縹色の影

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 がらがら、と馬車の音でハナは我に返った。見ると後ろから、二頭立ての馬車がやってきている。ハナはぎょっとして、慌てて道の脇にそれた。馬車は気にも留めず、地に響くような音を立てながら、ハナを横切って行った。そのまま、馬車は並木の果てに吸い込まれるように行ってしまった。 ハナは慌てたせいで息も荒く、その後姿を見つめていた。そうしながら、こうしているうちにもお母様に起こられてしまうかもしれない、とふと考えた。そうしてふっと笑いがこみあげてきて、思わず低い声で笑ってしまった。 そろそろ日が出始めたらしい、地面と溶けていた自分の影がうっすら見え始めていた。見上げると、梢のてっぺんも、心なしか少しだけきらきらと白く光っている。空にもはっきりと、朝日の光の帯が何本も伸びていた。 ハナは急いで走り出した。その口は自然とうたっていた。あの時のコンサートのように、歌声はのびやかに響き渡った。 Und seine Zweige rauschten Als riefen siemirzu: Komm her zumir, Geselle Huer findst du de ine Ruh’! そしたら 枝がざわざわと音を立てた  私に呼びかけるように  ここに、私のところにきなさい、若者よ、  此処で君の安らぎが来ますよ!  そうだった、とハナはやっと思い出した。私は朝日を見なければいけなかったのだ。  もうすぐ、父の言葉が現実になろうとしていた。ハナはもうすぐ結婚する。相手はさる伯爵で、ハナの境遇を理解してくれたうえで、結婚を申し込んでくれた。ハナはそんな彼と一緒に、彼の故郷に行くことを決意した。若き日の母がしたように、一度かの地を踏んだら、もう二度と戻ってこれないことは覚悟の上だった。そうしているうちに、気が付いたらハナは父にどこへも行かないと駄々をこねた九歳のあの日から、ずっとずっと遠くに来てしまっていた。 しないと約束したのに、結局はお父様とお母様を置いて、ハナは新たに旅立とうとしている。何より、この那須の地にさえも別れを告げようとしている。  だから、ハナはどうしてもこの杉の道を歩かねばならなかった。ハナは父と見たあの時の朝日を覚えていない。だが、この那須野が原の地なら、あのお百姓がほめてくれた朝日を最後にもう一度見れば、なにか教えてくれる気がした。何か自分が今まで欲しかったものが、いうなれば答えのようなものが、わかるのだと思った。それをどうしてもここを去る前に知りたかった。  道の終わりが見えた。そこから太陽の光が漏れ出て、景色が白くかすんでいる。ハナはそこへ向かって一直線に走る。吐く息は白く、足の指の感覚はほとんどない。それでも、急がなければならなかった。朝日をどうしても、見なければならなかった。 すると、一瞬ぱっとまばゆく、一面が白い光に包まれた。吹き飛ばされてしまいそうなほどの、強く冷たい風がハナに容赦なく襲い掛かった。ハナは思わず目を閉じ、両手でわが身を抱えてしゃがみこんだ。
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