琥珀のパンケーキ

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琥珀のパンケーキ

琥珀。樹液が固まって、鼈甲色に瑞々しく輝く。 何年も何年も、たった一人で静かに固まる。 これは記憶です。樹木の記憶。これ以上ないほどの密度で密集した木の繊維の隙間から、時の流れをジッと見つめて、胸の内に静かに記憶を留めます。けれど、時に一人の寂しさに耐えられないものもいて、美しい蝶々だとか、勇敢な蜂だとか、控えめな蜘蛛だとか、気に入った動物を自分の中に閉じ込めてしまうのです。 永遠の時の中に閉じ込められた動物は、ただジッとしています。 彼らの思いは誰にも推し量ることなど出来ません。深い悲しみも、あるいは、深い愛も。 私の彼は三年前に死にました。彼の脳の中心に小さな琥珀を残して。それは彼の記憶の堆積でした。彼の見たもの、感じたことの堆積。 目覚めて、隣で寝ている彼が死んでいることに気がついた日、私は彼の頭を切り開きました。そして、この琥珀を取り出したのです。 その愛おしい塊を朝焼けに翳すと、琥珀の中で鈍い乱反射が起きました。不思議なことにそれはひどくゆっくりと起きていて、私にはその光の軌道をじっくりと追うことが出来ました。光が跳ね返るたびに、彼の見た景色が鮮やかに浮かび上がります。その時の感情も、私の指を伝って、じんわりと伝わってくるのです。 映るものは、ほとんどが私の顔でした。 寝顔、笑顔、泣き顔、怒った顔…。それに応じて、コロコロと感情を変える彼。どんな感情の底にも、愛から発散される得難い暖かさがありました。 私の頰に雫が伝いました。愛されていたという事実は失ってしまえば、ただ胸を締め付ける凶器になってしまうのでしょうか。いいえ、深い愛情が鋭いナイフに見えるというのはありふれた話です。眼前の世界を優しくしようと努めれば、きっとそれは愛の腕となり、人を包み込むでしょう。 私は切に願いました。 この記憶を私の中に閉じ込めたい。ずっと一緒にいたい。 私は琥珀を強く強く握りしめました。 このまま溶けて、私の手のひらの中に閉じ込められてしまえばいいのに。 その時、さも当たり前の事のように私の頭に一つの考えが浮かび上がりました。 そうだ、琥珀を溶かしてしまおう。溶かして、私の一部にしてしまおう。 思いつくと同時に、琥珀を握る私の手の中に、茶色くベタついた液体が滲んでいることに気がつきました。弾力のある皮膚の上でツヤツヤと朝日を浴びるそれは甘い香りがしました。なんだか自分の掌が愛おしくなって、そっと胸に当ててみると、自身の心臓の鼓動が、それを寄越せと泣き叫びながらもがいているように思われました。 彼の記憶と溶けあおうとすること。それが幼稚な発想であることはは分かっていました。けれど、傷ついた心を一時癒すのは逃避行動だとは思いませんか。自分一人の想像の世界はどこまでも優しいのですから。そこから出て行きたくなくなるほど。ずっとそこで、胎児のようにうずくまっていたくなるほど。 私は涙を拭って、台所に立ちました。 まず最初に、琥珀がこれ以上手の熱で溶けてしまわないようにように丁寧にラップに包んで冷凍庫にしまいます。 琥珀を余すことなく体に入れるにはどうしたらいいだろう。私は少し考えて、琥珀にパンケーキをかけることにしました。染み込ませれば綺麗に私の口の中に入ってくれるでしょう。お皿に落ちてしまった分は生地で拭って食べてしまえば良いのです。 私はさっそくパンケーキに必要な材料をボールに入れて混ぜ始めました。明け方の静謐な雰囲気の中で行う作業は、神聖な儀式のようでした。泡立て器がボウルにぶつかる音でさえ、この世でいっとう丁寧に作られた打楽器が、優しくリズムを刻んでいるようにさえ聴こえるのです。そうして出来たボウルの中身は、朝焼けと一緒に蒸発してしまいそうな、美しいクリーム色でした。あんまりその色が儚かったから、再び私の目から涙がこぼれ落ちて、そのままボウルの中に落ちました。私はとめどなく溢れる涙を拭うことなく、フライパンにその液体を涙とともに流し込みました。 一枚焼ければ次のパンケーキを。もう一枚焼ければすぐに次を…。 私は泣きながらパンケーキを焼き続けました。 琥珀が彼だけの記憶なら、このパンケーキは私と彼が共有する思い出です。私の都合の良い涙とともに、美しい思い出だけが、ちょうどよく焼き目のついたパンケーキになって積み上げられていくのです。 そう、この涙はどこまでも都合がいい。それで良いのです。誰だって、最後は美しい記憶を抱きしめて死んでいくのですから。彼と私が共有する記憶を私が選別することくらい、それくらい許されなければ、人は何を心から愛するでしょうか。彼への餞は、これ以上ないというほど美しくなければなりません。 私はパンケーキを慎重に焼きます。等しい大きさ、等しい焼き色、等しい厚さに。真っ白な皿にきっちりとパンケーキを積み重ねると、私は琥珀を冷凍庫から取り出して、丁寧にラップを剥がしました。 以前彼が福引で当てた、何に使うかわからないほど小さな鍋を火にかけ、そこに琥珀を落としました。特別にあつらえたように、液体となった琥珀が溢れない程度に小さく、琥珀が貧相に見えないほどの大きさで、それは琥珀を迎え入れたのです。 琥珀が溶けていく香りは、彼そのものの匂いでした。部屋中に立ち込めるその香りは、私を優しく抱きしめました。その暖かさが私の胸まで届くと、どうしようもないほどの幸福感が、心臓の鼓動とともに、私の身体中を駆け巡ります。それと同時に、私の目からは滝のような涙が溢れ出します。私は思わず、ベットに行って彼の遺骸を抱きしめました。もはや何の意味も持たない、ただの冷たい遺骸を。 涙をあらかた出してしまうと、私は放心しました。彼の遺骸の衣服は、涙でびしょ濡れになっていました。 ふらふらと台所に向かって、私は溶けた琥珀をティースプーンで静かに掬い、口に含みました。これ以上ないというほどの甘さが、私の舌に優しく溶け出して、私は掌で顔を覆いました。脳裏には、彼の見た景色が、ありありと浮かび出しました。 そっと息を吸い込むと、私は美しいパンケーキの塔の上に、惜しげも無く琥珀のシロップを垂らしました。柔らかな粘度をもって、垂らされた瞬間に形成された一瞬の形が、とろりとほどけていきます。すっかりシロップが落ちてしまうと、私は猛然とパンケーキを口に含み始めました。 その甘さ以上に、私の中に彼の記憶が刻み付けられていく事が私を快感の中へ引きずり込んでいくのです。それは、彼の琥珀の中に閉じ込められていくような心地でした。琥珀のシロップは、私の内へ内へと侵入していくというのに、私を外側からガッチリと束縛してしまうような何かを同時に生み出しているようなのです。私は抵抗しませんでした。目を閉じて、進んでその拘束に身を任せました。 私は、自分の中に彼の記憶を閉じ込めようとしていたけれど、今は彼が、自分の記憶の中に私を閉じ込めようとしているんだわ。 そう思ったのです。それは、どこまでも幸福なことのように思われました。 パンケーキを全て食べ終えてしまうと、私はその場に静かに横たわりました。甘い香りに満たされた、彼の記憶が充満するこの部屋。どこまでも幸せなその空間で、私は眠りました。 二度と目が覚めないように、切にそう願って。
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