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俺の顔のすぐ横に藍音の右手がまっすぐ伸びて、俺の唇の目の前では鋭い光を宿した切れ長の瞳が俺を見上げて光っている。
「…あ。」
『あ。じゃないよ。立ち聞き?』
藍音に“逆壁ドン”ってやつを食らっていた。
「いや…え…っと、とおりがかり?」
苦しい。
苦しすぎる。
『どっから聞いてた、水原凌宇?』
「...えっと、“芹沢藍音は男が喜ぶツボを知りすぎてる”あたりから」
『ふーん………じゃぁ、まぁまぁセーフだね…。で?そっからずっと黙ってここで聞いてたわけ?』
「だって…藍音…やめなよ…」
『は?』
「よくわかんないけど、お金大変だからなんでしょ?だからってそういう...関係が微妙かもしれないけど、彼氏さんだって悲しむし、もっと他に...」
『ちょ、ちょっとまって。…なんか卑猥なこと考えてない?援助交際的な。春売ってます的な。』
「...違うの?」
『ぷはっ!ほんと男ってどいつもこいつも考え方がエロ回線なんだね。』
「じゃあなんだったんだよっ」
『言えない。』
更なる追求を許さない威圧感で被せ気味に迫ってくる。
『言わないこと含めてのこの金額だから。』
藍音は分厚めの封筒をヒラヒラさせた。
「なんだよそれ...」
藍音は壁ドンを離して冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、一気に半分ぐらいぐびぐびと飲み干すと長めのため息をついた。
『でもそれって私が一番大嫌いなパターン。聞いてくれるの待ってるみたいな。だから凌宇もいまちょっとイライラしてるでしょ』
「……まぁ、そーだね。」
『本当に申し訳ないけど、契約上言ったらダメなことになってるのよ。』
「なんだよそれ。」
『身体は売ってない。それは信じて。そこまで落ちてないし。凌宇はこの間、ラブホリのライブの前の音合わせ、聴いてたよね?』
「…聴いてたけど」
『どの曲がよかった?好きか嫌いかじゃなくて、どれが印象に残ってる?』
あの日の藍音たちの演奏を思い出す。
侵食される
絡めとられる
恐ろしさすら感じたリハーサル。
「…あの猫のやつ。片想いの女の子の切ない想いかと思いきや最後飼い猫だったのがわかるやつ。歌詞もひねってたし、メロディラインもキレイだったし、俺はあのフレンチポップっぽいアレンジがいいと思った。あと、発売前でオンエア解禁になったばっかりの曲、ロックにアレンジ変えて完璧に仕上がってたのがすごかった。」
藍音は満面の笑みを浮かべた。
『さすがだね。ほとんど正解にたどり着いてるじゃん。絶対、言わないでよね。』
は?
なにが?
なにもわかんねーのに、なにもいわねーよ。
ほんと生意気でイラッとする。
本気で心配してやったのに、なんでこんなに追いつめられなきゃなんないんだよ。
「何してるのか知らないけど、ちゃんと言えないってのは良くないことしてるんだろっ!」
『さぁ…?』
「そんなことまでして手にしたお金で何したいんだよ。」
『それは…』
「それも言えないようなこと?」
『んー…せつびとーし。』
「は?設備投資?機材とか買うお金ってこと?」
『んまぁ…そんなかんじ。そこらに売ってるようなものじゃなくて、世界にひとつのヤツ。』
藍音はステージと、フロアに貼られたラブホリのポスターに目をやると、悲しげな表情を浮かべたあと優しく微笑んで、バーカウンターに腰かけた。
『…今日来ないんじゃなかったの?』
話を…あからさまにすり替えられた。
「1回休んでリセットするつもりだったけど仕事残りすぎてて休むことにビビったんだよ。」
『まっじめー。仕事の虜なのね。もう帰る?もうすこし仕事やってく?』
やっぱり、苦手だこの子
全然周り見る気もなくて
強引に引っ張り回される
「まだいるけど…」
『ねぇ…ちょっとつきあわない?』
初めて〝ミリオン〟に来たとき、遅れたサツキが飛び込んできた中二階の奥の扉から出て、屋上に連れていかれた。
夜はまだ少し肌寒い風が吹く。
ここ最近、自分の家か、移動の車か、スタジオか、どこかしらの屋内にしかいなくて、そもそも外気を吸ってなかったんだなってことを思い出す。
高原でも早朝でもなく、ごちゃついた町中の夜の始まりの時間、たかだか3階の高さの屋上だっていうのに、世界を愛おしむように空を見上げて、ゆっくりと深呼吸した。
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