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ソファから突如現れた芹沢藍音は、サイドテーブルにおいた充電中のスマホを見て
『うゎ…こんな時間…シャワーまだだし…』
と呟いた。
もう終電の時間は過ぎている。
「あの…時間大丈夫?どこ住んでるの?俺も今日煮詰まっちゃって帰ろうかと思ってたから、タクシーで一緒に…か…え…ならそぅ…ですよね…」
そんなめんどくさそうに睨まないでよ。
襲わないし。
穣二さんからあなた黒塗りの車に乗ってるヤバそうなのと付き合ってるって聞いてるし…。
藍音はため息混じりにふっ…と笑った。
『住んでるのは成城。でも帰らない。いまこの場所に住んでるの。』
「〝ミリオン〟に…?」
『そ。』
「なんで…?とか…聞いてもいい…?…だめ?」
『ねぇ、なんかずっとビビってない?』
至近距離に顔を近づけてくる。
警戒心はないのですか、あなたは。
『男でもめたの。彼氏に買ってもらった家だからさぁ…住めないでしょ。家出るでしょ。新しいとこ見つかるまでここにいるつもりなんだけど、仕事もライブも忙しくて探してる暇ないし〝ミリオン〟居心地いいし…なんかずるずるでさ。そろそろ探さないと色々面倒なんだけどね。』
チョットマッテクダサイ…。
成城のおうちを買ってくれる彼氏なのですか…。
それはヤバそうです。とっても。
「…た、たいへんだね。彼氏さんとの喧嘩は、謝って済む話じゃない感じなの……っていうか、スミマセン。立ち入ったこと…」
『だからぁ…なんでそんなビビるの?怖い…?』
深めのため息をひとつついて藍音はソファに沈んだ。
『厳密に言うと彼氏とは喧嘩してない。したことない。なんつーの?彼氏の周りと…?…うまく言えないけど。彼氏には、理由もなくただ“もう別れよう”ってメールだけして出てきたけど、彼は今海外で仕事中だから、未だに私が出てったこと知らないんじゃないかな…?もともとそんな頻繁に会わなかったから、このまま終わるかもね。』
複雑な笑顔を浮かべて、すこし泣きそうな顔をするから、その向こうに隠れた闇の色も見えた気がした。
「…ごめん。」
『りょーに謝られてもねぇ…』
「だよね…」
重い…
重いよこの空気。
イイコト言ってあげられない…
『りょー…?』
「なんか…ほんとごめん」
『りょーぉー!』
「あ…あの…?」
『リョウっ』
「なにっ?」
『いいね名前。超呼びやすいね。いいね。りょーうー!ぉぃリョ!どーゆー字?』
「凌ぐに、宇宙の宇っ!」
『きゃはははっ…!なにそれ、宇、要らないじゃん。りょううじゃん。伸ばす設定!ウケる…キャハハハハ…』
は…?
さっきまでの暗い空気なに?
いきなりの一人完結マシンガントークなに?
「アイネは?ラブに音?」
『はぁ…やばいツボった。りょうううう…う多いわ!』
「ねぇ…。」
『はぁクルシ…。あ…あいね?夜の音楽の色だから、藍色に音だよ』
「夜?」
『アイネクライネナハトムジークから来てんの。ちなみに兄ちゃんはモーツァルトから取って有人。有名なヒトって書くのに全然有名になる気がなかった。マジウケるっしょ…!きゃはははっ…』
「アイネ、クライネ…?」
『え…?知らない?嘘でしょ?たーんたたーんたたたたたたーん♪だよモーツァルトの。』
「あぁ…知ってる…音楽好きのご両親なんだね…うちの親も音楽すきだよ」
『…りょうう…ぷははっ…』
「…まだ笑ってんのかよ…“うう”じゃないっつってんのに…」
よくわかんないけどコイツのノリがある。
巻き込まれる系の。
引っ張られる系の。
周り見てない系の。
俺が少し苦手系の。
お腹を抱えてひーひー言ってる藍音は言葉も発せず片手をピラピラ振ってみせた。
『ねぇ明日も来る?』
「…え?あ…いまなんか完全煮詰まってて、明日はばっさり仕事やめてどっかいこうかと思ってる…」
『そっか…。私ここに住んでるけど、気にしなくていいから。凌宇は有名人なんでしょ?私に手なんか出したら大変なことになるじゃん。だからなにもしないってわかってるからさ、気にせず作業してていいから。ヨッキューで、手ぇ出したきゃ出してもいいけどぉ…こっちもフリーほやほやだし。あははっ』
どこまで本気だよ。
「…。俺は彼氏がいるやつに手出しなんかしないし、藍音は俺のタイプと違うから安心しろよ。」
ため息混じりにそう言うと、藍音はおもいっきり舌を出してべーっとおどけたあと、悲しげに微笑んで俯いた。
あれ、傷…つけたか…?
こういう返しも大丈夫なやつかと思ってちょっと言い過ぎた…?
『今度会うときはさ…晴れるといいね。もう帰るんでしょ?おやすみ。』
「…うん。」
〝ミリオン〟を出てタクシーの後部座席に沈みながら曇った夜空を見上げた。
どうして次に会うとき晴れててほしいんだろう?
バカみたいに明るくて遠慮のない態度と、最後にみた苦しげな作り笑いが、脳裏に乱反射して、夜より眩しかった。
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