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【二人のためのステップアウト】
夕桜(ゆざくら)市西区には日暮谷(ひぐらしだに)という繁華街がある。デパート、ファッションブランド専門店や映画館、ライブハウスなど数多くの商業施設が密集しており、南区の繁華街・朱ヶ崎とは位置的に連なりながらも比較的治安も良く若者向けの街となっていた。
日暮谷駅からほど近い場所にあるシアター・アポロンは総客席数七二〇で、演劇、コンサート、歌舞伎の上演などに使用される劇場である。その建物正面に広がるシアター前広場は、街を訪れる人々にとって待ち合わせの定番スポットとなっており、今日も多くの人々で賑わっていた。
岸上薔薇乃(きしがみばらの)は、その広場に幾つか並べられたベンチのうちの一つに腰掛けていた。服装は胸元にフリルの付いた白のブラウス、黒の吊りスカート、上着に黒のチェスターコートを羽織っている。肩の辺りで切り揃えられた黒髪の頭には、小さめのベレー帽を被っていた。彼女の類い稀なる美貌と、深窓の令嬢を思わせる上品な佇まいは、群衆の中にあっても宝石のような存在感を放っている。
二月の上旬、今日は風も強く寒さは一段と厳しい。薔薇乃はその寒さを紛らわせようとするように、蓋の被さったプラスチックのカップを両手に持っていた。カップの中身はおでん。待ち合わせの時間より少し早く到着してしまったのと小腹が空いていたのもあって、先ほど近くのコンビニで買ってきたものだ。
「うーん、まだ少し……熱すぎますかね……」
薔薇乃はカップの温度を確かめつつ呟く。薔薇乃は猫舌だ。だから熱い食べ物は少し冷ましてからでないと食べられない。
コンビニおでん……昔から密かな憧れを抱きつつも、実際に買って食べるのは初めてだった。食べたいものが適温になるまでじっと待つこの時間は、なんとも身体がうずうずしてしまう。
「あの……すみません」
正面から声が聞こえたので薔薇乃が視線を上げると、長髪の遊び人風の男が立っている。どこか困ったような顔をして。
「実は、助けて欲しいんだけど」
薔薇乃は右、左とちらりと見てから、小首を傾げて尋ねる。
「……ええと、もしかしてわたくしに言っているのでしょうか?」
「そうそう。僕、今すごく体調が悪くって……」
「まぁ、それは大変ですね。……それで? わたくしにどうしろと言うのでしょう?」
「あなたみたいな綺麗な人とお喋りできたら、元気になれる気がするんだよね。そういう病気なんで」
それを聞いて薔薇乃は呆気にとられたように硬直したものの、やがて微笑んで言う。
「そのような病気は聞いたことがありませんけど……ちなみに、なんという病名ですか?」
「うーん……恋の病?」
「ふふ、面白いことをおっしゃいますね」
薔薇乃がクスリと笑うと、男はベンチの隣りに腰掛けてきた。
「今日はどんな用事でここに?」
「そうですね……友人とデート、というところでしょうか。その待ち合わせです」
「デート? その友人って男?」
「さて、どうでしょうね?」
「ふーん、まあいいや。待ってる間、俺とお喋りしてようよ。俺の体調回復に協力すると思ってさ」
「もうだいぶ元気でいらっしゃるように見えますけど?」
「いやーだめだめ。もう全然元気なんてないから」
男は調子良く笑ってから、ふと気づいたように薔薇乃が両手に持っているものに視線を落とす。
「――それ、おでんだよね? 好きなの?」
薔薇乃は両手に持ったおでんのカップをそっと男から遠ざけるようにして、
「あげませんよ?」
「べつにくれなんて言ってないんだけど……」
「絶対にあげません……これは私が一人で食べるものです…」
「いや、だから欲しくないって……」
男がやや困惑したように言ったところで、薔薇乃はまた正面から声を掛けられる。
「――社長?」
「ああ、織江(おりえ)さん。待っていましたよ」
顔を上げて、薔薇乃は微笑んだ。
静谷織江(しずやおりえ)――薔薇乃の腹心の部下であり、補佐から護衛、ときには代理、そして『敵』の暗殺までこなす右腕的存在。髪は栗色のサイドポニー、二十歳の薔薇乃より四つ歳上ながらまだ少しあどけなさの残る――しかし充分に整った顔立ちをしている。彼女は灰色のロング丈パーカーに紺色のデニムパンツと飾り気の薄い服装ではあるが、じっとしていてもそれなりに注目を浴びてしまう薔薇乃よりは自然に、街を行き交う人々の中に溶け込んでいた。
「ええと、そっちは……?」
織江が男のほうをちらりと見ながら、薔薇乃に尋ねる。
「ああ、こちらはお気になさらずに。では、行きましょう」
薔薇乃は傍らに置いていたバッグを手にとると、ベンチから立ち上がった。
「あっ、ちょっと!」
隣に座っていた男が慌てて声をかけてくるのに対して、薔薇乃は笑顔で軽く手を振りつつ言う。
「ご機嫌よう。あなたのご病気ですが、お医者様のところで適切な薬を処方してもらうのをおすすめしますよ」
薔薇乃と織江の二人は一旦その場を離れ、人々の集まりからやや距離をとる。喫茶店の軒下まで来たところで、織江は周囲に人がいないのを確認すると、かしこまって言った。
「お待たせしてしまい、申し訳ありません」
「いえ、まだ予定の時間の五分前です。わたくしが早く来すぎただけですよ」
左手首の腕時計を見て薔薇乃が言う。織江は軽く頷くと、来た道を振り返りながら、
「さっきの男……もしかしてナンパですか?」
「ええ、そのようでしたね」
「そのようでしたね、って……」
織江はやや呆れたように眉根を指で押さえる。
「気をつけてくださいよ。あなたの素性を知っている何者か――命を狙う刺客が、ナンパ男を装って近づいてくることだってあり得る」
「心配していただいて、ありがとうございます」
薔薇乃は手を口元の前に持ってきて笑う。
「でも大丈夫ですよ。わたくしにだってそれくらいの判別はつきますとも。さっきの方は明らかにそういう雰囲気ではありませんでしたし。それにああいう方とお喋りしていると、待ち時間でも退屈しないで済むじゃないですか。なかなか面白いんですよ、おかしなことを言い出したりして」
「……まぁ、わかっているならいいんですが」
織江は軽くため息をつきつつも慣れた様子だった。そこで薔薇乃はふと思い出したように言う。
「――そうそう。先ほど、コンビニでおでんを買ってきたんです。こう寒い日には、暖かいものを食べるのが一番の楽しみだとは思いませんか?」
「少しお願いします」と薔薇乃はおでんのカップを織江に持たせると、カップの蓋を外してそばのゴミ箱にぽいと捨てる。そしてバッグからコンビニで貰っていた割り箸を取り出して割ると、織江からカップを受け取った。
「ありがとうございます。ああ、とても美味しそうな匂いです! さ、織江さんもどうぞ?」
「い、いや、私は……」
織江が遠慮しようとするのも無視して、薔薇乃は箸で掴んだこんにゃくを織江の口へ運ぼうとする。
「はい、あーん」
「だから、私はいりませんって」
「はい、あーん」
「……はぁ」
やれやれ、といった表情を浮かべながら織江は差し出されたこんにゃくを食べた。
「――ああっづ!?」
こんにゃくから染み出した汁が熱すぎて、織江は吐き出してしまう。
「あら、ごめんなさい」
薔薇乃は相変わらずニコニコ笑いながら、
「そろそろいけるかと思ったのですが、まだ早かったようですね。もう少し冷めるのを待ちましょうか」
織江は口元を手で拭ってから、薔薇乃に尋ねた。
「あの……もしかして、私で試しました? 食べられる熱さかどうか」
「……試すだなんて、そんなことするわけないじゃないですか」
「答えに間があったようですけど……」
「それより! 今日の予定について話し合いましょうよ。それがいいです、うんうん」
薔薇乃はいっそ露骨なほどに話題を変えてくる。織江としてはしつこく食い下がる気もなかったのだが。そして、転換した話題に織江はまたも戸惑う。
「え……? あの、今日の予定って……もしかして、まだ決まってなかったんですか?」
「そうですよ? まだ何にも決めていません」
「そうだったんですか。私、てっきり社長の用事に付き合えばいいのかと……」
「とりあえず、一緒に予定を考えましょうか。――ふふっ」
「? なに笑ってるんです?」
「いえ、あなたとは結構長い付き合いですけど、こうして休日一緒にお出かけするのは初めてのことじゃないですか。何だか変な気分だな、と」
「ああ……そういえば、そうでしたね」
携わる仕事の都合上、薔薇乃と織江の休日が重なることは滅多にない。そもそもナイツ支社長である薔薇乃は多忙のため年間で見ても休みと呼べるものは極めて少なく、織江も似たようなものだ。
「織江さんは、どこか行きたいところはないのですか?」
「私は……とくには。社長のお好きなように」
「そうですか……。ではどうしましょうかね……」
薔薇乃は顎に手を当てて少し考えた後、「そうだ」と閃いたようにぴんと人差し指を立てる。
「これから一時間で何人の男性にナンパされるか、予想し合って遊びましょうか?」
「なんですかその妙な遊びは……」
「面白そうでしょう?」
「いえ、まったく」
「えぇー? わたくしはとても楽しそうだと思ったのですけれど……」
「いや、なんでそんなナンパに興味津々なんです……? とにかく、それはやめてください」
「ダメですか? もう、織江さんはわがままですね」
「なんで私のほうが呆れ顔をされなきゃならないんですか……」
「ふふっ、冗談ですよ。じょーだんっ」
薔薇乃は織江の肩をぽんと叩いて笑う。
「せっかくですし、今日は織江さんのしたいことをしましょう。その為にオフを合わせるよう調節したのですから」
「……? 私の為に?」
「年末からここしばらく、あなたに負担をかけすぎてしまいましたからね。今日は存分に息抜きしていただこうかと」
「あの、もしかして……」
織江は落ち着かない様子で尋ねる。
「私、しんどそうに見えてましたか……?」
薔薇乃は小さく笑って答えた。
「少しだけ」
織江は「あー……」と、気恥ずかしそうに前髪を弄りつつ言う。そして軽く頭を下げ、
「すみません。心配をおかけしました」
「いいえ、わたくしがあなたに頼りすぎたせいでもあります。無理をさせてごめんなさい」
「謝らないでください。無理だなんて――」
織江が慌てて否定しようとするのを、薔薇乃は手で制止する。
「まぁまぁ。経緯はともかく、今日はそういう趣きであるというわけです。まぁ、日頃の労いというか……恩返しとでも思ってください」
「恩返しって、そんな……私はべつに――」
「織江さん?」
「はぁ……わかりました」
織江が渋々了承すると、薔薇乃は「よろしい」と頷いた。
「本当は、わたくしのほうで予定を立てようかとも思ったのですが……よく考えてみるとわたくし、織江さんの趣味とか好きなものとか、殆ど知らないのですよね。三年以上の付き合いになるのに、ですよ?」
「それは……べつにわざわざ話すことでもありませんし……」
織江は伏し目がちになって言う。薔薇乃は一瞬なにか言いたげにしたが、抑えて話題を続ける。
「――そういうわけですから、織江さん。今日は何がしたいですか? わたくしにしてほしいことでも構いません。出来ることなら、なんでもしちゃいますよ?」
「そう言われても……」
「ああ、遠慮の必要はありませんよ?」
「そうじゃなくて……思いつかないんです、急に言われても。休日なんていつも寝てるかトレーニングしてるだけで終わるんで……」
「ふむ、なるほど……」
薔薇乃は少し考えて、
「では、そうですね……映画などは、いかがですか?」
「映画ですか……。全然観ないので、よくわかりません……」
「それでは、お買い物はどうです? 欲しい物とかありませんか?」
「…………」
織江は考え込むようにしばらくうつむくが、答えは出なかった。
「あの、織江さん……」
薔薇乃は心配するように声をかける。
「もしかして、ご迷惑でしたか?」
「えっ?」
織江は驚いたように顔を上げた。
「わたくし、あなたの気持ちも考えずに無理やり誘ってしまったのではありませんか? 本当は一人でゆっくり休日を過ごしたかったとか……だとしたら――」
「ち、違います! そうじゃなくて……」
そこまで言ってから織江は片手で顔を覆い、ため息をつく。
「……私、こういうのよくわからないんです」
「わからない……とは?」
「私は『ファーム』の育ちで……こんな風に街へ遊びに出たことなんてありませんでした」
『ファーム』――かつて存在した桜花という組織が、暗殺者を養成するために利用していた施設を指す呼び名。その施設には身寄りのない子どもたちが集められ、殺しに必要な技術と知識を叩き込まれたのだという。織江もその施設の出身者であり、施設に入れられる以前の記憶はない――らしい。
「環境に溶け込むための知識はあそこで詰め込まれました。それが仕事に必要だったから。でもそれはあくまで必要最低限のものでしかなくて……こういう時にどういう風に振る舞えばいいかが、今でも私にはわからない」
「だから」と織江は曇った表情のまま続ける。
「休日に私なんかと一緒にいても、つまらないだけだと思います……」
「…………」
薔薇乃はしばらく黙って考えた後、真面目な顔で言う。
「……なるほど、あなたの境遇を考えれば、そのようになったとしても致し方ないのかもしれませんね」
「すみません、当日になってからこんなこと……。事前にお話ししておくべきでした」
「そうですね。もっと早く聞かせてほしかったです」
「っ……すみません……」
「ああいえ、べつに、叱責しているわけでも落胆しているわけでもなくてですね。わたくしはただ……うぅん、なんと言えばいいのでしょう……」
薔薇乃は少し悩んだものの、「まぁ、ともかく」と話を続ける。
「――要は、あなたが単に『遊び慣れていない』ということですよね? 違いますか?」
「へっ……?」
織江は不意を突かれたかのように調子の外れた声を出した。
「あ、ああ……そういうこと、なのかな……? あっ、いや……そう、ですね……?」
「それなら、なんら問題ではありませんよ」
困惑気味の織江に対して、薔薇乃はいつもの得意げな笑みを浮かべる。
「今日を機会に、これから慣れていけばいいだけの話です。わたくしも、さほど遊び慣れているというわけではありませんけどね」
「これから……」
「でも、そのお話を聞けて安心しました。わたくし、今日を楽しみにしすぎてつい空回りしてしまったのかと」
「楽しみに……?」
「はい」と薔薇乃は頷く。
「織江さんは先ほどああいう風に言いましたけれど、わたくしはあなたと他愛のないお喋りが出来るだけでも、充分楽しいですよ。友達同士なら、そういうものです」
「友達……ですか」
織江は、薔薇乃の言葉を噛みしめるように復唱し――それと同時に、何か辛い記憶を思い出したかのように眼を細めた。
「ええっと……わたくしはそう思っていたのですけれど。……違いましたか?」
薔薇乃はやや不安そうな表情になると、織江の顔を下から覗き込むようにして尋ねる。
「…………」
織江は思案するように黙って薔薇乃を見つめて――やがて肩をすくめつつ、力の抜けた微笑みを浮かべた。
「違ってない……かな」
「ふふっ……それなら、グッドですね」
薔薇乃も同じように微笑んで、頷く。
「――さて、改めてこれからの予定を考えなければなりませんね。お昼は、どうしましょうか? 何か食べたいものはありますか、織江さん?」
「まぁ何でもいいけど……」
薔薇乃は首を横に振って、優しく教えるように言う。
「いけませんいけません。『何でもいい』という返事は相手に合わせているようでいて、実質丸投げしているのと変わらないんです。こういう時は、マナーとして何かしら自分の要望を言っておくべきですよ」
「あ、そうなんだ……? じゃあ……ええっと……」
織江は両腕を組んで考えるが、すぐには答えが出ない。そこへ薔薇乃が助け船を出す。
「そうですねぇ……では、織江さんの好きな食べ物はなんですか? それを食べにいきましょう」
「ん……じゃあ……いくら」
「はい?」
薔薇乃に聞き返され、織江は僅かに顔を紅潮させて答えた。
「いや、だから。好きな食べ物……いくら。あの、魚の……やつ」
薔薇乃は「なるほど!」と喜んで人差し指を立てる。
「それでは、お昼は美味しいいくら丼を出してくれるお店でも探しましょうか」
「それとさ……あんたにお願いがあるんだけど」
「――っ! なんでしょうっ?」
薔薇乃は期待を込めるような視線を織江に向けた。織江は照れたように鼻先を掻きながら言う。
「服、とか……あと、装飾品……アクセサリーとか……見繕って欲しいんだよね。私、そういうセンス全然ないから……。いい、かな?」
薔薇乃はすぅーっと深く息を吸い込むと、興奮気味に織江へ詰め寄った。
「もちろん、いいに決まっています! 必ずや、織江さんをかわいらしくコーディネートして差し上げますとも!」
「えっ……ちょっと、待って! かわいくなくていいから! 絶対似合わないから!」
「心配ご無用です。織江さんはとてもかわいらしい人だと思いますよ? 現に今、わたくしも悶えかけてしまいましたから!」
「な、なに言って…………あーっ、もう……」
抵抗が無意味だと悟った織江は、頭を掻きつつため息をつく。
「――……ったく。あんたってほんとーに、人をからかうのが好きだよね」
薔薇乃は嬉しそうに笑って、
「ふふっ、今更知ったんですか?」
織江は呆れたように首を振りつつも、ふっと軽く鼻で笑う。
「……いや。ずっと前から知ってたけどさ」
――やがて、二人の姿は街の人混みの中に消えていった。
【終】
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