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【先触れのレイニーデイ】
「――あーっ、くそ、急に降ってきやがって」
亀井十香(かめいとおか)は忌々しげに空を見上げた。大粒の雨が鼻先を打つ。天気予報では晴れと聞いていたのに、本降りの雨じゃないか。冬の初め頃であるこの時期は、通り雨が妙に多い気がする。時雨というやつだろうか。
十香は学生鞄で金髪に染めた頭を庇いながら、駆け足で目的地へ向かっていた。市街地からやや外れたところにある通りを進んでいくとやがて、寂れた雑居ビルに辿り着く。入り口には『凪野ビル』、とある。読みは「なぎの」、夕桜市北区(ゆざくらしきたく)にある三階建てのビルだ。
一階は半年ほど前まで貸金業の会社が入っていたと聞いたが、そこが退去して以降は空きテナントになっているらしい。現在のところ入っているテナントは二階と三階の二つ。入り口の案内板を見ると、二階には『Antique Rosier(アンティーク・ロジエ)』という看板が出ている。どうやら骨董品を扱う店のようだが、現在は休業中で、十香はまだ店が開いているのを見たことがない。
ビルにエレベーターはなく、十香は三階まで階段を使って上がる。十香はたまに来る程度だからどうってことはないが、毎日上り下りするのは面倒くさそうだ、と思う。まぁ、そのぶん賃貸料なんかが安いのかもしれないが。
階段を上りきって一息つくと、三階フロアのドアをノックした。ドアには、『鳥居探偵事務所』と表札が入っている。
「はいよー、どうぞー」
中から返事があったのを確認して、十香はドアを開く。煙草とコーヒーの匂い充満する狭い事務所の奥、マホガニーのデスクに向かっている男が一人。この事務所の所長であり唯一の所員、鳥居伸司(とりいしんじ)だ。伸び放題の癖毛に無精髭、よれよれのシャツ姿――少し前に三十路を迎えたらしいが、相変わらず風采が上がらない。身綺麗にしていたら、それなりにはなりそうなのだが。
「よっす」
十香はひょいと手を上げ、気安く挨拶する。ノートパソコンで何かしらの作業をしていたらしい伸司が顔を上げた。
「お……なんだお前か」
「久しぶり、おっさん」
「おっさん言うな。ってか、珍しいな。今日はお前一人か?」
「そーだよ、一人で悪かったな。――いや、二人で来るつもりだったんだけどさ。美夜子(みやこ)のやつ、体調不良で早退しちまったんだよ」
志野美夜子(しのみやこ)は十香と同じ高校に通う一学年下の後輩だ。ある理由から高校入学以来ろくに友人を作ろうとしてこなかった十香にとっては数少ない、親友と呼べるほどの仲である。
詳しい事情は聞いていないが、美夜子は以前、伸司に助けられたことがあるのだという。それ以来、美夜子は伸司に懐き、平日休日問わず頻繁にこの事務所に通っているらしい。十香もそれに付き合う形でたまにここへ遊びにきていた。
「体調不良って、風邪とかか?」
伸司の問いに、十香は肩をすくめながら答える。
「さぁ……。大したことないから心配するなって携帯に連絡来てたんだけどさ。最近あいつ休み多いんだよな。みょーに調子悪そうっていうか……」
「そうなのか……」
伸司は口元に手を当て、何か思案するような表情になる。彼女のことを心配してもいるようだが、それだけではないような……。
「――なんか気になることでもあんのか?」
「ん? いや、なんでもない。それより、頭拭いとけよ。お前も風邪引くぞ」
「はいはい」
大理石の応接テーブルに鞄を置き、中からタオルを取り出す。
「急に降り出すから参ったよ。あ、帰りにまだ降ってたら傘借りてっていい?」
「構わんが、ちゃんと返せよ」
「そこまでずぼらじゃねーよ」
雨に濡れた頭と肩をさっと拭いた後、少しでも乾くのを早めようとスカートの裾先をつまんでパタパタと動かす――と、無意識にしてから十香はハッとする。目の前にいるのは倍近く歳の離れたおっさんとはいえ、今のは少しはしたなかったか。赤面しそうになりながら伸司のほうを見たが、彼は再びノートパソコンに向かって何か打ち込んでいた。
「……それ、何やってんの?」
十香は応接用のソファに座りながら尋ねた。
「報告書作ってんだよ。依頼人に渡すやつ」
「へぇ-、仕事してるとこ久々に見た」
「失礼なやつめ……。お前ね、俺をただの暇を持て余した優しいお兄さんだと思ってるだろ。わりと腕はいいんだぜ? 名探偵と呼んでくれてもいい」
「へいへい。んで? その名探偵さんは今回どんな難事件を解決したわけよ?」
尋ねてみると、伸司は困ったように目線を逸らす。
「あー……そりゃ、お前、教えらんねぇよ。ほら、あれだよ。守秘義務とか、あるからな」
「えー? いいじゃんいいじゃん。大体でいいからさぁ!」
伸司は言い渋りつつ答える。
「…………迷子の猫を見つけました」
「はっ……ははっ! そりゃ、名探偵に頼むしかねーわ!」
「こら、笑うな!」
笑いはしたものの、実際のところ伸司は探偵としては優秀なのだろうと十香は思う。そうでなければ、この決して治安の良い街とは言えない夕桜で探偵業などやってこられなかっただろう。それはそれとして、やはり仕事は少ないのだろうが。
「はぁ……それで? お前、今日は何か用事があったんじゃないのか?」
伸司が報告書の作成を続けながら言う。
「おっとー? なぁんだよ、あたしは用事がなきゃ来ちゃいけないってのか? 美夜子はいつも用事があって来てるわけじゃないだろ」
「……メンドくさいこと言うなぁ、お前」
「美夜子のやつはやっぱ特別?」
「アホ。そんなんじゃない。あいつと違ってお前は一人でこんなとこに遊びにくるタイプじゃないと思っただけだ」
「ふーん。ま、その通りなんだけどさ」
十香はソファに座って、本題を切り出した。
「今日来たのはさ、おっさんにちょっと訊きたいことがあったからなんだ」
「だからおっさんて……まぁいいや。なんだ?」
十香が真剣な様子なのを察したのか、伸司も一時手を止めて顔を上げる。十香は少しの間を置いて、答えた。
「薔薇乃が最近学校に来てない」
「ああ……その件なら美夜子からも聞いてるよ」
やっぱり話していたか。美夜子は自分よりもずっと薔薇乃のことを心配していたから、そうだろうとは思っていたが。
「……もう三週間以上になるんだよ。これまでもちょくちょく学校休んではいたけど、こんなに長い間ってことはなかった」
最後に会ったのは、新聞部に纏わる事件を解決したあの日だ。あの時、薔薇乃は裏稼業のことで何か大きなトラブルに巻き込まれつつあるようなことを仄めかしていた。それによって、もう十香や美夜子と会うことは出来なくなるかもしれない……とも。
あの日のことはよく覚えている。学校で、薔薇乃と最後に言葉を交わした時、十香は「また明日も来いよ」と言った。薔薇乃は頷いたが、その日を最後に姿を消してしまったのだ。思えばあんなことを言ったのは、あの時からこうなることを予感していたからなのかもしれない。
「携帯に連絡入れても、ちっとも反応が返ってこないし……。あたしらにはあいつに何があったかなんて、全然わかんねぇんだよ。でもおっさんなら、何か知ってるんじゃないかって」
探偵である伸司は、十香や美夜子にはない情報網を持っているはずだ。この街で何が起こっているのか、起ころうとしているのか、彼なら知っているかもしれない。
伸司はしばらく無言でキーボードを打って、
「…………悪いが、とくに思い当たることはないな」
「そっかぁ……」
十香は落胆のため息をついてソファに寝転んだ。
まぁ、そりゃそうか。美夜子が何も聞いていないらしいことから予想出来た展開ではある。伸司でさえ知らないのなら、仕方がない。
「んー……どうすっかな。早速今日来た目的がなくなっちまった」
「じゃ、帰るか?」
「帰ってほしい?」
「まぁな」
「よし、夕飯食ったら帰るわ」
「居座る上に飯までたかる気か!? っていうか俺、仕事中なんだけど……」
「だいじょーぶだって。親父は商店街の寄り合いで遅いし弟も部活行ってるから適当なもん食うだろ」
「いや、話が噛み合ってないし、お前の都合は聞いとらんのだが……」
「まーま、いいじゃんべつに、邪魔はしないからさ」
十香はソファから立ち上がって、壁際の本棚に向かう。本棚は大きなものが二つ、どちらも伸司の仕事関係の資料をまとめたファイルが上段に、漫画が中段、下段には辞書類が詰まっていた。
「えーっと……」
十香は漫画の段を見つめて、伸司に尋ねる。
「なぁ。あたし、前に来たとき何巻まで読んだっけ?」
「何をだよ」
棚から一冊を取りだし、伸司に見せる。十香がここに来たときに少しずつ読み進めている格闘漫画だ。
「これこれ。たしか、主人公の師匠とクソつえーシラット使いの試合が始まったとこまで読んだんだよ」
「それなら……九巻からかな」
「おっ、サンキュー」
十香は九巻とついでに十巻を取って、ソファに戻った。寝転んで、漫画を読み始める。
「…………」
十香が二冊分の漫画を読み終えるまで、二人は何度か他愛のないやりとりを交わしたが、概ね静かに時間が過ぎていった。
「……ふぅ」
十香は読み終えた漫画を閉じ、テーブルに置いた。
「なぁ、腹減った」
「ふーん……」
伸司はキーボードに打ち込みながら十香の訴えをスルーしようとしたが、十香は構わず押していく。
「なぁー、頼むよー。このままじゃ腹減ってここから動けないんだよー。あ、そうだ! あれ食いたい、ピザ! 新しく注文したやつな! 三日前の食いかけとか出さないでくれよ」
「出さねぇよ! はぁ、しょうがねぇなぁ……」
伸司はやれやれ、といった具合に
「ちょっと待て、たしかチラシが……あれ?」
デスクの引き出しを開けてから、伸司は首を傾げる。
「あっ、そうか。向こうの部屋に置いてたんだ。ちょっと――」
ちょっと待ってろ、と言いかけたとき、伸司の携帯電話が鳴り始めた。携帯のディスプレイを確認し、伸司は驚いたような表情をする。思いもよらぬ相手から電話がかかってきた……という様子だ。
「あいつマジか……。――十香、奥の部屋行って、テーブルの上にあるピザ屋のチラシ取ってきてくれ。何頼むか決めとけよ」
「うーい」
伸司の事務所には、十香が今いる応接を兼ねた仕事部屋とは別に、もう一つの部屋がある。伸司が座るデスクの右側奥にある扉、そちらは伸司の私室であり、基本的に彼はその部屋で寝ているようだ。十香はこの事務所に何度か来ているが、そちらの部屋にはこれまで入ったことがなかった。立ち入りを禁じられているというわけではなかったが、十香自ら部屋に入る理由がなかったし、他人の部屋を無闇に覗く趣味もなかった。
言われたままに、十香はその部屋に入る。ベッドにサイドテーブル、チェストにクローゼット、家具類はそれくらいで、広さもせいぜい四畳半というところ。寝るためだけの部屋という感じだ。意外なほど片付いてはいるが、埃っぽく、やはりあまり掃除はしていないのだろうと推測できた。部屋に入って右側に一つだけ窓がついているが、すぐ向こう側に隣のビルの壁があるので景色も日当たりも最悪だ。
そういえば、家族以外の男の部屋に入るのは初めてだ……なんて考えが一瞬頭を過ぎったが、すぐに取り払った。伸司相手にそんなことを意識するのも馬鹿らしい。
探すまでもなく、目的のピザ屋のチラシは発見できた。ベッド横のサイドテーブルに置いてある。
「……?」
そこからふと視線を横にずらすと、チェストの上に置いてある写真立てが目に入った。写真には三人の人物が写っている。写っている場所はおそらく、この事務所だろう。いつものデスクに座ってリラックスした表情で写っているのが伸司だというのはわかるが、その両脇に立つ二人は十香の知らない人物だ。
伸司の左側で落ち着いた微笑みを浮かべているのは、丸眼鏡をかけた髪の長い男性で、赤いベストを着ている。見た感じ、歳は伸司と同じくらいだろうか。もっともこちらはどこか薄汚い伸司と違って紳士的というか、上品で知的な雰囲気がある。
もう一方、伸司の右側に立っているのはロングヘアの女性だった。こちらは他の二人よりは少し年下に見える。満面の笑みで伸司の肩に手を置きながら、もう一方の手でピースサインを作っている。かなりの美人だ。なんとなく、美夜子に似ている……気がする。
写真の右下に記載されている日付は、今からおよそ一年前のものだ。二人については知らないが、写っている三人の表情からして、気心の知れた仲なのだろうという気はする。
十香はとりあえずチラシを持って、仕事部屋のほうへ戻った。伸司はまだ電話をしている。
「――まぁ、なんとかやれてるよ。それで、いつ戻ってくるって? ……そうか。わかった、じゃあその時に」
そう言って、伸司は電話を切った。十香が戻ってきたのに気づいて、
「おう。あったか、チラシ」
「ん」
十香はチラシを手に掲げる。
「なぁ。あの写真に写ってるの、誰?」
「写真?」
「ほら。あっちの部屋に置いてあった……」
「……ああ、あれか」
伸司は僅かに苦笑して、頭を掻いた。
「ま……隠すような話でもないか。――眼鏡のほうは、この下にある骨董屋の店主だ」
「あー……いっつも閉まってるあそこ?」
「ああ。殆ど店も開けずに、いったいどうやって食い扶持を稼いでいるのか知らないが……あいつ、一年ほど仕入れの旅に行ってたんだ。んで、今度帰ってくるらしい。今電話でそう言ってた」
「あっ、電話その人からだったのか。友達?」
「友達……と言っていいのかね……。まぁ、あいつとは色々あったことはたしかだ」
「ふーん……それで? もう一人の女の人は?」
「もう一人は……」
伸司はそこで言葉に詰まる。ほんの僅かに、眉間に皺を寄せたように見えた。
「もう一人は……俺の大切な人だよ」
「えっ……えっ?」
十香は伸司の発言に素で驚いてしまう。いや、たしかにあの写真からして親密な雰囲気はあったが……。
「大切なっていうと……つまり……?」
「恋人だった」
「うおっ、マジか……。って……ちょっと待って? だった……ってなに? あっ、まさかもう別れちゃったとか――」
「死んだんだ」
「…………え?」
急に足下がぐらついたような感覚がした。それほど、伸司の口から出た言葉に衝撃を受けた。
「死んだ……?」
「ああ。あの写真が撮られた、少し後にな。突然のことで……俺は別れの言葉も言えなかった」
伸司は真顔に淡々とした口調で語るが、言葉にはこの上なく悲痛な感情が宿っているように思われた。聞いているだけで、胸が抉られるように痛む。
クソ……なんだよ、これ。
十香は己の些細な好奇心を呪った。訊くんじゃなかった。伸司にこんな話をさせてしまったことも嫌だが、彼にそんな過去があったなんて知りたくなかった。悩みもなく気楽そうに生きているおっさんだなんて思っていた自分が、バカみたいじゃないか。いや、みたいじゃなくて、バカなのか。
十香は片手で顔を覆い、しどろもどろになりつつ言う。
「あぁ……なんつーか、その……ごめん」
「いや……べつに気にしなくていい。俺も気にしちゃいない」
十香はため息と共に髪をぐしゃぐしゃと掻き乱すと、伸司のデスクにピザ屋のチラシを置いた。
「ピザ……やっぱいいや。今日は、もう帰るわ」
「……そうか。悪いな」
「意味わかんねぇ……なんであんたが謝んだよ」
伸司は小さく自嘲的に笑って、「そうだな」と呟いた。
十香は、応接テーブルに置いていた鞄を手に取って事務所の出口に向かおうとする。
「十香」
呼び止められ、振り返った。
「なんだよ」
「さっきの話……岸上薔薇乃についてだけどな。実は少しだけ、俺の所にも情報が入ってきてる」
「えっ……? でもさっきは……」
「すまん。話したら余計心配すると思って、知らないふりをしていた」
「ああ!? なんだそりゃ? ……なら、なんで話す気になったんだよ?」
「……なんでだろうな。俺もよくわからん。だが、話す機会を失ったらもう二度とそれを得られないこともある……そう思うと、やはり話しておくべき気がした……のかもな」
「んだよ、はっきりしねぇな……。まぁいいや。聞かせてくれ」
伸司は頷いて、話し始めた。
「おそらく岸上薔薇乃は今、ナイツの内部抗争に巻き込まれている」
「……ナイツってのは、薔薇乃の所属してる組織だよな。身内同士で争ってるってこと?」
「そうだ。今、この夕桜にはナイツの支部が二つ存在する。岸上が統治する東支部と、もう一方の西支部だ。その二つで争ってんのさ。表沙汰にはなってないが、ちらほら死体だって出始めてる」
「違う支部とはいえ、同じナイツなんだろ? どうして味方同士で……」
「詳しい事情は俺にもわからん。まぁ、おおよそ推測出来なくもないが……。それは置いておくとして、重要なのは東支部のボスである岸上は命を狙われているということだ。だから迂闊に世間に姿を現すわけにはいかないんだろうさ」
「殺されないように、どこかに隠れてるってことか?」
「多分な」
「生きてはいる……んだよな?」
「あいつが死んだらそれこそ大事件さ。俺のところにだって多少は情報が入ってくるはずだ。今のところ、そういう話は聞いてない」
「そっか……」
それを聞いて、十香は少し安心した。そこへ伸司が、十香の様子を窺うように尋ねる。
「岸上薔薇乃のことが、そんなに心配か?」
「……そりゃあな。なに? そこ疑問に思うとこ?」
伸司は一呼吸置いて、十香を見据える。
「ナイツの支部長としてのあいつがどういう人間かっていうのは、お前も知ってるだろ?」
「ん……まぁ、話にゃ聞いてるよ。詳しいわけじゃないけど」
薔薇乃は基本的にそういう話を十香たちに聞かせようとはしなかった。十香も訊こうとはしなかったから、彼女の裏稼業について知っていることは殆どない。だが、十香は一度だけ、薔薇乃本人の口から聞かされたことがある。彼女が今まで、数え切れないほど多くの人間を殺してきたという話を。
「いつかこういう状況に陥ることは、あいつだってわかっていただろうさ。美夜子もそうだが、お前もあまり気にしないほうがいい」
「……薔薇乃は悪いやつだから、殺されても仕方ない。だから割り切れって言いたいのか?」
「……そこまで言うつもりはないがな。私人としての岸上はお前らにとって良い友達なのかもしれないさ。でも、忘れるなよ。あいつは本質的にお前たちや、俺とも違う種類の人間なんだ。肩入れしすぎると、お前まで地獄を見ることになるぞ」
伸司は心配して、忠告してくれている。それはわかる。わかるが。
「…………理解はしてるよ。あいつに、あたしや美夜子も見たことないような冷徹で残酷な一面があるってことは。死んだら地獄行き間違い無しの極悪人……本人がそう言ってた。そんでさ、こうも言ってたよ。自分が突然いなくなっても、探すな……忘れてくれ――ってな。それがあたしや美夜子の為なんだと」
「…………」
伸司は真剣な表情で十香の言葉を聞いていた。
「あいつの言いたいこともわかることけどさ……それ聞いてムカついたんだよ、あたし。だって勝手すぎるだろ……そんなの。あいつがどんなに悪い人間だったとしても、それだけじゃないってこともあたしや美夜子は知ってんだ。そうである限り、あいつが友達なことに変わりはないんだよ。だからさ……友達の心配くらいしたっていいだろ?」
伸司は視線を下げ、深く息を吐いた。
「わかった……余計なお世話だったようだな。すまん」
「べつにいいって。……なぁ。美夜子にも同じこと言ったのか?」
「いや……あいつには言ってない」
「ふぅん……言っとくけど、あいつ、ああ見えてあたしよりずっと頑固だかんな。今みたいなこと言われても『わかった』なんて絶対言わねぇぞ」
「……だろうな」
伸司は苦笑してから、十香に言う。
「なぁ。もしも美夜子が、岸上薔薇乃のことで――いや、岸上薔薇乃のことだけじゃない。とにかく、あいつが無茶しそうになったら……お前が止めてやってくれ」
「え……? いや、それはいいけどさ……あんたはどうすんの?」
「俺だって止めはするさ。でもお前が言うとおり、あいつは頭良いわりに物わかりが悪いというか……そういうとこあるからな。俺の言葉だけじゃ、あいつを止められないかもしれないだろ。それに……」
「それに?」
「……まぁ、とにかく頼むよ」
「……? わかった」
なんだ……? 伸司は伸司で、なんだか様子がおかしい気がする。
「なぁ……あんた。まだ何か、隠してるだろ?」
「…………」
伸司は黙って数秒、十香を見つめた後、ゆっくりとため息を吐いた。
「ふー……。やっぱり隠しきれんか。……実は昨日、迷子猫を探してる途中に腰を痛めてしまってな」
「んぁ……はぁ?」
「古い民家の縁の下にな、潜り込んでたんだよ、猫が。そんで屈んで覗き込もうとしたら……こう、ピキッと。若いお前にはわからんだろうが、ありゃあ、かなりキツいんだぞ?」
「はぁ……」
「そういうわけで、俺は今、万全の状態とは言えん。まぁ一週間もすりゃあ治るとは思うが、その間はお前にもあいつのこと、注意しておいてほしいんだ」
「ったく……神妙そうにしてるから何事かと思ったじゃねーか。はいはい、わかったよ。養生しろよな、おっさん」
十香は呆れ笑いしながら、事務所の扉に手をかける。ふと、窓の方を見て。
「雨、止んだっぽいな。――じゃ、帰るわ……またな」
「おう、またな」
――凪野ビルから出た十香は、空を見上げた。雨は止んでいるが、来たときにはなかった分厚い雲が空を覆っている。十香は舌打ちをする。
「あーあ……やっぱ傘、借りといたほうがよかったかな」
かといって戻る気にもなれず、十香は帰宅を急ぐことにした。
――また雨が来る。
【終】
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