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【芝居する彼女のオフステージ】
「お兄ちゃ~ん、私もう眠いから寝るね~」
小柄で色白の少女――妹の灯里が、あくびをしながら言う。今は夜の九時半。灯里はまだ風呂から上がったばかりだが、昨日の夜遅くまでラジオを聴いていて寝不足のため、今日は早寝をするつもりらしい。リビングを抜けて廊下に出ようとする灯里へ、隣のキッチンで洗い物をしていた冬吾が言う。
「湯冷めしないようにな。おやすみ」
「は~い。お姉ちゃんもおやすみ~」
お姉ちゃんと呼ばれた彼女――江里澤夕莉(えりさわゆうり)は、ソファに座りながら読んでいた本から顔を上げ、灯里の方を向いた。
「ああ、おやすみ」
灯里は軽く手を振ってから、自分の部屋へ向かうためリビングを出て行った。
それを見送ってしばらくしてから冬吾は洗い物を終えて、蛇口の栓を閉める。
「ふぅ……」
一息つこうとリビングへ向かおうとすると、ちょうど夕莉がキッチンに入ってくるところだった。
「もう終わった? お疲れさま、いつも悪いね」
そう言う夕莉に、冬吾はタオルで手を拭きつつ答える。
「こっちの台詞ですよ。先輩こそいつもありがとうございます」
女性にしては高めの身長でスタイル良好、涼しげな目元、以前より少し伸びて鎖骨のあたりまで届く綺麗な黒髪、それにタートルネックのリブセーター越しに主張しているふくよかな胸――江里澤夕莉は、戌井家の隣りに住む大学三年生で、冬吾の二年先輩だ。
夕莉は週に一度か二度ほど、ここに夕食を作りに来てくれる。今日も学校が終わった後、買い物までしてから立ち寄ってくれたのだ。昔から妹と二人分の自炊を担ってきた冬吾も料理に関しては平均的主夫程度の腕は持っているつもりだが、夕莉のそれはまた段違いに上であるから、妹だけでなく冬吾にとっても楽しみの一つだった。だが夕莉に後片付けまでしてもらうのはさすがに悪いので、冬吾はいつも洗い物を買って出ている。この習慣はもう何年も続いていて、夕莉とは単なる隣人ではなく、家族同士のような間柄と言っても過言ではなかった。
夕莉は苦笑して言う。
「私が好きでやってるだけなんだから、そういうのはいいんだよ」
無駄に広いあの家で、一人ぼっちは寂しいから――夕莉は以前に一度だけ、そう言って聞かせてくれたことがある。
夕莉の両親は仕事で家にいない日が多い。親子関係は悪くはないようだが、夕莉が昔から冬吾と灯里の兄妹に対して面倒見よく接してくれたワケには、彼女が、密かに感じていた孤独を紛らわせようとしていた……ということもあったのかもしれない。
夕莉は冷蔵庫から缶ビールを取り出す。
「珍しいですね、先輩がお酒なんて」
冬吾が言うと、夕莉は顔の横で缶を軽く振って答えた。
「たまには飲みたくなる夜もあるのさ」
アルコールはあまり得意ではないと以前に聞いたような記憶があるが、今日はたまたまそういう気分なのだろうか?
「あ……そうだ」
リビングへ戻りかけて、夕莉が思い出したように言う。
「ちょっと話したいことがあるんだけど、いいかな?」
なんだろうか……と思いつつも、冬吾は「もちろん」と、頷いた。
キッチンの電灯を消してからリビングに戻る。夕莉が先にソファに座ったので、冬吾はその隣りについた。
「それで……話っていうのは?」
「…………」
夕莉は話そうとせずにビールに口をつけている。
「あの、先輩?」
「……まずい」
「え?」
「やっぱり苦手だな、これは。もっと甘いやつにすればよかったよ」
「はぁ……」
夕莉は苦みを我慢するように一気にビールを呷ってから、テーブルに缶を置く。
「……冬吾。実は君に、謝らないといけないことがあるんだ」
「……なんです?」
神妙な面持ちで言う夕莉に、冬吾は緊張してしまう。彼女が自分に謝るなど、そうそうないことだ。
夕莉は深く息を吐き、意を決したように言う。
「……今日、同じゼミの男子に告白されたんだ」
「へぇ、告白……――って、告白っ!?」
冬吾は思わずソファから飛び上がりそうになる。
「付き合ってください、と言われたってことだよ」
「いや、意味はわかりますけど……」
冬吾は戸惑いつつ夕莉を見る。どことなく表情が曇っているようにも見えるが、その内に潜む感情までは読み取れない。
それにしても、告白だなんて……。いや……考えてみれば、何も不思議なことじゃない。
夕莉は身内の贔屓目抜きに見てもとびきりの美人だ。知的でミステリアスな雰囲気に惹かれる者もいるだろうし、実際に頭も良い。それに、人見知りなところはあるが、優しい人でもある。
そう……男が惚れる要素なら幾らでも心当たりがあるじゃないか。今までそういう話がなかったほうが変なくらいだ。
「そ、それで……先輩は、なんて……?」
恐る恐る、冬吾は尋ねる。
「私は……」
夕莉は冬吾の目を見てから、軽くため息をつき、言い直す。
「――結論から言うと、断ったよ。正直言って、相手の彼にそういう感情は持てないから。ただ……」
「ただ?」
「断るには断ったんだけど……その……断った理由が、ね」
夕莉はどうにも歯切れが悪い。冬吾は焦れったくなって先を促した。
「なんて言って、断ったんですか?」
「……もう他に付き合っている人がいるから、って」
「はいぃ!?」
冬吾は調子の外れた声を出して驚く。そんなのは全くの初耳だ。
夕莉はため息をつきながら前髪を掻き上げて、言う。
「……一応言っておくけど、断るための嘘だよ?」
「そ、そうなんですか?」
「なんというか……困るじゃないか、ああいうの。素直に答えたら、下手すると相手の面目を潰してしまうかもしれないだろう? べつに悪い人ではないし、同じゼミ内で険悪になっても困るから……カドの立たない断り方は、と考えたら……そうなったんだ」
「はぁ……なるほど」
「で、断ったのはいいものの……ちょっと問題が」
「えっ、まだ何かあるんですか?」
この先輩は次に何を言い出すかわからなくてドキドキしてしまう。
「訊かれたんだよ。その付き合っている相手というのは、よく学校で一緒にいるところを見かけるあの男なのかって。向こうが勝手に勘違いしただけなんだけど、違うと説明するのもややこしいというか……面倒くさくなってしまって」
「それで認めてしまったわけですか。その男が恋人だと」
「……そういうこと」
きっとただの男友達なのだろうが、勝手に恋人扱いされていると知ったらその男も驚くことだろう。夕莉が困ってしまった気持ちも理解できるが。
夕莉は冬吾を見て言った。
「向こうもまさか人に言いふらしたりはしないと思いたいけど、もしかしたら君に迷惑がかかってしまうことがあるかもしれない。だから謝っておきたかった。……ごめん」
「……? それでどうして俺が出てくるんです?」
夕莉は信じられないものを見るような目で冬吾を見る。
「……それ、わざと言っているんじゃないだろうね?」
「えっ?」
「ああもう……君のことを言っていたに決まってるだろう……」
「…………あっ! そうなんですか!?」
夕莉は片手で頭を抱えてしまう。
「いや、流れでわからないかな普通……。君は自分のことになると鈍感なところがあるとは思っていたけど……これほどとは」
たしかに、夕莉とは学校で顔を合わせたらそのまま話し込むことはあるし、昼食を共にすることもある。とはいえ約束し合ったことはないし頻度もそれほどではないはずだが、他人の目から見ればよく一緒にいると思われていたのかもしれない。
冬吾は誤魔化すように笑いつつ言った。
「す、すみません。先輩が嘘でも俺のことを、その……恋人だなんて言うとは思わなかったので」
それを聞いて、夕莉の表情が曇る。
「……やっぱり、嫌だったかな?」
「あっ、べつに嫌ではないですよ。まぁ……あえて言うなら、少し恥ずかしいですけどね。――ともかく事情はわかりましたから、もう気にしないでください」
「そ……そう。それなら、よかった」
夕莉はほっと胸をなで下ろしたようだった。
「もし先輩のことで何か言われたら、こっちで適当に話を合わせておきますよ」
「ん……そうしてくれると助かるよ」
冬吾も内心でほっとする。告白されたなどと言い出したときは驚いたが、そういう形で決着がついたのなら。いったい何にほっとしているのかは、自分でもよくわからないが……。
「……はぁ、君に話せてよかった」
夕莉はソファに身を埋めて、人心地ついたように言う。
「君に謝っておきたかったというのもあるけど、まず聞いてほしかったんだ。正直言って、私も動揺していたんだと思う。こういう経験自体初めてだったからね。今日一日ずっと落ち着かなかったけど、やっと胸のつかえが取れたような気がするよ」
「そりゃよかった。それにしても、先輩にそんなことがあったなんて話を聞くまで全然わかりませんでしたよ」
夕莉は軽く肩をすくめて微笑む。
「私が悩んでいるようには見えなかった?」
「まぁ、そうですね。というか、先輩が何かに悩んでるイメージがあまりなかったので……」
「……私はずっと迷ったり悩んだりしてばかりだよ、君が思っている以上に。誰のせいかは知らないけど……ね」
うん……? 今のは何か含みのある言い方だったような気がするが、よくわからなかった。
「え……ええっと、じゃあ他にも何か悩みがあるんですか?」
夕莉は額に手を当てて、やれやれというように笑った。
「……いけないな。もう酔いが回ってきたみたいだ。変なこと言っても、なかったことにしておくれよ?」
「はぁ……わかりました」
夕莉が自分で言うとおり、顔にも薄らと紅が差してきている。彼女はまたビールを一口飲んでから言う。
「――じゃあもう一つ、ついでに相談してもいいかな」
「相談?」
「とりあえず、これを見てくれる?」
夕莉は足下に置いていた自分のバッグから一冊の小冊子のようなものを取りだして、冬吾に渡す。表紙は無地で、横書きにタイトルらしき文字が印刷されているだけだ。『演戯爆弾 PERT3台本』とある。
「台本……?」
「先日の学園祭で行われた舞台演劇、覚えてるかい?」
「忘れるわけないじゃないですか。先輩の晴れ舞台、しっかり覚えてますよ」
「ん……そう」
夕莉は些か照れたように視線を逸らす。
学園祭で行われた演劇『白き賢者の死』は、推理小説研究会に所属する夕莉が脚本を提供し、自らも欠員の出た演劇部の穴を埋める形で出演した作品だ。直前のリハーサル日には色々と大変なこともあったが、本番の公演は無事に成功し、客からの評判も上々だった。
「あのときの演劇部の部長さんから、次の定期公演に出てみないかと誘われたんだ。それはその台本さ」
「誘われたって、出演する側としてですか?」
「うん。畏れ多いことに、学園祭公演での私の演技を高く評価してくれたみたいでね。都合が合うなら是非、と」
たしかに、あの時の夕莉は緊急登板した素人ながら、演劇部の中に混ざっても違和感がない程に達者な役者ぶりだった。演劇部部長が惚れ込むのもわかるというものだ。
「私は少し考えさせてほしいと言ったんだけど、先方は完全に乗り気みたいでね。昨日それを渡してきたんだよ」
「へぇ……。それで、先輩はどうするつもりなんです? まだ考え中ですか?」
「私は……出てみてもいいかな、と思ってるよ」
それは意外だ。あの時の演技はたしかに立派なものだったが、夕莉自身の感情としてはあまり舞台に立つことに積極的ではないように見えていたから。
「私の能力を評価してくれたのなら、それがなんであれ期待には応えたいと思う。出来る限りはね。これを機にしばらく演技の世界に触れてみるのも、それはそれで面白そうだし。……それで、君に頼みたいことがあるんだ」
「頼みたいこと? なんですか?」
「台本を読んでみたんだけど、役のイメージがいまいち掴めなくてね。私なりに読み込んだつもりだけど、これで良いかどうか、君を相手に実際に演技して感触を確かめてみたいんだ。少しだけでいいから」
「先輩の演技を見ればいいんですね。でも、俺素人ですけど……」
「構わないよ。なにも専門的な視点からのアドバイスがほしいと言っているんじゃないんだ。君の感覚で良いかどうか判断してくれればいい」
「わかりました」
夕莉はその後、自らが演じる役について説明してくれる。次の演劇部定期公演で行われるのはオムニバス形式の劇で、「家族」をテーマにした全四篇のショートストーリーで構成されているらしい。夕莉にあてがわれたのは第三篇のヒロイン役。
「――幼少時に親から虐待を受けていた彼女だが、保護されてからは遠い親戚の家庭で大切に育てられてきた。成長し大学生になった彼女と、その義理の兄とのやり取りを中心に描いたのがこの第三篇ということになる。さて、今の説明でわかったかな?」
「大体は」
「よろしい。じゃあ台本をこちらに」
夕莉は冬吾から台本を受け取って、ページをめくっていく。
「そうだね……八ページの最初からやってみようか。私が演じる妹と義理の兄が家で二人きり、ここと同じようなリビングで会話をするシーンだ」
そう言うと、該当のページを開いたまま台本を冬吾に再び渡す。
「棒読みで構わないから、兄の台詞を読み上げてくれるかな?」
「いいですよ。ところでこれ、台本は順番に渡し合って読みますか?」
「君が持ったままでいいよ。そこはもう何度か読んで覚えたから」
「えっ、もう覚えちゃったんですか? 台本、昨日渡されたばかりなんですよね?」
「二回か三回も読めば覚えるだろう?」
「いや、普通は覚えないと思いますけど……」
頭の良い人間はこれだから……。
「――じゃあ、やってみようか」
夕莉は軽く咳払いをすると、ソファに座り直し改めて冬吾に向き合った。
「……兄さん? お母さんたち、法事で遅くなるんだって。晩ご飯何にしよっか?」
うわ……すごい。演技に入った瞬間、全然違う感じだ。この人、本当に芝居の才能があるのかもしれない。
感心していると、夕莉はチッチッと小動物の気でも引くかのように軽く舌を鳴らし、冬吾の持つ台本を指さす。
「あっ、すみません!」
冬吾は慌てて台本を確認する。次は兄の台詞だ。
「ええと……うーん、何でもいいよ」
「何でもいいは一番困るんだよなぁ。まぁ、後でまた考えるとしますか」
そこで、夕莉はふと思い出したようなそぶりをする。これは台本のト書きにそうあるからだ。
「そうだ……。ねぇ兄さん、昨日の話、考えてくれた?」
「週末に出かけるって話か? ああ、べつにいいよ」
「ほんと? ほんとに? ……嬉しい!」
夕莉は普段の彼女なら絶対にあり得ないような満面の笑みで喜ぶ。しかも無理してるという感じはまったくなくて、真っ当にかわいいのがまたすごい。
「兄さんと遊びに出かけるだなんて随分久しぶりだよね。ああ、とっても楽しみ!」
それにしても……演技のことは置いておくとして、この先輩が妹というのは、なんともこそばゆい気持ちがする。
「でもさ、良かったの?」
「良かったって、何がだよ?」
夕莉は挑発するような笑みを浮かべる。
「せっかくの休みに、恋人じゃなくて私なんかと遊んでていいのって言ってるの」
「お前に関係ないだろ、そんなこと。お前の方こそいいのかよ?」
「私は今フリーだし、べつに?」
「少し前に彼氏出来たって言ってなかったか?」
「ああ、とっくに別れたよ。顔は良いけどあいつすぐ束縛してくるし、つまんなかったから」
うっ……これも普段の本人からは絶対出てこない台詞だよな……。演技だとわかっていてもショックだ。
「……ねぇ、兄さん?」
夕莉はソファの肘掛けに色っぽい所作で頬杖をついて言う。
「色んな男と付き合ってみて、私なりに考えてみたんだけどね? 私が本当に好きなのは……兄さんなのかもしれないな」
ん……あれ? 風向きがなんだか……この二人って、義理の兄妹らしいけど……そういう感じなのか? そういう話なのか、これって?
予想していたのとは違う方向に進み出すやり取りに戸惑いつつも、冬吾は次の台詞を読み上げる。
「なに言ってるんだよ……」
夕莉はソファに座りながらこちらににじり寄ってくる。
「冗談で言ってるんじゃないよ? 他のどんな男よりも、兄さんと一緒にいる時間が一番楽しいし、ドキドキする。家族としてはもちろんだけど、もう一つの意味でも……兄さんが好きなのかも」
「お前……」
そこでページの端に到達したため、冬吾は台本のページを次へめくろうとした。――その時、冬吾の身体はソファの上で夕莉に押し倒されてしまう。
「わっ……!?」
咄嗟のことで手を滑らせてしまい、台本が床に落ちる。拾い上げたかったが、夕莉に乗られて身体が動かせない。
「――でもね、そうかもしれないとは思いつつも……やっぱりよくわからないんだよ」
夕莉はこのまま演技を続ける気らしい。先ほどまでとは違って、切なげな表情で言う。
「家族に向ける親愛と、恋愛感情とを混同させているだけかもしれない。そうであってほしいと思う一方で……その逆の気持ちも、どうしてか、ある。この気持ちに答えを出すのが、私は怖い。そうすることで、何かが決定的に変わってしまうのが怖い」
夕莉はそこで、寂しげに微笑んだ。
「私たちがこういう関係でさえなかったら、私はこんなに悩む必要はなかったかもしれないのにね」
「…………」
台本が確認できない以上、こちらは次の台詞を出すことも出来ない。自分を押し倒している夕莉を見上げたまま、ただただ、彼女の芝居に圧倒されるばかりだ。
「それでも、今日は少しだけ……踏み出してみる気になれたよ。こんな風に……」
夕莉はそう言うと、冬吾にゆっくりと顔を寄せて――
「……っ!??」
冬吾は驚いて身体を硬直させてしまう。唇に柔らかい感触がある。夕莉の息遣いまで感じられる、すぐそこに彼女の瞳が見える。
夕莉と冬吾、二人の唇の間には、夕莉が立てた右手の人差し指があるだけだった。
「……本当にしてみる?」
夕莉が囁くように言う。冬吾がまばたきしか出来ずにいるのを見て、彼女は笑った。
「――なんてね」
そう言って、夕莉は冬吾から離れてソファの元の位置にまで戻る。
「さて、どうだった冬吾? 私の渾身の芝居は? ……って、その様子じゃ、答えを聞くまでもないかな?」
冬吾はもたもたと起き上がってから、ほっと一息つきながら言う。
「す、すごいですね……ホント」
「ふふっ。私なんかが相手でも君をドキドキさせることが出来たのなら、演技力に関してはそれなりに自信を持ってもいいようだね」
「先輩なら贔屓目抜きでやっていけると思いますよ」
「うん……」
夕莉はそこで少し考えてから、
「――でも、やっぱり今回のお誘いは断ることにするよ」
「えっ、断っちゃうんですか?」
「ああ。まだ調整は利くと言っていたから、私が断っても問題はないようだし」
「でもどうして……?」
夕莉は少し沈黙してから、
「……わからない?」
「えっと……すみません、わかんないです」
「まぁ、大した理由じゃないよ。というか、台本の内容を見たときから決めていたんだ。断ろうって」
台本を見たときから決めていたって……さっき言っていたことと矛盾しているような気がするが。台本に何か気に入らない内容でもあったのだろうか?
もう一度内容を確認してみようと床に落ちっぱなしだった台本を拾い上げると、それを夕莉に取り上げられてしまった。
「あっ」
「これはもう不要だろう?」
夕莉はそう言って、さっさと鞄の中に仕舞ってしまう。むう……確かめる機会を失ってしまった。
夕莉はリビングの掛け時計を見る。
「――さて、私はそろそろ帰ろうかな。もう遅い時間だしね」
「送っていきますよ」
「いいって。すぐ隣りだよ?」
上着のコートを羽織り手早く帰り支度をした夕莉を、冬吾は玄関まで見送ることにした。
「――そういえば、冬吾」
玄関で靴を履きながら、夕莉が言う。
「あれからもう、変わったことはないかい?」
「……!」
『あれから』……夕莉が何を指して言っているのかはわかる。あのクリスマスから、既にひと月余りの時間が過ぎようとしていた。あの日の詳しい事情を夕莉は知らないはずだが、冬吾が何か重大な出来事に巻き込まれたということだけは、察しているようだった。
あの日から冬吾の周囲で『組織』に関係する出来事は起こっていない。『彼女』にも、あれ以来一度も会ってはいないし、連絡も取ってはいなかった。きっと、それが正しい形なのだろう。
冬吾は一瞬、『彼女』のことを思い出して表情を曇らせたが――すぐに穏やかな表情に戻って言う。
「心配してくれてありがとうございます。俺はもう大丈夫ですから」
「そっか。……もう危ないこと、しちゃだめだよ?」
「わかってますよ……もう絶対しません」
「うん……それならいいんだ。じゃあ……」
夕莉は玄関扉を開ける。さすが冬の夜だ、目の覚めるような冷たい空気が入りこんでくる。
夕莉は扉を開けたまま、なかなか出ていこうとしなかった。
「……先輩?」
冬吾が呼びかけると、夕莉はゆっくりと顔だけ振り向かせて言った。
「……最後に、一ついいかな?」
「なんです?」
夕莉は少し躊躇してから、
「私が告白されたって話を聞いたとき、君は――」
そこで言葉を途切れさせると、肩をすくめて苦笑した。
「……いや、なんでもないや。それじゃあ、また」
夕莉は今度こそ玄関扉から外へ出て、帰って行った。
「……?」
最後に夕莉が何を言おうとしたのか、冬吾は少しの間考えたが――答えは出なかった。
【終】
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