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「もし、旅の御方。あなたが都のほうからいらしたならば、我が兄の消息をご存じありませんか」
風の晩に、満月の照らす蓬生の丘で私が出会ったのは、このあたりの少数部族の若者だった。戦に長けた部族と聞いており、遭遇しないように気をつけていたのだが。
若者は部族の者と分かる衣装を着ているものの、体つきはひょろひょろとして虚弱のようだった。
月に映える銀色の髪に透き通るような白肌を持っていたが、可哀想なことに少々精神を病んでいるか、またはその成長に遅れのある様子。
私は僅かながら警戒心を解き、彼の話を聞くことにした。
要領を得ない彼の語りを聞いてまとめた所によれば、若者の兄は里の頭としてこのあたりの部族をまとめていたが、皇帝の徴兵にあい、あるとき突然、他の青年らとともに召し出されたのだという。
「尊い御方に仕えるために、兄上さまは都に行かれたと伺いました。
兄上さまは旅立つ前に、僕に約束したのです。
『三年経ったら、役目を終えて郷里に帰されると聞いている。その間、お前をひとりにしてしまうのは心が張り裂けるようだが、必ず戻ってくるから俺を信じて待っていておくれ』と」
それ以来、兄が遠方より寄せてくれる手紙だけを心のよすがにしてきたのだと若者はいう。
なにか手掛かりになればと数通の手紙も見せられたが、私は首を振って君の兄上のことを知らないのだと、答えるにとどめた。ずいぶん昔の手紙だった。そう答えるしかなかった。
手紙のなかで彼の兄は、見た目よりも精神が幼い弟にも分かりやすいように、国境の戦軍に駆り出されていること、まだ帰れないことを伝えていた。
若者は残念そうに私に礼を言い、大きな巌石の上に腰かけて、また東のほうを眺めている。
風が強いから、家に帰ってはどうかと私は諭したが、兄が出て行ったのは三年前のこのような風の日だったから、この風が吹くと兄が都から帰ってくるような気がするのだと彼は答えた。
朝日が登るころ、その方角へと旅立ったから、きっと朝日の方角から帰ってくると。
若者が手にしていた最後の手紙の日付は、少なくとも四年前。
たしか国境をめぐる激しい戦いがあったのは、そのころだ。戦に負けたこちらの国は、国境沿いの領土を敵国に奪われ、多くの兵が斃れたか、捕虜になったときく。
証拠もなく彼にそのあたりの事情をあれこれ話すのはよくないだろう。
手紙の最後の文はこう結ばれていた。
『俺の愛しいイオ。逢えるのはもうすぐだ。俺が戻るころにはお前ももう成人。誰にも内緒で、二人だけで本当の家族の契りを交わそう。戦が終われば帰る。
俺が万が一、戻らなければ、お前のことは叔父上に頼んである』
本当の家族とはどういう意味だろう。部族特有の言い回しなのか、それとも若者と彼の兄には本来、血の繋がりがないのか。
それにきっと身を寄せている叔父の家は居づらいのだろうなと、余計なことだが推察した。あの体では、部族の戦士にはなれないだろうから。
その若者――イオと、兄上がいつか再会できる日がくるだろうか。
振り返って丘の上を見れば、彼の銀の髪に月の光が反射して、神々しい光を放っていた。美しい青年だった。生まれる場所を間違えさえしなければ、彼の容姿と無垢な精神はきっと周囲から祝福を受けていただろうに。
私は彼の背に向けて何度も、何度も幸運の神の印を切った。
どうか彼の兄上が生きていますように。
彼のもとへ無事に帰還しますようにと。
百人一首75番
「契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり」
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