする。 「だって、あなた、私が言ったって大事にしないじゃない。ドラ声のお嫁さんなんて、だれがもらってくれるっていうの」 「大事にしてるじゃない。毎朝お母様がおっしゃる通りにあつーい、あまーい紅茶を頂いてますもの」 「ねえ、ハナ。本当に、お前はその声を大事にしなくては駄目よ。とてもいい声なんだから」 「わかったわ、わかったから」  母は気の強い人だ。己の体に流れる血のせいだろうか、確固とした己は決して曲げることはなく、普段ははきはきとして歯にもの着せぬ言い方をする。それは使用人にもハナにも、まして父にも変わらない。父と母は意見が相容れず時に激しい言い争いをする。しかし、こうと決めたら他人に口出しさせないのは父も同じで、その二人の血を受け継ぐハナもたいていは叱られても何かと言い返すので、喧嘩が何日にも及ぶこともあった。  しかし、頑として意思を持つ父と母だからこそ、とおい国の隔てや己の血のしがらみがあっても結ばれたのかもしれない。父は婚約者がいたというのに母を連れて日本に帰国し、母もその父の言葉を信じて極東の地に行ったのだから。  そして、その二人の間にハナがいる。  
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