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振り返ると、もう元来た場所は杉の木立に隠されてその影さえも見えない。いつの間にか遠くに来てしまったわ、とハナは独り呟いた。気が付くと、だんだんと東のほうの空が明るくなっていた。急がなければ、とハナはもっと速く歩き出した。そして、母の言った言葉を考え続けていた。
わかっている―何を?
ハナは一人自分に問いかける。何を一体私がわかっているというのだろう?
ハナの行く道はまだ続いている。しかし、その果てはまだ遠い。
こういうとき、お父様に無理を言って馬車を出してもらったのだけれど、と吐く息も白くハナはふと思った。二人乗りで黒塗り、恐ろしく大きなランタンのついた、お父様の馬車。ハナは気が付くと地面にかすかに残った、どこまでも続く二本の細い線を目でたどっていた。
ハナの瞳には、その轍の上を、一頭立ての馬車が暗がりを走っていくさまが映っていた。ひゅうひゅうと風を切り、栗毛の馬の吐く息は白く、幌馬車の煤のついたランタンのガラス越しに黄金の光が滲んでいる。
くしゅん、とハナがくしゃみをした。馬車の座席でみじろきし、ショールをかき集めながら隣を見ると、立派なひげから覗く父の鼻も赤い。
「お父様、寒いわね」
「そうだな」
そう言って、父は馬を鞭打った。冬の空気を切り裂く鋭い音が杉並木に響く。その音がどうにも寂しくて、誰にともなくハナはしゃべる。
「朝日、見れるかしら。きのう働きに来ているお百姓さんに聞いたのよ。最近は天気がいいから、朝日もきれいだって。でも農場から見れる朝日が一番きれいなんですって。ほかのお方の農場じゃなくってよ。ほめていたわ」
父はうんともすんとも言わない。それもそうであろう、昨日の夜もした話だった。ハナはそう言って、父に朝一番に馬車を出せと頼んだのだ。とうきょうの景色にもみおとりしねえべ、と誇らしげにいう百姓の男の言葉に、ハナはきっとそうに違いないと思った。
ふと背中のほうを覗き込むと、両側の杉の間からお屋敷が見える。早朝でまだ日も出ていないというのに、真っ白の瀬戸のような壁に、屋根に敷き詰めた青い瓦のお屋敷は光るようだ。あのお百姓はこのお屋敷もしきりとほめていた。ほかのお方でなくて、この青木の家の青瓦のお屋敷に奉公に来るのが心底誇らしいのだと、嬉しそうに話していた。聞いているハナもそれが誇らしくて、うんうんと男の言葉に一生懸命うなずいたのだった。男のしゃべり方は東京のそれとは違って訛りがきつかったが、ハナは全く気にならなかった。それは、男がただ純粋にハナをかわいがってくれていることをハナはちゃんとわかっていた。
そうして二人でお屋敷を眺めると、午後のきらきらした光が反射して、まるで夢のようだった。だから、この農場から見える朝日も格別なのだろうとハナ信じてやまなかった。
絶対きれいよ、お父様も来てよかったってきっと仰るわと念を押すと、父は返事の代わりに鼻をすすった。手綱を握る白いカシミヤの手袋が目に痛く、ハナは内心少し後悔していた。
早朝に自分を叩き起こして馬車を用意させ、さっきまでぺらぺらとしゃべり続けた元気はどこへ行ったのだろうとでも言いたげに、急に黙り始めた娘を父は眼鏡越しにちょっと覗き込んだ。
「なに、夜明け前につくだろう」
「そうじゃないのよ」
ハナは首を振って言う。そして、なんといっていいやら言いあぐねて言う。
「だって、きっとお母さま怒るわ」
「お母様か」
父はそう言ってちょっと黙り、
「それはそうだろうなあ」
と言った。こんなことをしでかしたら、お叱りは免れないだろう。
いまさらながら、どんな顔をして帰ったらいいのかしらとハナは頭が痛くなった。母はきっと、強い調子でこう言うのだ。こんな朝に従者もつれずになんてことをしたのです、ハナ。年頃のあなたに加えてお父様が風邪をひいたらどうするつもりだったのですか。お父様は大事なお仕事があるのですよ。それにこんな山奥でクマにでも出くわしたらどうするつもりだったのです―。
「ねえ、本当にごめんなさい、お父様」
いたたまれなくなって、とうとうハナは言った。
父はそんなハナをまたちょっと見て、そのまま右の手のひらをハナの頭の上に乗せた。
「お父様は大丈夫だ」
「本当?」
「ああ本当だ、それにハナとはすぐに二人で馬車も乗れなくなってしまう」
ハナははじかれたように父を見た。
「どういうこと?」
「そうだなあ、あと10年もしないうちに、ハナはすぐ大きくなって、お母様のようにべっぴんさんにになって、お父様なぞ置いて行ってしまうということだよ」
「そんなことしないわ!」
ハナは必死に言った。急にお父様が遠くに行くように感じて、ぽろぽろ涙が出てきた。
「ハナはそんなこと―そんなことしないもの」
そういってハナは泣きじゃくってしまった。そうして泣いているハナの頭をやはりお父様はただ優しくなでていた。
「ハナはここが好きよ」
やがて泣き止んだハナが鼻声になりながら言った。
「あのお百姓も好き。この道も好きだし、農場も好きよ」
「そうか」
父はただ静かに合図地を打った。あのね、とハナはちょっと照れ臭くなりながらつぶやくように言った。
「わたしね、こういう場所をね、ここに帰ってきたいって思える場所をこういうんだと思うわ―」
その言葉が終わる間もなく、父は不意にはっと正面を見て珍しく大きな声で鋭く言った。
「もうすぐだぞ」
あわてて顔を上げると暗い杉並木の道の果てに、ぼんやりとまばゆい光の帯が伸びている。ハナは息をのんで、ほほを上気させた―。
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