【追憶するエンゲージメント】

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【追憶するエンゲージメント】

 スーツ姿の男が車を運転している。やや使い古したグレーのSUV車。男の年齢は三十代、短めの髪をオールバックにしており、目元は力強く険があった。一般的には強面の部類に入ると言えるだろう。  男は左手でハンドルを操作し、右手に携帯電話を持っていた。 『――念のために、もう一度確認しておくぞ』  電話越しに声がする。聞き慣れた声だったが、今日はいつもより強張っているように思えた。 『今回のミッションは人質の救出だ。お前が今向かっている廃工場が敵のアジトになっている。対象の人質はその工場のどこかに監禁されているはずだ。調査班によれば敵は少なくとも六人、生死は問わないが一人も逃がすなとのご指示だ。だが、入り口には見張りがいて簡単には侵入出来そうもない。強行突破すれば人質に危害が及ぶ可能性がある。そこで今回の作戦だ。調査班のおかげで奴らがナイツと繋がりのある武器商から銃器を購入しようとしていることが判明した。その配達人は既に別の班が足止めをしているから――』 「……そう何度も説明しなくてもわかってるよ」  入り組んだ山道を走りながら、スーツの男はややうんざりして言った。ミッションの内容ならとっくに頭に入れてある。 「俺がその配達人に成りすましてアジトに潜入、内部の状況を確認して、可能ならそのまま人質を救出する……だろ?」 『余計なお世話だったか。悪いな、久々の大口依頼だったから俺も緊張しているのかもしれん。――お前はどうだ?』 「……べつに。いつも通りやるだけだ」 『へぇ、さすがだな。……だが気をつけろよ。奴らが銃を買おうとしていたのはあくまで長期戦に備えて装備の拡充を図っただけだろう。調査班の報告を鑑みても今の段階で全員武装している可能性が高い』 「だろうな」  それが予測出来るならもっと戦力を増やしたほうが良さそうにも思えるが、依頼主はこの件を極力内密にしたがっているようだ。関わる人間は最小限に留めたいのだろう。更に今回は緊急を要する案件で、すぐに動けて腕の良い――Aランク以上のヒットマンは少なく、自分が選ばれたらしい。  しかしその説明にも疑問の余地は残る。今回の依頼主はこの業界ではかなりの大手……自由に動かせる手駒は幾らでもいるはず。Aランク以上という条件を付けたとしても、わざわざ外部のヒットマンに頼る必要があるとは思えない。内密にことを進めたいというのなら、尚更だ。  つまり、あるのだろう。自ら子飼いにしているヒットマンにではなく、外部の者に依頼を預ける何らかの理由が。……まぁ、今はそんなことを考えても仕方あるまい。 「――もうすぐ現場に着く。そろそろ切るぞ」 『ああ、わかった。依頼主からの要望でもあるからな、今回はあまり手伝えそうにない。上手くやれよ、叢雲(むらくも)』  叢雲と呼ばれたスーツの男――戌井千裕(いぬいちひろ)は、電話を切ると、サングラスをかける。山道の脇に車を停めると、シルバーの大型アタッシュケースを手に持って降りた。  指定の場所は山中の廃工場から東側、少し離れた高台にある林の中だった。その中に、三人のスーツを着た男たちがいた。  千裕が彼らに近づくと、その中の一人が気づいて言う。 「どうも。あなたが叢雲さんですね?」  千裕は頷く。 「そうだ。君たちが伏王会(ふくおうかい)の?」 「ええ、我々が調査班です。今回は来ていただいてありがとうございました。叢雲さんがいれば私たちとしても心強い。よろしくお願い致します」  三人が揃って一礼する。こうもかしこまられると、却ってやりづらいのだが……。千裕はサングラスのブリッジを指で直しながら答える。 「ああ……まぁ精一杯やってみるさ。それで、人質の情報については君たちから聞くように依頼主から言われているんだが……」  千裕はまだ救出すべき人質がどういった人物なのかを知らされていなかった。それはマネージャーである名護(なご)も同様である。伏王会からの依頼であるということから、誘拐されたのが組織に関わり深い要人であることは想像がついたが。  調査班の男が答える。 「はい。叢雲さんも既に察しておられるかもしれませんが、今回の案件は大変デリケートな状況にあります。……ですので、失礼ながらギリギリまで伏せさせていただきました。実は……奴らに誘拐されたのは、伏王会会長・業鬼(ぎょうき)様のお孫様なのです」  会長、ときたか。予想より大物だったな……。 「孫……というと、まだ子どもなのか?」 「はい。もうすぐ十歳になられる女の子で……」 「なるほど……」  伏王会と対立する組織が、相手の動きを封じるためにその少女を誘拐、人質にしたというところか。そのあたりの経緯や事情に興味はないが、まだ幼い少女が大人たちの抗争に巻き込まれ、恐ろしい思いをさせられているというのは気にくわない。ともかく、可能な限り早く助けてやることを考えるべきだろう。 「見張りは、二人か……」  千裕が廃工場のほうを見下ろして言う。敵のアジトである廃工場は高台にある林よりもやや低い位置にある。入り口の門を守るように、二人の見張り番が立っていた。彼らは近所のコンビニにでも行くようなラフな恰好をしているが、二人ともアサルトライフルのAK-47を所持しているようだ。  向こうからは、高所であることに加え木々が邪魔になっていてこちらの姿は見えづらくなっている。そもそも敵はまだアジトの場所がこちらにバレていることには気がついていないので、とくに警戒している様子でもない。 「一応裏口はありますが、ブービートラップでガチガチに固められていて、そちらからはとても侵入は出来そうにありません」 「正面から入るしかない、か。……スナイパーの手配は?」  千裕が問うと男は後方高くを指さして、 「うちの組織から二人、プロではありませんが狙撃の経験がある者を用意しました。ここより一段高い場所で待機させています。既に狙撃準備も終えていますが……しかし外の敵だけ排除するわけにもいきません。建物の窓から見張り番の様子は見えるようになっていますから、見張りが排除されたと気づかれたら人質であるお嬢様が危険です」 「わかっているさ」  千裕は右手に持ったアタッシュケースを軽く掲げる。 「予め決めていた手筈通りに、俺が武器の配達人として中に潜入する」  誘拐犯の組織はナイツと繋がっているわけではないらしい。ナイツと繋がりのある武器屋を使ったのは単に伏王会側に情報が漏れないようにするためだろう。相手にとっては殺し屋が配達人に成りすまして乗り込んでくるというのは完全に想像の範囲外のはずだが、もしものときのことも考慮しておく必要はある。 「理想は人質の監禁場所を特定した後で一人ずつ確実に始末することだが……まぁ強引な手段に出るしかない場合も充分あり得るだろうな。中から銃声が聞こえたら、即座にスナイパーへ指示を出して外の見張りを始末させろ。外へ逃げようとする奴がいた場合はそれも任せたい。いいか?」 「わかりました。そのようにします」  とりあえずこれで後顧の憂いは断てるか……。あとは……。  千裕はふと視線を下げる。よくわからない箱形の機械の上に、バレーボールくらいの大きさのパラボラが付いた指向性マイクが置かれている。機材からはコードが伸びており、奥の男が付けているヘッドフォンに繋がっていた。これで距離の離れた敵アジト内の会話を拾っているのだろう。奴らが銃を買おうとしているのもこれで判明したという話だった。 「……拾えた会話で何か気になることはなかったか? 人質が監禁されている部屋のおおよその位置なんかがわかるとやりやすいんだが……」  奥にいた片耳にヘッドフォンを当てて音を拾っていた男が、申し訳なさそうにかぶりを振った。 「すみません。奴らの雑談が時折聞こえてくるくらいで、制圧に役立ちそうな情報はなにも……」 「そうか……」 「ただ、お嬢様のおおよその位置ならば見当がつきます。実はお嬢様の靴にはGPS発信機が仕込まれていて、今回こうして敵のアジトを特定することが出来たのもそのおかげです。その発信ポイントから察するに、お嬢様が囚われているのは工場の東奥側にある部屋だと思われます」 「東奥側だな。わかった」  つまり中に入って右手側の奥というわけだ。 「ただ、靴を脱がされて別の場所に移動させられている可能性もありますので――あっ、待ってください……」  そこで男がヘッドフォンを両耳に付けて音に集中する。何か聞こえたらしい。少しして片耳のヘッドフォンだけをずらし、千裕へ報告する。 「今、また奴らの会話が。どうやら銃の販売員が遅れていることを気にしているようです。催促の電話をしたほうがいいのではないかという提案が上がりました。もう少しだけ待とうということになったようですが……」 「急いだ方がよさそうだな……」  あまり長引かせてはそれだけ人質の少女が怯える時間も長くなってしまう。……早々に決着をつけるとしよう。  千裕はまたサングラスの位置を指で直してから、調査班の三人に向けて言う。 「……では、行ってくる」  千裕は林の中を迂回してから抜けだし、工場の門前まで歩み出た。 「おう、止まれ止まれ。……あんた、何もんだ?」  見張りの一人が声をかけてきた。二人が同時にアサルトライフルを構え、いつでも撃てるように指までトリガーにかける。  最低でも中に入りこむまでは正体に気づかれるわけにはいかない。千裕は右手に持ったアタッシュケースを見せるようにして言った。可能な限りの愛想笑いを浮かべて。 「こんにちは。私は『アウドムラ』から来た配達人です。この度はご利用ありがとうございます。ご注文の品をお届けに参りました」 「ああ、あんたがそうか。遅かったじゃないか」  見張りがライフルを下げる。千裕は照れたように頭を掻きつつ答えた。 「いやはや、申し訳ありませんでした。途中少し道に迷ってしまいまして……」 「ああ、そういやぁここまでけっこう入り組んだ道だったしな。しょうがねえか。――中の連中が待ってる。案内してやるよ、来な」  そう言って、見張り二人共が工場内へ移動しようとする。千裕は手を振りつつ、 「いえ、私一人で大丈夫ですから……。見張りの方が抜けるのはマズいのでは?」 「気にすんなよ。どうせ誰も来やしねぇんだ。俺たちもそろそろ休憩入れようと思ってたんだよ。それとも、俺らが一緒だとマズい理由でもあるのか?」 「……いえ、とんでもない。それではお願いします」  見張りはスナイパーに始末させるという策は無駄になったか……。まぁ、仕方ない。  千裕は案内されるまま、工場の中へ入っていく。中はがらんとした広い空間になっていて、中央に大きなテーブルがあるだけだった。  奥と、それから二階にも部屋があるようだ。人質が監禁されているのはその部屋のどれかだろう。 「おお! アウドムラの店員だな? やっと来たか! 待ちくたびれたぜぇ!」  中にいた金髪の男が手を打って寄ってくる。その周囲には三人の男。見張り番の二人も合わせるとこれで六人だ。これで全員か? いや、まだ奥にも誰かが潜んでいる可能性はある……。  千裕は相手に気取られぬようサングラスの内側から視線を巡らせ、敵の装備を確認する。  見張り番の二人以外も、おそらく全員武器を持っている。見える範囲では拳銃を手に持っているのが奥に二人、金髪ともう一人も懐の膨らみ具合から見て拳銃のようなものを持っているはずだ。 「どうもお待たせしました。それでは早速、ご確認ください」  千裕はアタッシュケースをテーブルの上に置いて、開く。 「どれどれ……」  金髪の男がケースを覗き込む。この男がリーダー格なのだろうか……? 「ええっとベレッタが二丁に――シグが一丁、グロックが二丁に、手榴弾が三つと……それからMP5! マガジンも各種揃ってるな」  金髪が中身を確認して頷く。注文の内容通りのものを揃えてあるはずだ。 「商品に間違いはございませんでしたか?」 「おお、バッチリだ。――なぁ、ちょっと試し撃ちしてみてもいいかな? ほら、こーいうのはすぐ確認しておかないと。後になって不備が出たってわかると色々面倒でしょ? お互いに」 「ええ、勿論構いませんよ」 「サンキュー、じゃあ早速……あれ?」  金髪がサブマシンガン・MP5を手に取り、装填されたマガジンを確認して言う。 「なーんだ、もう弾入ってんだ。普通こういうとき抜いておくもんじゃない? 危ないでしょ。俺たちと違ってマナーの悪い客もいるだろうし」  ……普通はそうだ。仕込みをした人間のミスか……自分でももっと入念に確認しておくべきだった。  千裕は努めて冷静に返す。 「……いえ、滅多にそういうことはありませんし、我々とお客様双方にとって、その方が手間が省けて良いかと思ったのですが」 「ふーん……まぁこっちは助かるからいいけど? それじゃあ早速試し撃ちさせてもらおうかな――」  金髪はニヤリと笑って、千裕の後方にいる仲間へ一瞬視線を送る。  ――来るか。 「――じゃあ死ねよバーカ!」  唐突にMP5の銃口が千裕の方へ向いた。  千裕は瞬時にその銃身を左手で掴み、身体をMP5の射線からずらしつつ――上着をめくって右手で腰元のホルスターに差してあったコルト・ガバメントを抜き、金髪の胴体に向けて45口径ホローポイント弾を撃ち込む。常人であればまず目で追えないほどの早業だった。  それから僅かに遅れてMP5が連射されるが、千裕を狙った銃口は逸らされ、代わりにその斜め後方にいた見張り番の顔面に無数の穴を開けてしまう。 「ッ――!?」  不意打ちを仕掛けたつもりだった金髪の表情が一気に強張る。相手が腹を撃たれた激痛でMP5から手を離すと、千裕も銃身を掴んでいた左手を離し床へ落とした。  敵の残り四人が一斉に武器を構えようとする。しかし千裕の動作に比べるとその動きは極めて緩慢だ。  千裕は相手が構えるより先にコルトを二連射、金髪と、その後方に立っていた男の顔面をそれぞれ撃ち抜く。同時に左手でもう一方のホルスターからベレッタM84を抜くと、両腕を交差させるようにして右サイドにいた男の胸元に二発撃ち込んだ。――これで残り二人。 「このっ――!」  見張り番だったうちの一人がアサルトライフルのトリガーに指をかける。もう一人の男もリボルバーを構えていた。  千裕は身体を捻って大きく横に飛びこむようにしてその射線から逃れる。ライフル弾の雨を躱しつつ、千裕は床に倒れ込むような体勢のままコルトとベレッタをそれぞれ別の相手に狙いをつけ――トリガーを引いた。 「がっ……はっ……」  アサルトライフルを持った男とリボルバーを持った男がそれぞれ呻き声を上げて倒れる。  千裕はゆっくりと立ち上がって、ふぅと息を吐いた。  ……これで全員か? それにしても、いきなり仕掛けてくるとは。最初からそのつもりだったのか? 金を払わず配達人を殺して銃を奪い取るつもりだった?  いや、それにしても何かが引っかかる……もしかして……。 「――おっと、動くなよ。今あんたの頭に狙いをつけてるぜ」  右斜め後方から声がした。千裕は顔だけをゆっくり動かしてその姿を確認する。十五メートルほど離れた位置から、スーツ姿の男がサプレッサーを付けたハンドガン・ルガーP85をこちらに向けて構えている。工場にいた連中とは服装の雰囲気が違う。男は今しがた、扉が開けっぱなしだった正面入り口の方から入ってきたらしい。  ……そうか、そういうことか。 「伏王会の人間だな? 調査班の中にはいなかった顔だ……そうか、待機していたスナイパーか?」 「ほう、察しが良いな。その通りだよ」 「外にいた連中はどうした?」 「お前がここに入った後で全員殺した。もう一人のスナイパーもな。あとはお前だけだ」  最初から伏王会に奴らの仲間が紛れていたのだ。スナイパーがここまでわざわざ乗り込んできたのは、工場の中は狙撃しづらいからか? いや……狙撃の経験がある者として名乗りを上げ無理やりこの場についてきただけで、本当はそんな技能などないのかもしれない。 「……お前が俺の情報をこいつらに流していたんだな? 配達人に成りすました俺の正体を最初から知っていたから、いきなり仕掛けてきた……というわけか」  男がニヤリと笑う。 「正解、10ポイント! ――あぁ、だがあんたがこんなに強いとは予想外だったよ。七人もいりゃあ流石のAランクヒットマン叢雲も歯が立たないだろうと踏んでたんだが……まさかまさか、六人もやられちまうとはな」 「七人……」  その時、工場の奥からまた別の男が現れる。こちらも拳銃を千裕に向けて構えていた。  もう一人いたのか……。 「いやぁ~隠れて見てたけど、やっぱすげぇよプロはよぉ。あっという間に六人を片付けちまうんだもんなぁ。でも流石にこの状況から逆転は無理っしょ? あんたは銃を構えてもいない上に二人から前と後ろのサンドイッチ、潰れた卵ってワケ」  男たちはそれぞれ千裕から見て右斜め前方と後方からそれぞれ少しずつ近寄ってくる。後方の男は左に動き、完全に千裕の視界外へ隠れた。  ……さっき背後を取ったのに不意打ちを仕掛けなかったのは、こちらの暴発的な反撃、発砲を嫌がってのことだろう。つまり離れた距離から一発で確実に仕留めるほどの自信はないということ。距離を充分に詰めてから撃ってくるつもりか……。 「スーツのほう、最後に確認しておきたい」  千裕は前を向いたまま、後方の男に対して言う。 「今回の誘拐を手引きしたのはお前か?」 「……まぁそうだな、どうせここであんたは死ぬんだ。せっかくだから教えといてやるよ。あんたの言うとおり、俺がスパイとして色々と情報を流して誘拐を手引きしたんだ。まぁ、誘拐したガキにGPSが仕込まれていることに気づかず、調査班にアジトの位置が割れちまったのは手痛いミスだったが……ここであんたを殺しちまえば問題はない」  なるほど……。身内にスパイが紛れている、おそらく伏王会もその可能性には気づいていた。だから、作戦のキーであるヒットマンに外部の者を雇ったのだろう。汚染されているかもしれない手駒を使うより、金さえ与えれば確実に動く者を使うほうが安全だと考えた。結局、全てを外部の者任せにするわけにもいかず、そこをスパイにつけいれられてしまったようだが。  千裕は肩を軽くすくませ、微笑する。 「……それだけ聞ければ充分だ」 「ああ?」  千裕は瞬時に身を屈め――相手が反応するよりも速く――前方へ向けて右手のコルトを、後方へ向けては左のベレッタをノールックで撃ち込む。コルトの弾丸は前方の男の額へ、ベレッタの弾丸は後方の男の胸へそれぞれ命中した。 「なっ……速っ……!?」  スーツの男は口から血の泡を噴きながらうつ伏せに倒れる。 「て……てめぇ、こっちを見もしねぇで……んなのありかよ…………クソが……」  男は憎悪を込めて千裕を睨みつけながら、絶命した。工場内は静まりかえる。周囲に気配はなくなったようだ。 「…………」  千裕はサングラスの位置を直しつつ、工場の奥へと向かった。GPSの位置から推測すると、人質が監禁されているのは東側の奥の部屋だろうという話――その推測は、当たっていたようだ。  扉越しに人の気配を感じる。耳を澄ましてみると、緊張したような息遣いが僅かに聞こえた。……それも、おそらく二人分。  千裕は右手にコルト・ガバメントを持ち、左手でドアノブを回した。 「あっ……」  扉を開けると、その少女は怯えたような表情で声を漏らした。綺麗な長い黒髪の、十歳くらいの少女。身につけたジャケットとズボンは高級品らしく、見た目から品の良さが滲み出ている。――間違いない、彼女が誘拐された少女だ。  そして、立ちすくむ少女の背後には誘拐組織の仲間と思しき男がいた。少女の身体を盾にするように屈んでおり、少女の首元へ、右手に持ったグロックの銃口を突きつけている。 「へっ、へへ……銃を捨ててもらおうか? 叢雲さんよ」  七人で全員かと思っていたが、戦力として数えられていない人質の監視役がいたようだ。……この男をなんとかしない限り、ミッションは達成できそうにない。 「おい、聞こえてんだろうな? さっさと銃を捨てろっつってんだよ!」 「……わかった」  千裕は右手に持っていたコルトを床に落とした。 「……もう一方の銃もだ」 「…………」 「もう一方の銃も捨てろ!」  男が怒鳴ると、盾にされた少女はびくりと身体を震わせた。少女の顔は青ざめている。誘拐されてから時間も経っているし、ここにきて銃を向けられるという恐怖からくる極度の緊張状態で、もう限界が近いのかもしれない。男とのやり取りに時間を掛けている暇はなさそうだ。  千裕は脳内で思考を巡らせた。……どうやって助ける?   人質が銃を突きつけられている場合、最も確実に救出する方法は、銃を持った相手の眉間を一発で撃ち抜いて脳幹を破壊、即死させること……。一度脳から信号が発せられてしまえば、その後で脳を破壊しても銃の引き金は引かれてしまう。だから一瞬で生命活動を停止させる必要があるのだ。そして、その為には正確且つ刹那の射撃が求められる。  千裕の立つ位置から少女及び男との距離は約六メートル。男の頭の中心から左へ十センチも弾丸が逸れれば、少女の頭に当たってしまうという位置関係。  左手でホルスターからベレッタを抜き、男の眉間へ撃ち命中させる――相手に反応すらさせないようにするなら、これをコンマ五秒……いや四秒以下で決めたいところだ。  ……自信はある。この距離ならまずしくじることはない。左手は利き手ではないが、俺なら右手とほぼ同じ精度で撃てる。  しかし……もしもという事がある。もしも抜き撃ちの際、スーツの上着に銃が引っかかりでもしたらそれでお終いだ。もしも弾丸が男の脳幹から僅かに逸れ、奴が引き金をほんの数ミリ引くだけの余力を残してしまったとしたら……。  そう――ごく僅かな可能性であるとはいえ、失敗はあり得る。いつものように自分一人のことならこの程度は問題にもしないだろうが、今回は違う。失敗すれば少女の命が失われてしまうのだ。どんなに微少なリスクであっても、無視は出来ない。  この状況で、人質の彼女を助ける最も確実な方法は――…………よし。これでいこう。 「おい……無視してんじゃねぇよ! お前がもう一丁銃を持ってることは知ってんだ! さっさと捨てろ!」  男がまた怒鳴る。人質の少女は身をすくませて、「ひっ……」という短い悲鳴を上げた。 「怒るな。その子が怖がる」 「ああ?」 「それと、もう一丁の銃は捨てない。捨てたらお前を殺せなくなるからな」 「な、何だと……? お前、この状況がわかってんのか!?」  千裕は相手を挑発するように鼻で笑う。 「それはこっちの台詞だ。お前は自分が優位に立っていると思っているようだが……それは大きな間違いだ」 「……?」 「俺は最速コンマ二秒台で目標を撃ち抜くことが出来る。人質を取ろうが関係ない。お前が引き金を引くよりも先に俺が撃つだけだ。この距離ならお前の頭だけを正確に狙い撃てるぞ。さぁ、この状況で俺にもう一度銃を触らせることの意味がわかるか?」  「ッ……!」  男の表情に焦りが滲む。千裕は次の段階に移るための台詞を口にした。 「……安心しろ。今大人しくその子を解放すれば、お前だけは見逃してやる。俺は関知しないから好きに逃げろ」 「な、なに……?」 「俺はその子さえ助け出せるならそれでいいんだ。ただし、その子に怪我の一つでもさせたら次の瞬間にはお前を殺す。……このままじっとしていてもやっぱり殺す。――落ち着いてよく考えろよ。お前が選ぶのは、どの選択肢だ?」 「くっ……」  男が悩むような素振りを見せる。グロックを持つ手が僅かに揺れていた。  ……人質を殺せばその瞬間に自分も殺されるということは奴も理解しているはず。かといって、こちらの提案を素直に呑むとも思えない。これで奴が選ぶ選択肢は、自ずと一つに限定されるはず――。  その時、千裕は人質の少女と目が合う。澄んだ綺麗な瞳だ。その瞳が今は恐怖の色に染まっている。  千裕は僅かに口角を上げて、少女に微笑んだ。 「……大丈夫だ。すぐ助けてやるから、そのままじっとしているんだぞ?」 「……!」  少女の目にほんの僅かだが、希望の色が映り出した……ように見えた。 「ははぁ……なるほどそういうことか」  男がなにかに納得したように言う。 「お前……本当は正確に俺だけを撃つ自信なんてないんだろ? そうじゃなきゃわざわざさっきみたいな提案をするはずがない。それが出来るなら黙って俺を撃てば良かったんだからな」  ……上手くいったようだ。奴は自らその答えに至った。至らされたことには気づかずに。  奴は勝算を見出した。これできっかけは充分のはず……。  千裕はゆっくりと、最後の一言を告げた。 「……じゃあ、試してみるか?」 「ッ――!」  男のグロックを持つ右手が動こうとするのを見てから、千裕は左手でベレッタを抜きにかかった。グロックの銃口が千裕へと向けられる。  一発の銃声。男はベレッタから射出された弾丸によって眉間に穴を開けられ、仰向けに倒れた。 「……ふぅ」  千裕は大きく息を吐いて、ベレッタをホルスターに仕舞う。  銃を一度こちらに向けさせてしまえば、万が一しくじったとしても撃たれるのは自分で済む。防弾のインナーを着込んでいるから自分は撃たれても問題はなかったし、奴に急所である頭や腰骨を狙い撃てるほどの技術があるとも思えなかった。  人質の少女の安全を第一に考えてのことだったが、少し慎重すぎただろうか……? 前々から自覚してはいたが、この確実性を優先しすぎる性格というか……不安症は、見ようによっては悪癖だ。いざという時、貴重なチャンスをふいにしてしまうことがあるかもしれない。  ……まぁ、今回は上手くいったのだからよしとするか。  少女は撃たれて死んだ男を驚いたような表情で見つめていたが、すぐに千裕のほうへ振り返った。 「あ…………」  少女は千裕を見上げたまま、なんと言えばいいか困っているようだった。  この見た目だと怖がるだろうか? 千裕はサングラスを外すと、少女の目線に合わせるように床に片膝をついた。 「怪我はないか?」  少女は頷く。 「あ……ありがとう……ございます。おじさんは……?」 「む……おじさんときたか……」  一応まだ三十前半なのだが……。いや、子どもから見れば充分おじさんか……。 「もう大丈夫。俺は叢雲という者だ。君を助けるために来た」  それを聞いて、少女はやっと緊張を少しばかり解いたようだった。疲れきってはいるものの、ほっとしたような表情になる。  そういえば、と。まだこの少女の名前がなんというのかを知らないことに千裕は気がつく。 「ええっと……君の名前は?」  少女は千裕の目を見つめながら、ゆっくりと答えた。 「……雅(みやび)。天堂寺雅(てんどうじみやび)、です」  後のSランクヒットマン・叢雲と、後の伏王会差配筆頭・神楽(かぐら)――これが二人の出会いだった。  ――あの人質救出ミッションから約三ヶ月後。その朝、千裕は天堂寺家の敷地内にある荘厳な日本庭園の中にいた。  天堂寺の家は街外れの坂の上に建てられている和風の屋敷で、途方もないほど広大な敷地を所有している。周囲は一面が高い塀に囲まれている上、正面の門と裏口はそれぞれ黒服の警備が複数体制で固めており、部外者を寄せ付けない雰囲気を醸し出していた。まるで任侠映画にでも出てきそうな建物だが、伏王会の始まりは極道組織がマフィア化したものだというから納得だ。  仰々しい門を抜けた先にある庭園には、丁寧に刈り込まれた立派な植木が所々にあり、白い砂利の上に飛び石を敷いた道が屋敷まで続いている。庭の中央には庭石と草木によって造られた美しい池泉まであった。  千裕はいつものスーツにサングラスという出で立ちで、道の脇にある石のベンチに腰掛けながら煙草を吸っている。キャビンの煙をくゆらせながら、千裕は自身のことについて考えていた。  あれから三ヶ月、冬が終わり春が来ようとしている。この三ヶ月で、千裕を取り巻く環境は一変した。  あの後、伏王会から新たに依頼を受けた。天堂寺雅の護衛係として、一年間の契約を結んだのだ。伏王会は現在複数の組織と抗争状態にあり、先日に雅を誘拐したのもそれら組織の一派だった。今後も同じようなことが起こるのを避けるため、信頼できる護衛を雇いたいとのことだ。  クライアントの要望で、マネージャーである名護にも護衛対象が誰なのかは伏せてある。それが伏王会の要人であるということだけ、伝えておいた。日本裏社会の二大組織のうち一つである伏王会とのコネを作っておくには良い機会……名護がそう強く勧めるので引き受けたが、千裕は当初この仕事に気乗りしていなかった。  理由は幾つかあるが、中でも仕事の拘束時間が長いことは問題だった。本業である刑事の仕事に比べればまだ規則的であると言えるかもしれないが、一日の大半は雅に付きっきりになる上、休みも少ない。今までは本業と殺し屋との二重生活をなんとか続けてくることが出来ていたが、流石に今回は無理だった。  叢雲はフリーランスの殺し屋であるが、ある人物から支援を受けて裏稼業を続けている。それが財団『月光の会』の会長である渡久地友禅(とくちゆうぜん)だった。渡久地は政財界との強い繋がりを持ち、裏社会においても強大な影響力を持つ日本でもトップクラスのフィクサーである。  千裕は殺し屋叢雲として支援を受ける代わりに、渡久地の邪魔になる人間を消してきた。しかし渡久地は非常に用心深い人間であり、叢雲との繋がりは隠すようにしていたのである。よって叢雲は渡久地からの依頼を積極的に且つ内密に受けるだけで専属というわけではなく、あくまでフリーランスの殺し屋として活動しているのだ。  渡久地からの根回しによって、千裕の刑事としての仕事は一年間休職という扱いになっている。そのため表の仕事が今回の護衛任務に支障をきたす心配はないが、千裕としてはやはり複雑な心境だ。  元は難病を患った妻を助けるために始めた裏稼業……苦渋の決断ではあったが、その甲斐あって今では妻の病状は回復している。昔から病弱だったために、今後も油断は出来ないが。  それに、今となっては足を洗うことなど出来そうもない。叢雲は既に、一人の殺し屋として裏社会で深く根を張りすぎたのだ。渡久地を筆頭に、こちらの世界には叢雲がいなくなると都合の悪い人間というのが確かに存在する。下手に抜け出そうとすれば、自分だけでなく妻や子どもにまで制裁の手が及ぶかもしれない……。  刑事と殺し屋という、まったくもって相反する二重生活は千裕にとって肉体的にも精神的にも重荷となっていた。しかしそれがある意味で支えとなっていた部分もあるのだ。  殺し屋稼業を続けていると、ふと自分自身が恐ろしくなる瞬間がある。銃の引き金を引くことに、人を殺すことに何の思いも抱かなくなってくるのだ。どうすれば効率よく相手の生命活動を停止させられるか、それを思考することに脳が最適化されていく。それに気がついて、自分が既に根っからの犯罪者であることを思い知らされる。だからこそ表側の生活が、殺し屋としての自分に飲み込まれてしまわないための最後の安全装置のような気がしていたのだった。今回はあくまで護衛であって殺しの仕事ではないとはいえ、裏稼業のみで一年を過ごすことへの不安はあった。  そういうわけで未だにどこか落ち着かない感じはあるものの、この仕事を始めてみてわかったこともある。一つは―― 「叢雲!」  声の聞こえた方向を振り向く。屋敷の方から、少女が飛び石の道を軽快な足取りで歩いてきていた。千裕は軽く手を上げて応える。  一つはそう、彼女のこと。天堂寺雅……容姿端麗にして頭脳明晰、それ以外にも、なにか言葉では言い表せないような、不思議な魅力を持った少女。彼女の存在はなかなかに興味深い。  雅は長い黒髪をうなじで一つ結びにしており、ジャケットに長ズボンという少女というよりは少年のような服装をしている。あまり女の子らしい恰好は好まないらしい。彼女は少し前に十歳になったばかりだが、見た目の雰囲気などはそれより幾らか大人びて見えた。  雅は千裕の前に立つと、両手を腰に当てて言う。 「今日も今日とて、辛気くさい顔をしているな。何か悩みごとか?」 「いや……何でもないさ」 「そうか、それならいい」  最初に会った頃よりは、だいぶ打ち解けてきた……ように思う。初めて会ったときとは口調も違うが、男っぽい喋り方をするのが本来の彼女のようだ。 「ん……また煙草を吸っているのか。身体に悪いぞ?」  雅は眉をひそめて言う。千裕は横を向きキャビンの煙を吐いてから答えた。 「今までこいつで体調を崩したことはないよ」 「ふぅん。人が心配しているのに、そういうことを言うんだな?」  雅はそう言って、千裕の右手から煙草をかすめ取ってしまう。そして得意げに笑って、奪い取った煙草をヒラヒラと動かして見せた。 「あっ、おい……」 「ずっと前から興味があったんだ。煙草って、どんな味がするのかと――」  制止する間もなく雅は煙草を口に咥えるが、すぐにげほごほと煙を吐き出した。 「うぇっ……なんだこれ、まずすぎる! よく吸えるな、こんなもの……」 「そりゃ子どもが吸って美味いもんじゃないさ。お前にはまだ早い」  千裕は雅の手から煙草を取り上げ、手持ちの携帯灰皿に押し込んだ。 「――それで? 今日はどうするんだ? どこかに出かけるのか?」  千裕が尋ねると、雅は顎に人差し指を当てて考える。  雅を誘拐した敵対組織との抗争は、少し前に収束していた。未だ警戒態勢にはあるが、厳重というほどではない。雅の屋敷からの外出に関しても、千裕が同伴するという条件つきで認められている。  雅は少し考えてから言った。 「うーん……いや、別にこれといった用事はないな。叢雲はどこか行きたいところはあるか? 暇だから付き合ってもいいぞ」 「俺に聞いてどうする……」  護衛係が護衛対象を用事に付き合わせるなど、本末転倒だ。 「なんだ。行きたい場所はないのか?」 「ない。出かける用事がないなら俺は楽が出来て助かるんだがな?」  雅は飛び石の上を行ったり来たりしながら考える。 「じゃあ、そうだな……よし、今決めたぞ。私の散歩に付き合え、叢雲」 「……散歩?」 「ああ。庭園と、あとは屋敷の周りを歩くだけだ。まぁ周りと言っても、山しかないがな」 「……そんなところを散歩して、なにか面白いのか?」 「お前と一緒なら、何でも楽しいぞ」  雅は屈託なく笑って言う。 「叢雲、お前は好きだ。私の機嫌を窺ってばかりの連中よりずっと面白い」 「……それはどうも」 「む……さてはあまり乗り気じゃないな? 何なら散歩じゃなくて、ドライブでもいいぞ」 「いや、散歩でいいさ。それくらいお安い御用だ」 「そうか! ではさっさと立て、ほら!」  雅は嬉しそうに言って、千裕の袖を掴んで引っ張る。千裕はやれやれと思いつつも、石のベンチから腰を上げた。付き合うのはべつに構わないのだが、これでは護衛というより単なる保護者という感じだ。  二人で庭を歩いていると、途中でスーツ姿の男と向かい合わせになる。痩せ形で歳は四十前後、白髪交じりの短髪。眼鏡の奥には鋭い目つきが光っている。  駐車場側から歩いてきたらしい男は、こちらに気づいて声をかけてきた。 「おや、お嬢様……それに叢雲殿。おはようございます」  相手は丁寧な物腰で頭を下げる。千裕は記憶の中からなんとか相手の名前を引き出した。 「あんたはたしか……九曜(くよう)、だったか?」 「私ごときを覚えていただけていたとは、光栄です」  相手はそう言って微笑を浮かべる。九曜は伏王会本部に所属する幹部の一人で、主に組織の武器調達を担当している男だ。本部内では参謀格のような立場にいるらしい。会長を含む本部の主要メンバーとは既に顔合わせを済ませているから、お互いのことは知っていた。 「今日は何か用事が?」 「ええ、今日は本部で定例の幹部会議があるのですよ。私は会長と本部長をお迎えに上がる役を仰せつかっているのです」 「ふぅん、そいつはご苦労さん……」  会長というのは言わずもがな、雅の祖父である業鬼のことだ。そして会長に次ぐポジションである本部長は八雲(やくも)という男で、雅の父親である。 「ところで……お二人はお出かけになるところのようですね。どちらへ行かれるのですか?」  千裕が答える前に、雅が先手を打った。 「お前には関係ないだろう、九曜」  千裕に対して話すときとは違う、冷たさを感じさせる声音だった。 「それとも、私のことを監視して逐一報告するようにお父様かお祖父様にでも言いつけられたか?」  九曜は顔色一つ変えず、小さくかぶりを振った。 「いえ、とんでもない……そのようなことは決してありません。私の軽率な発言でご気分を害してしまったのならば、申し訳ございませんでした。謹んでお詫び致します」  冷静に言って、深々と頭を下げる。雅は小さくため息をついてから、 「……もういい。行け」 「はっ……」  九曜はもう一度軽く頭を下げてから、千裕たちとすれ違う形で屋敷へと向かっていった。  九曜が離れていくのを確認してから、千裕は雅に言う。 「なにもあんな言い方しなくてもよさそうなもんだが……」  雅はややぶっきらぼうに返した。 「……あいつは嫌いだ」 「どうしてだ?」 「べつに……なんとなく」 「……そうか」  当然、組織の幹部である九曜を雅は昔から知っていたのだろう。「なんとなく」などと誤魔化してはいたが、以前に何かあったのかもしれない。そうじゃなかったとしても、彼女はそこらの大人よりもずっと人の機微に敏感だ。二、三度顔を合わせただけの自分にはよくわからないが、あの男に対しても、何か感じ取るところがあったのかもしれない。  雅に限ったことではないが、この年代の女の子は大人が思っているよりもずっとデリケートだと聞く。自分も気をつけなければならない。護衛対象との円滑なコミュニケーションは、任務においても重要な要素だと言える。それに何よりも、一児の父として、子どもに嫌われるような事態は避けたいじゃないか。  そんなことを考えていると、雅がこちらを見上げて、目が合った。彼女は軽く笑って言う。 「心配するな叢雲。お前のことは信用しているぞ」 「……別に、心配なんかしてないが」  子どもに見透かされたようで落ち着かない気分のまま、千裕は散歩を再開した。  千裕が雅の護衛を務め始めてから、六ヶ月ほどが経ったある日。千裕は天堂寺の屋敷にある書斎を訪れていた。広々とした空間に、脚立を使わないと上段に手が届かないような、大きな書架が二十はある立派な書斎だ。蔵書数はざっと見ただけで数千冊、この規模になると書斎というよりは、ちょっとした図書館という感じがする。  ここには小説から雑誌、技術書、学術書まで広範な分野の本が収められている。漫画……は流石に見当たらないが、探せば一冊くらいは出てくるかもしれない。これらの大半は雅の祖父が集めたものらしい。この中のどれほどが、実際に読まれたものなのかはわからないが。  書斎の中は薄暗く静かなものだったが、本棚の陰になっている奥から卓上ランプの仄かな灯りが見える。それに一定の間を置いて聞こえる、本のページをめくる小さな音。千裕がゆっくりとそちらへ向かう。 「ここにいたのか」  千裕が書架の脇から覗き込むようにして言う。雅は書斎の隅のところに置かれたサイドテーブルの天板の上で、行儀悪く片膝を立てながら、もう片方の足は放り出すように座って、本を読んでいた。彼女は千裕の気配に気づくと、顔を上げる。 「おお、叢雲。来ていたのか」 「また勉強をサボったらしいな? 須磨(すま)さんが探していたぞ」 「ほうっておけ。今日は気分じゃない」  須磨というのは、雅の教育係を務める老齢の男だ。弁護士の資格を有し、相談役として雅の祖父の代から仕えている組織の重鎮でもある。学者然とした人物で大変頭が良く、一般的な高校レベルまでなら教科を問わず教えられるほどだという。そうした基礎教育の他にも、いずれ組織の運営に携わる者には必要となる様々な知識を雅に教授することが彼の役目だそうだ。そういうわけで須磨自身は雅の教育に熱心なのだが、堅苦しく融通の利かないところがあり、肝心の雅には好かれていない。雅がよく須磨の授業をサボっているのは、それが一番大きな理由だろう。 「それに、あいつの話はとにかくつまらんからな。すぐ眠くなるからどうせ勉強にならん」  立てた片膝の上に置いた本を読みながら、雅が言う。たしかに須磨は面白おかしい話が出来るタイプではないが、雅がつまらないと感じるのは他にも理由があるのだろう。  雅は類い稀な天才だった。まだ十歳の子どもながら、記憶力、理解力、思考力どれをとっても傑出している。これは須磨から聞いた話だが、雅が簡単すぎて退屈そうにしているからと授業のレベルを引き上げても、彼女はあっという間にそれについてくるのだという。それだけなら優秀な子どもにはよくある話だろうが、雅の場合は習熟のスピードが尋常ではなかった。彼女は九歳の頃には高校レベルまでのカリキュラムをほぼ終えてしまったのだ。現在は法学を主軸に、より専門的且つ実用的な知識を習得中のようだが、須磨が教えられる限界に至るのもそう遠くはないだろう。雅の父である八雲も幼い頃から非常に聡明ではあったが、彼女ほどではなかった――当時八雲の教育係も務めた須磨は、そのようにも言っていた。そして、傑出した才能ゆえの無聊がこれから雅にはつきまとうだろう、とも。 「なんだ、私を連れ戻すように言われたのか?」 「いや、そういうわけじゃない」  須磨から雅を探すように頼まれてはいたが、無理に連れ戻すつもりはなかった。それは自分の役目ではないし、それに今日くらいはサボりも許されるのではないか。 「こっちに早く着きすぎたんでな。打ち合わせまではまだ時間があるから、適当に屋敷をうろついていたところだ」 「そうか。……暇ならそこにいろ。私が話し相手になってやる」  そう言って、雅は本のページをめくる。他に行くべき場所もないことだ。ここで時間を潰すとしよう。 「それなら訊くが……何を読んでいるんだ?」 「これか?」  雅は少し顔を上げて、照れくさそうに笑う。 「教えてもいいが、笑うなよ。……絵本だ」 「絵本?」  そういう本を好むのだろうか。少し意外だ。 「『竜ものがたり』という本だ。知っているか?」 「いや、初めて聞く。あいにく詳しくないものでな」 「まぁ、別に有名な本でもないからな」  雅は「それに」と続けて、 「お前のその顔で絵本に詳しかったら面白すぎる」 「面白い、のか……?」  強面だというのは自覚していたが、そこまでだろうか。 「――で、それはどういう話なんだ?」 「題名どおり、竜の話だ。巨大な身体に鋭い爪と牙、吐く息は猛毒となる恐ろしい竜。竜はしばしば里を襲い、人を喰っていた。だがある日、竜は善い心に目覚め、全てのものを悩ませないようにすると決意する。それから竜は毒を撒き散らかさないように息を抑え、人里を襲うこともなくひっそりと生きるようになった。そして人々が恐ろしい竜のことも忘れるほどの長い年月が過ぎた頃、竜の住処に人間の猟師たちがやって来る。竜の皮はとても美しく、国王に捧げればたんまりと褒美が出るだろうと猟師たちが話す。そうすれば、貧しい自分たちの故郷も救われるだろうと。それを聞いた竜は、それならば喜んで差し出そうと言う。そうして皮を剥ぎ取られ、竜は間もなく死んでしまったが、王から褒美を授かった猟師たちの里は救われた。里の者たちは竜の姿を象ったご神体を作り、感謝の祈りを長年に渡って捧げ続けた。そうして悪い竜は最後には善い神になったのでした……と。こんな感じだな」 「ふぅん……。お前はその話が好きなのか?」  雅はふるふるとかぶりを振った。 「いいや、むしろ嫌いだ」 「なぜだ?」 「いかにも日本人好みな自己犠牲のストーリーでうんざりする。それに、なぜ竜が改心したのかが描かれていない。そこがわからないから、後の竜の命を捧げる行動にも説得力が感じられない。物語として稚拙だ。まぁ、子ども向けの絵本だからそんなものかもしれないがな」 「随分と達観した感想を言うじゃないか」 「ふふん。まぁな、これくらいは言うさ。私はこれでも結構な読書家だぞ? 昔からよく須磨のところから逃げ出して、ここで暇を潰していたからな!」  雅は得意げに笑ってみせる。こういう、年相応に可愛らしいところもある。 「これっぽっちも興味のない、小難しいことが書かれた本でもな、須磨の話よりは面白いというものだ」  散々な言われような須磨に、少しばかり同情した。  雅がまたページをめくった。 「この書斎に絵本は似合わないだろう? それはそうだ。……この本はな、まだ私が字も読めないような頃にお父様が買い与えてくれたものなんだ。私が記憶する限り、最初で最後のプレゼントだな」 「……そうなのか」 「部屋に仕舞ってあるものと思い込んでいたのだが……さっきここへ来て本棚を眺めていたら、偶然見つけた。いつだったか、昔ここに持ち込んで読んでいて、部屋に持ち帰るのを忘れていたんだろうな。ふと懐かしくなって、読み返していた。昔はこれを何度読んでも飽きなかったものだ。ふっ……何がそんなに面白かったのかな……」 「…………」  千裕は、雅とその父親が会話している姿を一度も見たことがない。本部長である八雲が多忙であるのと、千裕が居合わせられるタイミングが限られているというのもあるだろうが、それにしたって同じ家に住む親子としては異常だ。  一応、雅は大事にされてはいるのだろう。そうでなければ、須磨に命じて教育を施すことも、大金を使って殺し屋を雇い誘拐犯から救い出すこともなかったはずだ。だが、それが純粋な娘への愛情ゆえなのかは千裕には判断つきかねる。まだ数度しか言葉を交わしたことはないが、雅の父も祖父も、彼女のことを優れた後継者としか見ていないような印象がある。とくに父親のほうは、むしろ彼女を遠ざけようとしているかのような素振りさえ見受けられた。あくまで千裕はそう感じたというだけだが、聡い雅がその気配に気づいていないということがあるだろうか。彼女の胸中には、より複雑な想いが渦巻いているのかもしれない。 「……叢雲。お前、甘いものは好きか?」  雅が本に視線を落としたまま、尋ねてくる。 「……嫌いではないが」 「そうか」  そう言うと、雅は座っているサイドテーブルの横に置いてあった皿を持って、千裕へ差し出した。 「食っていいぞ」  皿の上には、小さいが白色の美味そうな大福が三つ載っていた。置き方からして最初は四つ載っていたようだが、一つは雅が食べたのだろう。 「……いただこう」  ちょうど小腹が空いていたところだ。千裕は大福の一つを手で掴み、頬張った。柔らかくコシのある餅と、甘みと塩気のバランスが絶妙な小豆餡の組み合わせ、美味い。 「……どうだ?」  雅が本から顔を上げて尋ねる。千裕はよく味わってから飲み込み、頷いた。 「久しぶりに食ったが……こんなに美味いものだったとはな」 「はっ……そうか! 美味かったか! もう一個食っていいぞ」  満足そうに破顔し、また皿を差し出してくる雅。千裕は遠慮なく二つ目の大福を食べつつも、雅の様子に違和感を覚えた。 「……? 何がそんなに嬉しいんだ?」 「ふふっ……実はだな。その大福を作ったのは私なんだ」 「お前が?」 「そうだ。なかなか面白いものだぞ、和菓子というやつは。最近、ちょくちょく台所に忍び込んでは作っているんだがな。うむ、あれは奥が深い」  何をきっかけに和菓子作りなどに興味を持ち始めたのかはさっぱりわからないが、この少女はそういうところがある。前触れもなく突然思いついたかのように、何かに傾倒し始めるのだ。これまでの彼女の趣味遍歴は多彩で、チェス、ヴァイオリン、弓道……テーブルマジックなんていうものもあったか。しかも、それらのどれもが、少し練習するだけで上級者の域に達してしまうのだった。およそこの世に、彼女が不得意とするものは存在しないのではないかと思わされるほどだ。 「それにしても……大したものだ。これほどの腕ならいずれは和菓子屋だって開けるかもな」  冗談めかして言うと、雅は笑った。 「ははは! 流石にそれは言い過ぎだ。私はほんの遊びで作ってみただけで、そこまでの熱意はない。職人の道はそれほど甘くはないだろうさ。だが……そうだな。叢雲、お前も一緒に店の手伝いをしてくれるのなら、それも楽しいかもしれんな?」 「……俺は和菓子なんて作れないぞ」 「ふっ……わかっているさ。冗談だよ」  そう言って、また本に視線を戻す。雅の言葉には、どこか寂しげな余韻があったように思えた。そう、これはただの冗談なのだ。彼女に、既に定められた以外の道などあるはずもない。それはきっと、彼女自身が最もよく理解している。  ――雅はそこから少し無言になり、やがて、ふぅと息を吐くと本を閉じた。 「読み終わったのか?」  「ああ」と答える雅は、やや物憂げな表情に見える。 「それ、読んでみてもいいか?」  手を出して千裕が言うと、雅は軽く驚いたように目を見開いた。 「興味があるのか? ……まぁ、いいが」  そう言って、絵本を片手で突き出すように千裕へ差し出す。表紙には黒い竜が油絵のタッチで描かれていた。 「どれ……」  千裕は壁際の書架にもたれかかって、本を開く。内容は先ほど雅が話したとおりで、ページ数も多くはないから三分とかからず読み終わった。顔を上げてみると、雅がこちらをじっと見つめている。感想くらい言ったほうがいいだろうか。 「……竜が改心したきっかけが描かれていないと言っていたが、これはあえてそうしているんじゃないか?」 「あえて?」 「そう。描写しないことで想像の余地を残しているんじゃないかと……俺は思ったんだが」  雅は少し考えてから、頷く。 「……なるほど。そういう考え方もあるか。確かにそういう狙いがあったとしてもおかしくはないな」 「だろう?」 「それなら、どんなきっかけがあったんだろうな。私には考えつかない」 「さぁな……。だが、心変わりするきっかけなんていうのは、なにも劇的なものとは限らない。ちっぽけな何かが、そいつの内面に大きな変化をもたらすことだってある。その竜だって同じかもしれない」 「ふぅん、含蓄があるな。……ちっぽけな何か、か。例えば?」 「例えば……例えば?」  そう来るか。そこまでは考えていなかった。 「……そうだな。あー……綺麗な花畑を見てこの世の美しさに気づいた、とか」 「ふふ、もし本当にそれがきっかけなら、描写しなくて正解だったろうな」 「厳しいな」  苦笑しつつ、本を雅に返す。 「いや、面白い考えだ。私ならそんな発想は出てこない」  それから雅は返された本をじっと見つめ、今度は呟くように言った。 「なぁ……この本、もらってくれないか」 「あ?」 「たしか、子どもがいたんだったよな。絵本は読む歳か?」  息子がいるということは、以前に話していた。 「今度四歳になるから、まぁそのうち読むとは思うが……。でも、いいのか?」 「構わん。私にはもう必要ないからな。仕舞われて埃を被ったままでいるより、誰かに読まれた方がこいつも幸せだろう」 「それは、そうかもしれないが……父親との思い出なんじゃないのか?」 「思い出? そんな大層なものじゃない」  本を振って否定する。 「私も今日、偶然見つけるまで忘れていたくらいだ。お父様ももう覚えてはいないさ」 「と言われてもな……」  千裕が躊躇していると、雅は本を見つめながら言う。 「……正直に言うとな。これを私の手元に置いておきたくないんだ」 「……なぜだ?」  尋ねると、雅はやや逡巡してから、 「叢雲。お父様と、私の話をしたことがあるか? 護衛の段取りとかそういう、仕事抜きの話題でだ」 「少しならある」 「それなら、なんとなくはわかるだろう? あの人は、私のことを……憎んでいるのさ」 「……! どういうことだ?」 「……お前になら、話してもいいか」  雅は一呼吸置いてから、切り出した。 「お前には信じられないかもしれないが、昔は仲の良い家族だったんだ。それにはお母様の存在が大きかったのだと思う。バカみたいに正直で、底抜けにお人好しで……私とはちっとも似ていないような人だった。そういう人だったから、誰からも好かれていたよ。お父様は無愛想な人だが、お母様の前ではよく笑っていたな」  雅は懐かしむように小さく笑う。しかし、ふとその表情に影が差す。 「……私が5歳の頃、そのお母様が死んだ。家族で食事に出かけた夜、店から出たところを殺し屋に襲われたんだ。護衛はいたが、暗がりだったのと突然のことで対応が後手に回った。殺し屋はその場で射殺されたが……それは、お母様が私を庇って撃たれた後だったよ」  初めて聞く話だった。雅に母親がいないことは知っていたが、まさかそんな風に亡くなっていたとは……。 「その店の玄関には、十二支を模して作られた動物の人形が置いてあってな。特別珍しいものでもなかったと思うが、当時の私は興味を惹かれたんだろう。私はそれを見ていて、店から出るのが少し遅れたんだ。だから殺し屋に襲われたとき、私はお父様とお母様から少し離れた位置にいた。お母様は私に駆け寄ろうとして、撃たれたんだ。  後になってわかったことだったが……お母様が私を庇おうとしなければ、発砲位置からして殺し屋の弾は誰にも当たらなかったそうだ。だが、お母様に咄嗟にそんな判断がついたはずもない。それに、お母様なら考えるよりも先に動いただろう……そういう人だったからな。お母様が死んで……その頃から、お父様の私への態度は変わり始めた。べつに、言葉でなにか言われたわけではないがな。でも、お母様が死んだのは私のせいだと、あの人が考えているのは私にもわかったよ」 「だが、それは……」 「ああ。お母様を殺したのは、殺し屋とそれを命じた者で……私じゃない。お父様も、理解してはいると思う……。だが、そう簡単に割り切れる話でもないんだ。それもわかるんだよ……私も、そうだから。せめて、あのとき殺し屋を差し向けてきた者が誰なのか特定できていれば、少しは違ったのかもしれないけどな……」 「…………」  千裕は言葉を失ってしまう。まだ幼いこの少女が、そんな惨い目に遭っていたなんて。この半年の間、彼女がおくびにも出さなかったことだ。彼女の話が真実だとすれば、八雲はひどい父親ということになるだろう。だが、自分だってその点では同じだ。八雲を悪く言う資格などない。雅も安い同情など求めてはいないだろう。  それに……八雲がそのような歪みを抱えてしまった経緯は、わかるような気がした。殺し屋が狙うとしたら、八雲の命だ。自分の巻き添えで愛する妻が殺された……それを認めたくないが故に、娘に責任を転嫁させてしまったのだとしたら。……そんなのは間違っている。だが、理解は出来る。――もっとも、それはただの憶測でしかないが。  雅は絵本の表紙を、そっと手で撫でる。 「――だから、この本を目にする度に、きっと私は懐かしさを覚えると共に余計なことを感じてしまうだろう。もう失われて、取り戻すことが出来なくなったものを、恋しいと思ってしまう。それはなんと言うか……気持ちが悪いんだ。非合理的で、軟弱で……とにかく、嫌なんだ。私はそういう感情に支配されたくない」 「…………」  思い出などではない、と雅は否定したが、おそらく逆なのだ。大事な記憶であるからこそ、それが彼女を苦しめるのだろう。甘やかな過去は、時として毒のように作用する……千裕にも、似た経験がないわけではない。 「いらないならそのまま捨ててくれても構わない。……私の話を聞いて少しでも理解してくれたのなら、頼む」  そう言って、雅は再び絵本を千裕に差し出した。  千裕には、わからない。この少女のために、大人である自分がしてやれることは何だ? 彼女の傷を癒やすには、自分の力はあまりに小さい。無力な自分に出来ること……例えばそれは、彼女を護り、一緒に過ごして、少しでもその退屈や寂しさを紛らわせてやることだろうか? 手放したいとは思っていても捨てるに捨てられない絵本を受け取って、彼女の気を楽にしてやることだろうか? それだけなのか……? わからない。こんな時、自分が情けなくて嫌になる。殺すことばかり上手くなって、人として大切な部分はいつまでも未熟なままだ。  ――だが、信じたい。自分に出来ることがそれだけだったとしても――他人の利益のために知らない誰かを殺すよりは、遥かに意義があるはずだ。  千裕は絵本を受け取った。 「わかった。息子に渡しておく」 「……礼を言うぞ」  雅は安堵したように微笑んだ。今は手元に鞄がないから、千裕は腰の後ろでズボンの間に絵本を挟んでおくことにした。 「それにしても、お前の子どもか……。興味があるな、会ってみたい」  雅は机に座ったまま足をぶらつかせて言う。どうやら調子を取り戻したらしい。 「会わせるのは難しいが、写真ならあるぞ。見るか?」 「そういうことは前に話したときに言え。見る」  ジャケットの裾ポケットから仕事用に使っている手帳を取りだし、その間に挟んである小さな写真を渡した。三歳の誕生日に撮った写真で、息子はケーキを前にしながらピースサインを作っている。  雅は写真を見て、肩を小さく揺らし笑った。 「くくっ……今はこんなに可愛いくても、いずれお前に似てくると思うと面白いな」  そう言って写真を返してくる。 「ふっ。母親似に育つかもしれないぞ。さて――そろそろ準備に行かなくていいのか?」  千裕が言うと、雅は書斎の掛け時計を見上げた。そして、ため息をつきながら片手で顔を覆う。 「あぁ……いつの間にかそんな時間か。……気が滅入るな」 「気が進まない理由でもあるのか? パーティー、だったよな」  今夜行われるのは、伏王会の支援者の中でもとくに有力な、一部のVIPを招いたパーティーだった。千裕はそのパーティーで雅の護衛を務めるように指示されている。この後、そのことについて伏王会側と打ち合わせをする予定だ。 「……そういえば、叢雲が来てからこの手の集まりがあるのは初めてだったな。ああ、私にとっては最高に憂鬱な時間だ」 「というと……支援者の連中に愛想を振りまくのが嫌なのか?」 「それもウンザリすることではあるがな。まぁ、挨拶をしてちょっと話すだけだ、それ自体は我慢出来なくもない。耐え難いのは……服だ」 「服?」 「足元のひらひらしたドレス……あれが私はどうも落ち着かん。大体な、私は……ああいう可愛らしい服装は似合わないんだ」 「何を言うかと思えばそんなことか」  千裕は思わず苦笑する。大人びて、実際にそこらの大人より数段賢いであろう少女が、こんなにも子供じみた悩みを抱えていることに、先ほどまでと打って変わって微笑ましい気分になる。 「大丈夫だろう。お前ならどんな服だって着こなせるさ」 「ばか。見てもいないくせに、適当なことを言うな。くそ……本当はお前にだって見られたくないんだぞ。笑うだろ、絶対」  雅がふて腐れたようにそっぽを向く。べつに適当なことを言ったつもりはなかったのだが……。 「俺はそんなことで笑ったりしないから、安心しろ。それより、お前にそんなことを気にする女の子らしい一面があったことに驚いてるぞ」 「はぁ……デリカシーに欠けるとよく言われないか、叢雲?」 「あー……すまん」  妻に怒られるとき、必ずと言っていいほど言われる一言だ。痛恨の一撃。  雅は諦めたように大きくため息をつき、それから少しだけ、いつもの調子に戻って言った。 「まぁ、服については我慢するしかないか……。退屈なパーティーも、お前が一緒なら少しはマシ……になればいいんだがな」 「努力しよう」 「よし……叢雲。一秒たりとも私から離れるんじゃないぞ」  千裕は頷く。 「ああ。了解した」  ――戌井千裕が天堂寺雅の護衛を務めるようになってから、十二ヶ月の月日が経っていた。  冬の日の朝。千裕は天堂寺家の屋敷へ向かう車中、運転しながら電話をしていた。 「――それで、何の用だ?」 『くく……相変わらず可愛げがないな、お前は』  電話相手のしわがれた声。千裕にとって最も耳障りな声であると言えるかもしれない。向こうから直接電話がかかってくるなど珍しいことだが、それが不穏な気配を感じさせる。 『話す前に……その車、盗聴器など付けられてはいまいな?』 「大丈夫だ。毎日確認しろと言ったのはあんただろう」 『うむ……それならよい。まぁ、こちらでも検知器に反応がないことは確認しているがな』  相変わらず、用心深い男だ。伏王会の深部に入り込むにあたって、誰にも心を許すな、周囲全てを警戒しろとしつこく言いつけられたのを思い出す。事実、伏王会が叢雲の身辺調査をしているらしいことは千裕自身も把握していた。この任務について最初の数ヶ月は、車に盗聴器が仕込まれていたり、尾行の気配を感じたりしたこともあった。伏王会の仕業であるという証拠があるわけではないが、時期的に見てほぼ間違いないだろう。  まぁ、そうなることは予想できていた。外から見て叢雲は、特別な背景を持たないフリーの殺し屋だ。雅を救出した仕事がきっかけだったとはいえ、伏王会ほどの組織がそれだけで完全に信用してくれるとは元より思っていなかった。ともかく伏王会の探り入れに関しては、事前に警戒していた為にいずれも早々に対処出来たから、こちらにとって致命的な情報が向こうに伝わっている可能性は低いはずだ。ここしばらく伏王会側にそういった動きが見られないのは、果たして信用してくれたのか、諦めたのか、それともこちらが隙を出すのを待っているのか……。  千裕は、電話相手に逆に問いかける。 「あんたがわざわざかけてくるとは珍しいな。何か起こったのか?」 『いや、べつに大した用件ではない。お前の特別任務もあと少しで期限だ。更新するかどうかは置いておくとして、少しは労ってやろうかと思ってな。八雲の娘、だったか? 子どものお守りを一年も続けた感想はどうだ?』 「……とくに言うことはない」 『退屈だったか?』 「それを訊くことが用件なら、切るぞ」 『まぁ待て。私がわざわざ訊いてやっているんだ。それくらい答えてくれてもいいだろう? それとも、この一年で私が誰なのか忘れてしまったのか?』  千裕は窓の外へ視線を向けつつ、眉を潜めた。 「……忘れるものか。あんたの名は渡久地友禅。この国で一番の大悪党だ」 『そう。そして、殺し屋・叢雲を造り上げた者でもある』 「…………」 『もう一度訊こう、叢雲よ。この一年間の任務、お前にどのような感情をもたらした?』 「……仕事は仕事だ。いつもと変わらない」 『ふむ……果たして本当にそうかな?』 「何が言いたい?」 『くくっ……まぁ、よいわ』 「先に言っておくが……俺はあんたのスパイとして動いているわけじゃない。伏王会の機密を漏らせという頼みなら聞けないぞ。それは最初の約束でもあったはずだ」  仕事に関してはあくまでフリーの殺し屋、叢雲として行う。今回の依頼を引き受ける前に、渡久地とはそういう取り決めをしてあった。伏王会を裏切るような真似はしないということだ。 『ああ、わかっているとも。私はお前のそういうところを気に入っているのよ。約束は守ろう』  気味が悪い。渡久地の立場ならそのつもりになればいくらでも無理を通せるはずだが、こうも物わかりが良いと逆に不審だ。 『どうした? そんなに、私の物わかりが良いのが不気味か?』 「…………」 『そうだな。私は本来、お前にどんなことでも強制することが出来る。それが、お前の求めた力の代償でもある。例えば……そう、今日中に八雲の娘を殺せと私が命令したら、お前は従わざるを得ない』 「ッ……そんなことをして何の意味がある? あんな子どもを殺したところで、これっぽっちもあんたの利益にはならないぞ」 『くははっ……そう怒るな。今のはただの例えで、冗談だ。だが……そうか、やはりその子どもに思い入れがあるようだな』 「……それがどうした?」 『警戒せずとも良い。何もそれを咎めようというのではない。むしろ喜ばしいではないか。それほどの信頼関係を築いたということだ。八雲の娘がいずれ組織を継ぐことになるのなら、今回の任務の功績は、殺し屋・叢雲に大きな力をもたらすだろうよ。――いいか、叢雲よ。お前は私が持つ駒の中でもとくに優秀だ。だが私には既に、お前の力を必要としないほどの絶対的な権力がある。ナイツも伏王会も、私の機嫌を損ねるような真似だけは出来ん。そんな私が、お前に何を一番期待しているか、わかるか?』 「……さぁな」 『私は、自身の手で最高の殺し屋を育ててみたいのよ。お前なら、その可能性がある』 「……くだらないな」  吐き捨てるように返した。冗談にしてもセンスが欠如しているが、本気で言っているのなら、正気を疑う。 『私は大真面目だぞ、叢雲。私は数多くの殺し屋を知っているが、お前ほどの殺しの才能は、そうそうあるものではない。ではそれを磨き上げ、至高の一品に仕上げたいと考えるのは、アートセンスを持つ者なら当然のことだろう』 「芸術家気取りか? いよいよくだらないとしか言いようがない」 『理解できぬか。まぁ、それもよかろう……』  この老人は狂っているのだ。金と権力の汚泥に浸かりすぎて、正常な価値観をとうの昔に失っている。普通の娯楽では物足りなくなったから、極端で悪趣味な遊びに手を出し始めたのだろう。千裕のことも同じ、ただの遊興に過ぎない。『叢雲』という名の、殺し屋育成ゲームなのだ。そして、千裕は不本意でもプレイヤーを満足させ続けなければならない。プレイヤーがゲームに飽きてしまったら、その時こそ、千裕にとっては終わりなのだから。 『そうそう……一年間立派に任務を果たしたお前に、良いことを教えてやろうと思ってな』 「…………」  まだ何かあるのか? 渡久地は下卑た笑いを堪えるようにしながら、続けた。 『叢雲よ……。その娘の、母親のことは既に聞かされているな?』 「母親のこと……?」  千裕は、不穏なものを感じ取って車を路傍に停めた。 『聞かされたはずだ。六年ほど前だったか……ある日の夕食の帰り、殺し屋に襲われ、悲劇的な死を迎えたと。そして、殺し屋を差し向けた犯人は今もわかっていないと』 「……待て。何を言おうとしている?」 『くくっ、くくく……もしも、もしも、だが――その女を死なせたのが、私の手の者だったと言ったら、どうする?』 「……ッ!」  千裕は大きく目を見開き、息を吸い込んだ。そして、感情的に叫びそうになったのをギリギリのところで押し殺し、努めて冷静に、問い詰めた。 「……本当、なのか?」 『あの男……八雲は、私の計画の邪魔をしおったのよ。私が当時から進めているプロジェクトの一つに、"AL計画"というものがある。その最も重要な研究に、生意気にも探りを入れておってな。警告の意味を込めて襲わせたのよ。まぁ、奴にも利用価値はある。だからあくまで警告、殺すつもりはなかったのだが……馬鹿な女が勝手に死んだようだ』 「…………」  AL計画……? 初めて聞いた名称だ。ALとは、何かの頭文字か……? 渡久地の口ぶりからして、現在も進行中の計画のようだが……心当たりはない。  ――いや、そんなことよりも聞きたいことがある。 「脅しのつもりだったというのなら、少なくとも八雲は犯人に気づいていたはずだな? でなければ脅しの意味がない」 『気づいていただろうよ。私がそう伝わるように仕向けたからな。事実、それ以来奴が私に逆らうような真似をすることはなくなった。私の機嫌を損ねることが何を意味するのか、それもわからぬほど馬鹿ではなかったということだ』  八雲は犯人を知っていたが、娘には知らせていなかったということか。だから、雅の中では母親を殺した犯人は不明のまま……。 『さて……さて、どうする叢雲? この真実を、かの娘に伝えるか?』  渡久地が面白がるように問いかける。 「……伝えられるはずがない」  反吐が出る思いだった。雅にその真実を伝えたところで、何になる。  確かに、そうすれば今あの子を縛り付けている呪い――自分のせいで母が死んでしまったという罪の意識――は解かれるかもしれない。だがそれは、より強力な呪いで上書きしただけだ。裏社会の絶対的支配者である渡久地友禅が母の仇――それが正しい認識だったとしても、そこから生まれる感情は確実に雅を苛む。最悪、目を背けたくなるほど惨い破滅に彼女を導くことにもなりかねない。渡久地は、逆らう者には容赦しない男だ。 「……なぜだ。なぜ、俺にそんな話を聞かせた?」 『……なぜ、か? ああ、そうだな……。特に理由はない。あえて言うなら……そう、お前がこの話を聞いてどう反応するかを知りたかった。それだけよ。なかなか面白かったぞ』  まるで、トランプ遊びの感想でも述べるかのようだった。 「…………」  千裕はしばらく沈黙し、早まった呼吸を整えることに集中せざるを得なかった。そして、やっとの思いで言葉を返す。 「……満足したか? なら、もういいだろう。そろそろこちらも着く。……切るぞ」  千裕は電話を切ると、深く一度呼吸し―― 「――くそっ!!」  力任せに車の窓ガラスを鉄槌打ちにする。ガラスに薄くヒビが入ったが、気にも留めない。  渡久地の話を裏付ける証拠があるわけではない。だが、わざわざこんな作り話を弄するような男でもないことを千裕は知っている。  奥歯を噛みしめる。激しい熱を帯びた怒りが、身を焦がしていく。今、目の前にあの男がいたなら、どんな残酷なことでもしてやっただろう。ああ、たしかに自分には人殺しの才能があるようだ。  いっそ、これから奴の居場所に乗り込んで殺してしまおうか――一瞬、そんな考えが脳裏を過ぎったが、すぐにかき消した。今までにも何度だって考えてきたことだ。それが現実的にほぼ不可能であることはわかっている。  渡久地は警戒心の怪物のような男だ、自分が多くの人間に恨まれていることもよく理解している。千裕が反逆を企てる可能性も、当然計算に入れているだろう。単身での暗殺は夢物語と言って良い。  では誰かに協力を仰ぐか? それも難しいだろう。渡久地の息がかかった人間はありとあらゆる場所に潜んでおり、組織の繋がりをも越えた広大なネットワークを築いている。どこかから情報が漏れて、決行する前に潰される――千裕自身がそういった光景を何度も見てきた。  仮に渡久地の暗殺に成功したとしても、追っ手から逃げ切るのは困難を窮めるだろう。いずれにしても、家族の身に危害が及ぶリスクが高すぎる。このままでは渡久地の犬として飼い殺しにされるとしても、何かきっかけがないことには、状況を変えることは出来そうにない。  今はただ、奴の意向に従うしかない。それが何時まで続くのか、わからないが……。  何か、きっかけがあれば――  屋敷に到着した千裕は、約束までの時間を潰すために新聞を読んでいた。今いるのは屋敷の個室の一つで、打ち合わせ用として使っている部屋だ。大事な話があるということで、あの九曜という男にこの部屋で待つように言われていた。  九曜の話にとくに心当たりがあるわけではないが、千裕は何か胸騒ぎを感じつつあった。当たってほしくはないが、こういうときの予感は大抵……当たる。 「叢雲」  テーブルを挟んで向かいのソファに座っていた、雅がこちらに話しかけてくる。 「何の話だと思う?」 「……さぁな」  千裕は答えながら新聞を閉じてテーブルに置いた。雅も同席するように言われたが、話の内容までは聞いていないらしい。 「九曜が直接話すと言うくらいだからな。なかなかに深刻な事態と見た」  そうは言いつつも、雅の態度には余裕が見て取れる。 「そのわりには、落ち着いているようだが」 「まぁ、話も聞かないうちから慌てていてもしょうがないからな。一年前のアレよりまずい状況なんてそうそうないだろう、というのもあるが」  アレというのは、雅と初めて会った依頼のことだろう。なるほど、誘拐されて殺されかけもしたあの事件の経験があれば、大抵のことは余裕に感じるのかもしれない。 「それに……」  雅は微笑を浮かべて言う。 「お前がいるなら、何が起こっても大丈夫だろう?」 「……そうだといいんだがな」  そこで、部屋のドアをノックする音が聞こえた。 「九曜です。入ってよろしいでしょうか?」  千裕は腕時計を確認する。待ち合わせの時間ぴったりだ。  千裕はドアに向かって言う。 「入っていいぞ」  陰気な気配を漂わせた眼鏡の男が入ってくる。九曜だ。九曜は後ろ手にドアに鍵をかけると、一礼した。 「おはようございます。お嬢様、叢雲殿」 「大事な話というのはなんだ?」  千裕が尋ねる。 「実は一つ、ご報告が……」  九曜は千裕と雅の間を取るように、テーブルの脇に立った。 「昨日の深夜、伏王会本部にて構成員の死体が発見されました」 「殺されたのか?」 「その構成員の死体はとある部署内のロッカーの中に隠されていました。隠されていたとはいっても形だけのもので、手口は乱暴かつ杜撰なものです。なにしろ死体はナイフでめった刺しにされ、血塗れで放置されていたのですから。見回りの警備員が現場に残った血痕を見つけ、すぐに発覚しました」 「おい、子どもに聞かせるような話じゃ……」  千裕は中断させようとするが、雅はかぶりを振った。 「私なら平気だ。続けてくれ」  九曜は軽く頭を下げてから、話を再開する。 「おそらく犯人は、その部署のコンピューターに保管されているデータを盗むことが目的だったのでしょう。調べてみると、あるデータにアクセスしようとした形跡がありました。幸いなことにパスワードセキュリティを突破出来なかったようで、データは無事でしたが……。犯人はその作業中に、別の構成員に見つかってしまったのでしょう。だから慌てて殺さざるを得なかった。しかし監視カメラのデータは消去されており、犯人……裏切り者に繋がる有力な手がかりも見つかっていないというのが現状です」  本部内を部外者が気軽にうろつけるとは思えない。つまり犯人も伏王会の構成員……裏切り者ということか。 「……わからないな」  千裕が口を開く。 「裏切り者が出て大変な状況だということはわかったが、それをなぜ俺に報告する? 俺はただこの子の護衛として雇われただけの人間だ。冷たいようだが、伏王会内部の面倒ごとなど知ったことではない」 「それはごもっともですが、叢雲殿はこの件に無関係ではないのですよ」 「……どういう意味だ?」 「犯人は……叢雲殿、あなたに関するデータにアクセスしようとしていたのです」 「俺のデータに?」  なぜ犯人は……いや、その前に聞いておこう。 「伏王会に保管されている俺のデータとは何だ? そんなものがあるとは知らなかったが……伏王会は俺についてどこまで知っている?」  声のトーンを落とし、半ば脅すようなニュアンスを込めて尋ねた。九曜は動じた様子も見せず、眼鏡の位置を指で直しつつ答える。 「それは……お答えできませんね。しかし、我々があなたを調査したことについては否定しません。他組織との競争を制する上で、今後味方となるか敵となるかもわからない外部ヒットマンの情報を可能な限り押さえておくことは伏王会としては必要不可欠……これはなにも、叢雲殿に限った話ではないのですよ。どうかご了承ください」 「理由はそれだけか?」 「もちろん……あなたがお嬢様の護衛係という重要な立場にあることも大きく関係しております。そもそも、そのような仕事を外部のヒットマンに依頼するということが極めて異例。あの時期はモグラに組織の深くにまで入り込まれていた形跡があった以上、そうせざるを得ませんでしたが……。実力と信頼性、双方を鑑みてあなたを選びました。それでも、確実とは言えない。継続的な調査は必要でした」  ……たしかに、九曜の言うこともわかる。当事者としては気持ちのいい話ではないが、ある程度は仕方がないか……。  自分だって今は伏王会に雇われているが、専属というわけではない以上、今後の状況次第で敵対する可能性はある。勿論、伏王会のような巨大勢力と敵対することなど、可能な限り避けた方が良いに決まっているのだが。 「ともかく、俺のデータは犯人に見られてはいないんだな?」 「ええ。セキュリティに対してハッキングを試みた形跡だけはありましたが、不完全でした。おそらく、思いがけず殺しをする羽目になったせいで時間が足りなかったのでしょう」  死体を片付ける時間や証拠を隠滅する時間なども含めると、ハッキングを中断してでもその場を退散せざるを得なかったということか。  なんというか、全体的に詰めの甘さが見える犯人だ。スパイとしての腕は未熟と考えられる。 「犯人がなぜ俺のデータを盗み見ようとしたのか、考えられるとすれば……」  千裕は言いながら雅のほうへと視線を移す。九曜も同意するように言った。 「そうですね。何者かがまたお嬢様を狙っているという可能性が最も考えられることです。その上で犯人は、最大の障害である叢雲殿を排除するためにデータを求めたのでしょう」  伏王会が叢雲について実際にどこまで情報を掴んでいるかはわからないが、犯人は弱みの一つでも握ろうとしてデータを得ようとしたのだろう。 「まぁ、あくまで叢雲殿だけが狙いである可能性も無視することは出来ませんが……」  九曜は付け加えるように言った。雅とは別件で、叢雲の存在を邪魔に思っている者がいるということか。それも可能性としてはあり得るだろう。 「どちらにせよ、仲間を殺してしまった以上、犯人はもう後には引けない状態です。自分の正体が発覚する前に、早急に計画を実行しようとする可能性が高いですね」  この屋敷の使用人や警備員、運転手には伏王会の構成員も多く含まれている。そういった連中の中に裏切り者が混ざっていたとしたら、雅が危険だ。 「ではどうする? 裏切り者が紛れる可能性を考えると安易に警護の人間を増やすわけにもいかないだろう」 「ええ。ですから我々が犯人を見つけ出し事態を収束させるまでの間、お嬢様と叢雲殿にはお二人で安全な場所……セーフハウスへ移っていただきます」 「どこだ?」 「それはまだ言えませんが、幹部以上のメンバーのみで打ち合わせを行い決定した場所です。犯人も決して足取りを追うことは出来ません。しばらく生活するには充分な環境が整えられているので、その点はご心配なく」 「移動は車か? 誰が運転する?」 「私が運転を。それに、完全にクリアな人員で揃えた護衛車を一台つけます。何か注文があるのならば、可能な限り受け付けますが?」 「…………いや、俺は問題ない」  現状、その策が一番安全なようだ。とくに異論は無い。 「九曜」  雅が尋ねる。 「昨日深夜に構成員が殺されたというのは、本部所属の者は全員知っているのか?」 「はい。メールでその旨を知らせる通達を出しております。もっとも、その通達で知らせているのは裏切り者によって一人が殺され本部で管理しているデータが盗まれかけたということだけで、そのデータが叢雲殿のものであるということは伏せてあります。犯人の目的がお嬢様にある可能性が高いとなれば、ここは慎重にことを進めるべきだろうと判断しました。事件の詳細を把握しているのは会長や本部長を含む幹部以上のメンバーと、調査にあたった数名だけですね」 「……そうか」 「他にご質問がないようでしたら、これからすぐにセーフハウスへの移動を開始していただきたいのですが、問題ないでしょうか?」  千裕と雅はそれぞれ頷き、それから必要最低限の物だけを持って屋敷を出た。 「――わかっている。仕事は果たす」  男が電話に話しかける。呼吸は浅く、声には緊張が表れている。 「――相手は凄腕の殺し屋なんだ。仕掛けるタイミングはこちらで図らせてもらうぞ」 『……好きにしろ。だが、競争相手がいることを忘れるなよ』  電話向こうの声に、男は表情を険しくする。暗く冷たい、背後からナイフを押し当てられるかのような感覚がする、不気味な声だった。仮に死神が実在するというのなら、あの男のような声をしているに違いない。 「ああ、それもわかっている。……一つ確認しておきたいんだが。どちらも失敗したら、どうなるんだ?」 『後始末は、俺がつける……』 「いや、俺が訊きたいのは――」  そこで、相手のほうから通話を切られる。もう話すことはないというわけか。  男は舌打ちし、携帯電話を懐にしまった。 「くそっ……。やるしか、ないのか……」  九曜が先頭に立ち、それに続く雅の後ろに千裕がつく形で、歩いて移動する。庭を抜け、砂利の敷き詰められた駐車場に辿り着いた。左手側に見える大きなガレージには黒い高級車が数台並んでいる。千裕たちの他にはスーツ姿の若い警備員が一人と、車をクロスで磨いている三十前半くらいの運転手がいるだけだ。 「…………」  駐車場を少し歩いて、千裕は足を止めた。  ――おかしい。具体的に何が、とは言えないが、この空間には不自然な緊張感が漂っているような気がする。指先にぴりぴりとくる、独特の――そう、殺しの現場でよく体験する、あの緊張感に近い。 「どうしました、叢雲殿?」  先を歩いていた九曜が気づいて、こちらを振り返る。千裕は視線だけを動かして周囲を観察するが、おかしなものは見当たらなかった。 「何か気になるものでもあったのか?」  雅が尋ねてくる。……ここで話せば却って危険かもしれない。 「……いや、なんでもない」  それだけ答えて、歩みを再開する。客人用の駐車スペースは更に奥のほうだった。そのままガレージを通り過ぎようとした――その時。  十メートルほど先、車を磨いていた運転手の男が唐突に千裕たちの方を振り向いた。その右手には――自動拳銃。銃口がこちらを向く。 「――ッ!」  千裕は気づくと同時に、腰右側のホルスターへと手を伸ばした。  一発の銃声が響く。 「ぐあっ……!」  千裕のコルト・ガバメントに胸を撃ち抜かれ、運転手の男がうつ伏せに倒れた。その際、男の手からグロック19がこぼれ落ちる。  千裕は銃を向けたまま男に近づいて、グロックを遠くへ蹴飛ばした。 「た……たすけっ…………うぐっ……」  足下で男が呻く。まだ死んではいないが出血が激しく、あと一分保つかどうかというところだろう。 「こいつが裏切り者だったというわけですね。お見事でした、叢雲殿」  九曜が近づきつつ言う。今度は倒れた男に向かって屈み込み、 「貴様、何が目的だ? なぜこんなことをした?」  男は苦しみ喘ぎながらも、答えた。 「仕方……なかった…………女を……人質に…………殺さなければ……殺され、る…………む、無理だとわかっていた……やるしか、なかった……」 「誰に命令された?」 「ナイツの…………グリーフ……」  その名を聞いて、九曜は僅かに驚いたような反応を見せた。 「なんだと……?」 「まだ……いる……もうひとり……。あ、操られているのは……もう一人…………」 「もう一人だと? 誰だ? 名前を言え」 「わからない……顔も、名前も……知ら、な…………」  そこで男の言葉が途切れ、目から光が消えた。 「…………死んだか」  九曜は軽いため息をついた。 「もう一人いる……と言っていたな。暗殺者は、少なくともこいつ以外にもう一人いるということか?」  千裕の言葉に九曜は考え込むような表情を浮かべつつ、頷く。 「……そういうことになるのでしょうね」  まだ油断は出来ないようだ。――そういえば、雅は大丈夫だろうか。不可抗力とはいえ、目の前で人が死ぬ瞬間を見せてしまった。様子を窺うと少女は、不安そうな表情でこちらを見つめていた。 「叢雲……」 「……大丈夫だ。俺がお前を守る」  千裕は少女の頭を軽く撫でて言う。そうだ、敵が何人いようと関係ない。この子だけは……。 「いや、私は――」  雅が何か言いたげにしたが、そこへ警備員が数名駆けつけてきた。 「ご無事ですか、九曜様!? 今の銃声はいったい……」  九曜が答える。 「問題ない。既に障害は排除された。処理はこちらで済ませるから、各自持ち場に戻れ」 「はっ……了解です!」  警備員たちが戻っていく。九曜は声を抑えつつ、千裕に向かって言った。 「もう一人の裏切り者は、この男の最期の言葉を知りません。つまり、『我々が、もう一人裏切り者がいることを知っている』ということを相手は知らない。おわかりですね?」 「油断して尻尾を出すかもしれない……ということか?」  九曜は頷いた。 「裏切り者からすれば焦って仕掛ける必要性は低くなったわけですが、これを機会と考えまたすぐに襲ってくることも考えられます。もちろんこちらも、事態が収束するまで警戒態勢は解きません。予定通りお嬢様と叢雲殿にはセーフハウスへ向かっていただきます。ただ少し確認しておきたいことが出来たので、もうしばらくここでお待ちください」 「裏切り者を操っている、グリーフとかいう奴のことか?」 「ええ。ナイツ本部所属の幹部で、情報収集と脅迫を得意とする男です。まさかこんな形で名前を聞くことになるとは……」 「だが、伏王会とナイツは互いに手を出さないという協定を結んでいたはずだ。黒幕がその男だとすると、これは協定を完全に無視した行いということになるぞ」  九曜は考え込むように顎を撫でつつ、答える。 「もしもそうだった場合……厄介な事態になるでしょうね。今後の展開次第では、ナイツとの全面戦争すらあり得る。……ともかく、今は慎重に情報を集めるとしましょう」  少し電話をする必要があるということで、九曜が離れていく。  全面戦争……か。この一件、想像以上に大きな陰謀が絡んでいるのかもしれない。そのような大ごとに関わるのは、なるべくなら避けたいところだが……。 「叢雲……気にならないか?」  雅が言う。 「何がだ?」 「グリーフという奴は、どうして私を狙う? 一年前の時のように誘拐して人質として利用するならまだわかるが……私を殺したところで奴が何か得をするとも思えん」 「たしかにな。だが単純に損得の問題だけではないのかもしれん。相手がお前の父親や祖父に強い恨みを抱いているのだとしたら、復讐としてその家族を狙うということはあり得る」 「……そうだな」  雅はそう言って考え込むように腕組みをする。まだ幾らかの不安さは残っているようだが、それでも冷静に物事を分析しようとしているのだろう。大したものだ。普通、命を狙われたばかりでここまで落ち着けるものではない。 「あのー……叢雲さん」  スーツ姿の若い男が千裕へ近づきながら声をかけてくる。たしか、駐車場の庭に近いところに立っていた警備員だ。 「どうした?」 「先ほどは申し訳ありませんでした。加勢も出来ずに……」 「気にするな。相手は警備員から離れた位置で襲う算段だったんだろう」  警備員は軽く頭を下げてから、更に恐縮しつつ尋ねる。 「その……私にはよくわからないのですが、奴が例の……本部からの通達にあった裏切り者だったのでしょうか? 死に際に何か言っていたようですが……」 「ああ、奴が裏切り者なのは間違いない」 「やっぱりそうだったんですね……。でも、これで一安心なんですよね?」 「……多分な。裏が取れるまでは油断出来ないが」 「そうですか……。――いやぁそれにしても、お見事でしたよ! あんなすごい早撃ちは見たことがありません。さすがは叢雲さんです。相手も叢雲さんの強さがわかっていたからこそ、あんなことをしたのでしょうけど……」  千裕は内心ため息をついた。こういう物言いをされることにも慣れたが、やはりうんざりしてしまう。相手に悪気はないのだろう。だが人殺しの技術を褒められたところで嬉しくもなんともない。 「……他に話はあるのか?」 「あっ……失礼しました。私に何かお手伝い出来ることはあるでしょうか?」 「今はとくにない。何かあったら呼ぶから、そのまま仕事を続けてくれ」 「了解です」  男は一礼して、元の警備場所へ戻っていく。 「叢雲」  雅が千裕の袖を引いた。 「気づいたか?」 「気づいたって……何に?」  尋ねると、雅は声を抑えつつ言う。 「あの警備員……どうしてあんなことを言った?」 「……何かおかしな事を言っていたか?」 「あいつは『裏切り者は叢雲の強さがわかっていたからこそ、あんなことをした』と言った。あんなことというのは、裏切り者が叢雲のデータを盗み見ようとしたことだろう? だが裏切り者がどんなデータを求めていたのかは、一部の人間しか知らないはずだ」  雅の言わんとすることを千裕はようやく理解する。  九曜の説明によれば、本部構成員に通達されたのは裏切り者が一人を殺し、本部に保管されているデータを盗もうとしたということだけだった。そのデータが叢雲についてのものであることを知っているのは、調査にあたった人間と、幹部以上のメンバーのみ……。  ――ではあの警備員は、なぜそのことを知っていた? そうだ……さっき話しかけてきたのは、こちらが裏切り者についてどこまで掴んでいるかを確認するためだったとすれば……。  視線を上げると、ちょうど七、八メートル先の持ち場に戻った警備員と目が合った。雅も同じ方向を見ている。  警備員の表情に、僅かに緊張が走るのを千裕は見逃さなかった。  ――まずい。疑っていることを悟られた……!  警備員が懐から銃を抜く。大口径の自動拳銃――デザートイーグルだ。 「雅ッ……!」  千裕は雅を庇うように前に立ちながら、敵に向けてコルトを撃った。弾丸は敵の胴体に命中するが、少し怯んだだけで相手を無力化するには至らない。  しまった――防弾か!?  次の瞬間、敵の銃が火を噴き、千裕の胸部を強烈な衝撃が襲った。 「かっ……は……!」  大口径の弾丸を喰らったショックで視界が明滅する。右手から力が抜け、コルトを落としてしまう。千裕はそのまま仰向けに倒れた。 「くっ……!」  苦しい――息が出来ない……! だが撃たなければ――撃たなければ死ぬ――雅が死ぬ――撃て――撃て撃て撃て!!  千裕は倒れながらも、死にもの狂いの気迫でホルスターのベレッタM84を左手で抜き――撃つ。射出された.380ACP弾は敵の左頬に命中し、頭部を貫いた。  敵が倒れるのを確認してから、千裕は操り人形の糸が切れたように仰向けになった。 「おいっ! 叢雲……!」  ぼんやりとした視界に、今にも泣き出しそうな表情の雅が映る。 「ふざけるな! こんな……こんなの許さないぞっ!」  千裕は手を伸ばし、雅の頭をそっと撫でた。 「……っ!?」  雅が驚き戸惑うような表情をする。 「心配するな、防弾だ……」  苦笑いで、胸の撃たれた部分を軽く叩いてみせる。こういう事態に備えて、いつも防弾性のインナーを着ていたお陰で助かった。さすがにデザートイーグルの直撃弾は身体にだいぶ堪えたが……。 「あっ……う……」  雅も千裕に出血していないことに気がついたようで、 「――お……驚かすな!」 「いっ……!?」  いきなり胸にグーパンチを入れてきた。危うく今度こそ意識を手放すところだ。 「お、おい。弾を喰らったのは事実なんだ。加減してくれ……」  雅の後方から、伏王会の構成員と思しきスーツ姿の人影が二人、庭の方向から駆け寄ってきているのが見える。銃声を聞きつけたのだろう。 「叢雲さん! ご無事ですか!?」 「これはいったい……?」  まだ立ち上がれない千裕に代わって、雅が二人に説明する。  雅が説明するのを待つ間、千裕は自分の右手に視線を落としつつ、考えていた。  ……俺は、焦ると確実に当てるために胴体を狙う癖があるのか? 相手がここの武装警備員だということを考えれば、防弾を着ていることは充分予測が出来たはず。これは明らかなミスだ。最初から頭を撃ち抜いていれば、あんな窮地に陥ることはなかった。今回は運良くなんとかなったが、もしもまた同じようなことがあれば、次は助からないかもしれない……。 「――そんなことが……」  一通りの説明を終えたようで、構成員の男が頷く。 「わ、わかりました。ではとりあえず、叢雲さんを医務室へ運びましょう。防弾でも撃たれたのなら、ちゃんと診てもらったほうがいいですよ」 「立てますか?」  肩を貸してもらい、なんとか立ち上がる。立ち上がってから、先ほどコルトを地面に落としたことに気づく。もう一度屈んで拾おうとした、その時――千裕は視界の端に一瞬、捉えた。  並んだ車の中の一台、その後部座席ドアが音もなく開く。先ほど撃ち殺した警備員が立っていた位置のすぐ近く。そこには誰もいなかったはず。この騒ぎの中、今まで隠れていた? だとしたら―― 「逃げ――」  プシュ、プシュ――減音された銃声が二回、千裕が警告を発する前に、傍らにいた構成員の二人が倒れた。的確に頭を撃ち抜かれて。  銃を撃ったのは、まだ二十代半ばほどに見える男だった。無造作に伸びた髪に、上はパーカー、下はジャージでこの場では明らかに浮いた服装。仄暗い井戸底のような双眸が、千裕を見据えていた。二人を撃ち殺した男は、サイレンサーを付けたH&Kマーク23――通称ソーコム・ピストルを両手に構えたまま、こちらに二回、発砲する。 「くっ……!」  千裕は撃たれるより僅かに早く、雅を突き飛ばすようにしてすぐ近くにあったワゴン車の陰に押し込み、自らもそこに飛び込んで退避した。回避が間に合ったのは、相手の攻撃前に気づけたから、それに死んだ構成員の二人が千裕より暗殺者に近い位置にいて、結果的に盾になってくれたお陰だ。銃口の角度からして頭を狙われていた――こちらが防弾を着ていることを知っているのだろう――いきなり撃たれていたら、助からなかった。 「おいっ……! なんだあいつ!?」  雅が激しく動揺して言う。狼狽するのも当然だ、千裕とて流石に第三の刺客までは予想していなかった。 「車の中に隠れていたんだ。あれが本命のようだな」  話とは違うがもう一人、敵がいたと考えるしかない。それにあの男は、おそらく先の二人とは練度が桁違いだ。十メートルは離れた位置からあの射撃精度、かなり手練れの暗殺者と見るべきだろう。  雅を別の場所に逃がす時間はない。相手はすぐにでもこちらに回り込もうとしてくるだろう。雅を守るなら、こちらから打って出なければ。  千裕はベレッタを右手に持ち直した。コルトを拾い上げる余裕はなかったから、こいつだけでやるしかない。 「じっとしていろよ」  雅に向けて言うと、千裕はワゴン車のバックドア側に張り付き、上半身を傾け左肩越しに覗き見るように相手を窺った。暗殺者は顔の前で銃を構え、近寄ってきていたが、千裕が車の陰から顔を出すとすかさず撃ってきた。 「……ッ!」  頭を引っ込め辛うじて躱した。相手は反応速度もかなりのものだ。こちらもベレッタで撃ち返すと、相手は身を屈めながら斜め前方へスライディングし、千裕の隠れるワゴン車の右隣に停めてあったセダン車を遮蔽物とするように隠れた。四発の弾丸を放ったがどれも命中しなかった。  千裕は攻勢に出るためワゴン車の陰から飛び出し、二人はセダン車を挟んで対峙する形になる。暗殺者がボンネットの上から顔を出し発砲すると、千裕はそれを躱すために身を屈め、そのまま車体下部と地面の隙間から相手の下半身へ向けて引き金を連続で引く。暗殺者は咄嗟に身体を捻り、地面を転がるように弾丸を避けると、千裕へ向けて同じように下の隙間から撃つ。 「がっ……!」  右脇腹に強い衝撃が走った。防弾越しだが直撃したらしい。やはり強い。まさかAランク以上のヒットマン? 消耗した状態で勝てるのか、こんな奴に―― 「――くっ!」  怯んだ隙に撃たれたヘッドショット狙いの一発を、身を捩ってギリギリのところで躱す。こちらが撃とうと車体下から見ると、既に敵の姿はない。しまった――上か!  暗殺者は千裕へ向けて銃を連射しながら、ボンネットの上を飛び越えてくる。後方へステップし銃弾は躱すが、相手はそこへ一気に距離を詰めてくる。  強引だが有効な攻め方だ。そうか――これだけ派手な騒ぎになれば伏王会の応援が来るのは時間の問題。ではその応援が来る前に片付けてしまおうというハラか。  千裕の眼前に銃口が向けられ、ソーコムのトリガーが引かれる。千裕は空いた左手で銃の先端――サイレンサーを弾き射線を逸らした。すると暗殺者はすかさず千裕の左手首を自分の左手で掴み、自分の側に引き込むようにする。千裕は身体を流されそうになり反射的に足で踏ん張りかけたが――中止してそのまま相手の側へ踏み込んだ。直後、頭部へ向けて弾丸が撃たれた。そのまま踏ん張っていたら当たっていただろう。  千裕は身を翻し手の拘束を解きながら、相手の胴体へ向けてベレッタを撃つ。防弾を着ている可能性は高いが、連続で撃ち込んで怯ませればその隙にトドメを刺せる。しかし暗殺者は、その動きを読むかのように右手に持つ銃で千裕の銃を大きく外側上段へと払い除けた。ベレッタから射出された弾丸は空を切る。  ――ここまでは読めていた。千裕は払い除けられた右手の銃を落とし――『その下に移動させていた左手で受け取る』と、瞬時に相手の頭部へ銃口を向けてトリガーを引く。 「……ッ!」  暗殺者の目が一瞬、見開かれた。上半身を後ろへ仰け反らせて弾丸を躱し、そして――身体を捻った勢いを利用して千裕のベレッタを靴の爪先で蹴り上げた。そして倒れながらもソーコムを撃ち込む。千裕は咄嗟にその場で倒れ込むように身を屈め弾丸を躱した。 「こ、の……!」  ここまで対応してくるのか、なんて奴だ。  千裕は地面で受け身を取って、ほぼ同時に相手に向けてベレッタを撃つが、これも当たらなかった。相手も無理な体勢で躱したため倒れかけていたが、手をつき地面の上を跳ねるかのようにバク転して起き上がる。千裕は続けて発砲するが、そこでベレッタのスライドストップがかかる。スライドが後方に動いた状態で固定され――要するに弾切れである。  ホルスターにはベレッタ用のマガジンが一本だけある。問題は、この男を相手にマガジン交換などさせてもらえるかということだが……。  相手も既に十二発撃っている。ソーコムならチャンバー内の弾丸も含めて計十三発。あと一発を撃てば弾切れになる。そこがチャンスか。  暗殺者は千裕の弾切れを好機と見たのか、すかさずソーコムのトリガーを引いた。千裕は横にステップして躱し、相手の銃にもスライドストップがかかったことを確認すると、すぐに給弾の体勢に移った。  ――しかし。 「なっ……!?」  千裕の眼前に飛んできたものを、マガジンを取り出した左手で咄嗟に払う。暗殺者は弾切れしたソーコムを投げつけてきたのだ。そしてそれを目眩ましに千裕に向かって突進し、右手を薙ぐように振るった。一瞬、その手に光るものが見えて、千裕は防ごうと左手を構えた。  硬質のものが強く当たって、千裕は左手に持っていたマガジンを弾き飛ばされた。後方に跳んで距離を取り、見て確認する。ナイフだ。暗殺者は袖の中にでも仕込んでいたのか、刃渡り十センチほどのハンドナイフを右手に握っている。弾切れになった際の備えもしていたわけだ。  どうする――こちらには武器がない。ベレッタのマガジンは一本だけで、弾き飛ばされたあれを拾いにいくには遠すぎる。もう一つは、先ほど落としたコルト……相手のほうが近いが距離は二メートルほど、こちらは隙を見て拾えるかもしれない。いや、危険すぎるか?  ともかく、相手のナイフを防ぐ手段を――そうか、こうすればいい。  千裕はベレッタのスライドストップを解除しスライドを元の位置に戻すと、グリップ部分を逆手に握った。銃口を肘側に向け、小型のトンファーのように扱えるように持ち直す。  千裕は右手に逆手持ちベレッタを構え、左手で相手に向け「かかって来い」とサインを送る。  暗殺者が飛び出す。ナイフを二度、三度と振るうが、千裕はそれらを確実に躱し、捌いていく。そしてナイフを弾いて生まれた一瞬の隙を突き、ベレッタのハンマー部分で相手の顎を殴りつけた。  続けて振るわれたもう一発を、暗殺者は千裕の腕の下へ潜り込むようにして躱す。同時に千裕の左手首を取り、ナイフで切りつけようとするが、千裕は体勢を崩す前に相手を前蹴りで飛ばした。 「…………」  唇が切れたのだろう、口元から出た血を手で拭うと暗殺者は、再び千裕に向かった。ナイフを逆手に握り直し、上段に振るう。千裕は構えたベレッタでそれを弾くが、直後、足元に違和感を覚えた。 「ッ……!」  暗殺者は、千裕の右足を踏んでいた。動きを制限するのが目的で、上段からの攻撃はカモフラージュだったのだ。そして、千裕の首筋目がけてナイフが振り下ろされた。  回避は――間に合わなかった。白い刃が肉を裂き、深々と侵入する。 「あっ……ぐっ……!」  激痛に悶える――だが、まだ終わりではない。千裕は左手でナイフの刃を直に受け止めたのだった。刃は左手の人差し指と中指の間、平から甲までを貫通している。しかしその手は強く握りしめ、相手の動きを抑えていた。  千裕は右肘を相手の右腕に打ち下ろし、骨を折る。そして身体を捻りナイフを奪い取ると、その勢いのまま左へ一回転し、相手とすれ違いざまに手の甲から突き出た刃で、その首筋を裂いた。 「ッ……!」  暗殺者は短い嗚咽のような声を漏らすと、首筋から血飛沫を上げ、前のめりに倒れた。 「はぁ……はぁ……」  千裕はゆっくりと近づいて、暗殺者が息絶えたのを確認する。そして周囲の様子を窺う――流石に四人目は来ないか。 「お、おい……叢雲!」  雅がワゴン車の陰から顔を出していた。 「お前、それ、大丈夫か……?」  左手のことを言っているのだろう。確かに、血塗れですごい状態だ。 「……なんとかな」  千裕は苦笑いで答えた。  約二時間後、千裕と雅は朝と同じ屋敷の洋間にいた。裏切り者である二人を始末できたことで予定されていたセーフハウスへの移動は一時取り止め、待機ということになっている。今は九曜が主導して調査を進めているという状況だ。  伏王会の医者に診てもらったところ、防弾越しに撃たれた箇所は内出血を起こしてはいるものの軽傷だという。そしてナイフで貫かれた左手だが、こちらも手術は必要だが後遺症等の心配はほぼないらしい。無理せずじっくり治せば、元通りに動かせるようになるだろうとのこと。問題があるとすれば、妻にどう怪我の言い訳をするかということぐらいか。  それにしても……今回の騒動の黒幕と思しき存在――グリーフ。奴は何を考えてこんな真似をしたのだろうか……? 「……叢雲」  テーブルを挟んだソファに座る雅に声をかけられ、千裕はハッとする。 「大丈夫か? やはり痛むか? それ」  包帯の巻かれた千裕の左手を見る。 「ん……いや、何でもない。痛むは痛むが、平気だ」  そう言って千裕は、サングラスの鼻止めを右手の指で持ち上げ、位置を直した。  雅は少し躊躇った様子を見せた後、思い切ったように言う。 「その……ありがとう。お前のお陰で助かった」 「ふっ……今日は随分と素直なんだな」  からかうように言うと、雅は小さく笑って返す。 「私は、お前の前ではかなり素直なほうだ」 「そうか、それは悪かった。……まぁ、俺は俺の仕事を果たしただけだ。お前も必要以上に恩義を感じる必要なんかない」 「……そうか。そうだな」  そこで、扉をノックする音が聞こえる。 「九曜です。例の一件についてのご報告をさせていただきたく……」  どうやら調査が一段落したようだ。部屋に招き入れると、九曜は早速テーブルの横に立ったまま話し始めた。 「死んだ運転手と警備員……裏切り者二人の持ち物を調べたところ、二人とも携帯電話に同じような脅迫メールが届いていました」 「脅迫メール……というと?」 「椅子に拘束され、目隠しをされた女の写真が添付されたメールです。女は宛先によって別人、おそらくそれぞれの裏切り者が人質に取られていた女でしょう。廃墟のような背景と拘束方法、文面からして同じ人物によって同じ場所に監禁されたのは間違いない。メールアドレスもこの場限りのものでしょうが、同一です。メールは複数回送られてきていました。それらの内容をざっくりとまとめると、人質の女を無事に返してほしければ叢雲を殺せ……という指示です」  ……なんだって? 「待て。それは確かなのか? 標的は……」 「そう。彼らのターゲットはお嬢様ではなく、あなただったのですよ。叢雲殿。それどころか、お嬢様――天堂寺雅は決して傷つけるな、と指示に含まれていたほどです」 「…………」  可能性として考えなかったわけじゃない。だが、どうして……。それに、雅を傷つけるなというのは……。 「なぜだ? どうして叢雲が狙われなければならない?」  千裕の代わりを務めるかのように、雅が尋ねる。 「さて……そこまでは私にはわかりかねますが……」  九曜は肩をすくめ、雅は考え込むようにうつむく。 「メールの送り主は自らをナイツのグリーフと名乗っており、これをゲームだと称していました」 「ゲーム?」 「参加者は二人、どちらが先にターゲットを仕留められるかを競わせるというゲームです。先にターゲットを仕留めたほうが勝者で、そちらの人質は解放されるが、敗者のほうは人質を殺されてしまう……というルールだったようですね。お互い、もう一人の参加者の素性については知らされていなかった」 「…………」  グリーフとやらは相当に下衆な感性の持ち主らしい。人質を盾に二人を操って、遊んでいるつもりだったのだ。 「そして最後に現れた三人目……あの男については、殆どのことがわかっていません。相当の実力を持ったヒットマンであろうことは予測がつきますが、少なくとも伏王会が保有するデータの中に一致する人間はおりませんでした。持ち物の中にも個人を特定するようなものは一切ありませんでしたが、携帯電話にグリーフからの指示は残っていました。そこからわかるのは、あの男はこのゲームの見届け人であったということです」 「見届け人……」 「そう。二人のプレイヤーのうちどちらがゲームを達成するか、その目で見届けるための審判……とでも言いましょうか。そして、二人ともゲームに脱落すれば、その時は――」 「プレイヤーの代わりに、ターゲットを殺す?」 「その通り。そういう役目があったようです」  なるほど、だからあれほどの強者を……。 「グリーフの居場所の目星はつきそうなのか?」  千裕が尋ねると、九曜はすんなりと頷いた。 「特定は思いのほか簡単でした。メールに添付されていた人質の写真は携帯電話で撮影されたもので、画像データに位置情報がそのまま記録されていたのです。位置はとある廃ビルの中。おそらくそこが敵のアジトだと踏んで、部隊を送り込みました」 「それで、どうなったんだ?」 「報告によると、現場に生きた人間は残っていませんでした。こちらが現場の写真です。どうぞ」  九曜は携帯電話を取りだして、画像を見せる。 「人質の女二人は、どちらも椅子に拘束されたまま頭を拳銃で撃たれて死んでいました」  携帯のディスプレイに映された写真では、二十代半ばの女と三十過ぎくらいの女がどちらも額に穴を開けられ死んでいた。 「そしてこれが……首謀者であるグリーフです」  五十代半ばくらい、やや太り気味の男が廃墟の壁に背を預けたまま項垂れている。額から血を流しており、右手には自動拳銃のHK45が握られている。 「……グリーフに間違いないのか?」 「ええ、私は顔を知っていますが、間違いなくこの男がナイツのグリーフです。計画が失敗したことを察知し、逃げられないと悟ったのでしょう。人質を殺した後、自害したのだろうと思われます」 「……この男は、なぜこんなことをしたんだ?」 「さて……それは私も気になるところですが、まだ不明です。現場にはそれを示すような手がかりはなにも残っていなかったようですから。――それともう一つ。今回の一件は、グリーフの暴走という扱いで済まされるようです」 「ナイツとの戦争は避けられそうだということか?」  九曜は頷いた。 「そもそもグリーフは今から一週間前、ナイツの資金を横領していたことが発覚し組織を追われていたようなのです。失踪したグリーフの行方を、ナイツも捜索していたのだと。私の情報網でも確認してみたところ、それで間違いないようです。つまり、一週間前からグリーフはナイツの所属ではなかった。よって今回の一件はすべてグリーフの独断による暴走であり、ナイツの協定違反を咎めるものではない……会長はそれで手打ちとされるおつもりのようです」  実際には両組織の上層部で政治的なやり取りがあったのだろうが、お互い戦争は避けたいというのが実情だろう。よっぽど決定的な何かがなければ、この規模の組織同士での戦争などそうそう起こるものではない。  ……それにしても、何かが気になる。先ほど現場の写真を見たとき、なにか違和感があった気がしたのだが……。 「…………九曜」  先ほどから黙っていた雅が口を開く。 「さっきの写真、もう一度見せてくれるか?」 「もちろん構いませんが……どうぞ」  九曜は雅へ携帯電話を差し出す。雅は写真の画像を見て、呟いた。 「違う……グリーフは自殺したんじゃない」 「……何ですって?」  九曜は眉をひそめて言う。 「お嬢様。自殺したのではないと……なぜおわかりになるのです?」 「グリーフの死体は額から血を流してる。普通、拳銃自殺するのに額は撃たない」 「……!」  九曜は気がついたように目を見開いた。 「なるほど、言われてみれば……その通りですね。恥ずかしながら、気がつきませんでした」  そうだ……先ほど感じた違和感はこれだ。拳銃自殺するなら普通は銃を持つ手に近い側のこめかみか、口の奥や喉を撃つ。額は自分では撃ちづらいし、硬い骨があるから失敗するリスクもある。雅は刑事でもある自分よりもいち早く、その矛盾に気づいていたのだ。  しかし……するとどうなる? グリーフは自殺したのではなく、誰かに殺されたということになる。人質の女二人は拘束されたままで死んでいるから犯人ではない。つまり……。  雅が更に続ける。 「グリーフは誰かに撃たれて殺された。奴は黒幕じゃない。もう一人いるんだ。ナイツから逃げていたグリーフを匿うふりをして、利用し、最終的には切り捨てた真の黒幕が……」 「……ではその人物は、何のためにこんなことをしたのでしょうか?」  九曜の問いかけに、雅は考え込みつつ答えた。 「それは私にもはっきりとはわからないが……一つの可能性は考えられる」 「それは?」 「伏王会とナイツを、戦争状態に引き込むこと」 「……まさか。なんということだ……」  九曜も流石にショックを受けたようで、口元を手で覆った。 「今回の計画が上手くいっていた場合――つまり私の護衛である叢雲が死ぬことで何がもたらされたかを考えると、それが一番しっくりくる。首謀者は、伏王会とナイツの二大組織が争うことで得をする人間なのかもしれないな……」  千裕が口を挟む。 「待て。そこでなぜ俺なんだ?」 「確かに、叢雲ではなく私を殺したほうが効果的ではある。だが、それではあからさますぎると思ったんじゃないか? 護衛は殺せたが、本命のターゲットの暗殺には失敗した……そのほうがリアリティがある。……あるいは、目の前で護衛を殺された私が、ナイツへの憎悪に燃えると考えたか。いずれにせよ、小狡い思考だがな」  実際の標的が叢雲のみだったとしても、表面的には、ほんの一週間前までナイツの幹部だった男が、伏王会会長の孫娘を襲撃するよう指示したということになる――両組織の戦争を起こすきっかけとしては、充分すぎるだろう。  九曜はしばらく考え込んだ後、顔を上げて言った。 「……充分に検討されるべきお考えであると存じます。この件については私から会長にご報告致します。それとは別に、叢雲殿に言っておかなければならないことがあるのですが……」 「……なんだ?」  ――九曜は頭を下げ、部屋を退出していった。 「ふぅ……」  静かになった部屋で、雅は深々とため息をついた。 「見事な推理だったな。大したもんだ」  千裕が言うと、雅は少し照れたように笑った。 「後半は殆どが推測だがな。……多分、本当の黒幕は見つからない」 「どうしてだ?」 「メールに添付されていた画像の位置情報からアジトを見つけ出したって言っていただろう。そんな初歩的なミス、プロなら絶対にしない。だからあれはきっと、向こうから与えられたヒントなんだ。最初からこちらが辿り着くことを想定していたんだろう。だから自分に繋がるような証拠は、何も残していない。おそらくは、な」 「ヒント……か。それ自体が奴にとってゲームみたいな感覚だったわけだ……」  なんとも不気味な相手だ。これで失敗したからには、しばらくは大人しくしているだろうとは思うが……。放っておけばいつかまた、とんでもないことをしでかしそうな気がする。 「――それに、さっきはああ言ったがな……私自身、あの推理にはまだしっくりこない部分がある」 「どういうことだ?」 「伏王会とナイツの間に戦争を起こそうとした。本当にそうなのか? いや、それだけなのか……? 相手が私や、お前じゃなければならない理由が、他にもあるんじゃないのか――そんな気がしてならない。……まぁ、今考えたところでわかる問題ではなさそうだが」  相手が雅や、俺でなければならない理由……そんなものが本当にあるのだろうか……? 「……ああ、こんな時なのに。私は救われない奴だよ、叢雲」  雅はソファの上で体育座りになりながら言う。 「ど、どうした。急に?」 「ふふ……流石に不謹慎だと思ってな。例えば、チェスをするときがそうだ。私は頭の良い奴と勝負するのが好きだ。勝負して、勝つのはもっと好きだ。相手が強ければ強いほど、燃える。さっきも話しながら、楽しいと思っていた。見破ってやったぞ、どうだ、ざまーみろ……って感じでな」  勝ち気な表情で笑ったかと思いきや、ふとその顔に影が差す。 「お祖父様やお父様は、私を組織の後継者にさせようと考えている。私には素質があるんだと。私にも、それはわかる気がする。でもな、そのせいで私にはそれ以外の選択肢はなかったんだ。逃げることも出来なかった。それを恨んだこともあった。すごく強く、何度もな。それでも……最近はこう思う。もしも私に幾多の道が用意されてあったとしても、結局はこの道こそが、私にとっての一番なのだろうと。……叢雲はどう思う?」 「…………俺には、判断のつかない問題だ」  雅は肩をすくめて笑った。 「ふふっ……そりゃあ、そうだよな。意地の悪い質問をした、悪かった」  しばらくの間を置いてから、雅が言う。 「なぁ、そっちに行っていいか?」 「ああ、構わないが……」  雅は向かいのソファから移って、千裕の右隣りに腰掛けた。  またしばらくの沈黙を挟んで、雅がぽつりと言う。 「……契約は終わり、か」 「ああ……そうなる」  先ほど九曜から最後に聞かされた話がそれだ。理由の詳細は不明としても、狙われたのが千裕なのならば、雅がその巻き添えを喰うようなことがあっては護衛として本末転倒だ。よって契約は今日限りで終了。急な話だが、致し方あるまい。渡久地のほうも、いつまでも雅の護衛をさせているつもりはなかっただろう。そろそろ区切りをつけようとしていた節もあった。 「それにしても、今後一切、伏王会との繋がりを断てとは極端すぎる。九曜の奴め、あいつはいつもそうだ……」  そう。伏王会上層部は叢雲を雅の護衛係として雇っていたという事実すらなかったことにしようとしている。外部のヒットマンをそのような重役に置いたことを恥だとでも考えているのだろうか。真意はともかくとして、明日から千裕は雅に近づくことすら出来なくなる。 「まぁ……仕方ない。この手では、護衛も満足には出来ないだろうしな」  そう言って左手を見せる。 「お前なら右手だけでも充分戦えるだろ?」 「いや……まだまだだ。今日だって危なかった。俺はまだ弱い……それを思い知らされた」 「弱いってことはないと思うが……――あー……いや、そうだな。叢雲は弱いな」 「え?」 「うん。叢雲はまだまだ弱いからな。私の護衛には相応しくない。だから、今の十倍は強くなってもらわなきゃな」  雅は左手で拳を作り、千裕の胸を軽く叩く。千裕は苦笑いで答えた。 「十倍は、少し厳しいな」 「十二、三年は時間をやる。その後は、もう一度、私が雇ってやるぞ」 「もう一度?」 「その頃には、私は伏王会のトップだ。私が決めたことに、誰にも口出しなんてさせない」 「……いくら現会長の孫でも、二十代前半でトップは無理なんじゃないか?」 「叢雲。私を誰だと思っているんだ?」  そう言う彼女の眼は意志の強さに溢れている。一時の冗談などではないとわかった。千裕は軽く笑って、 「……はっ。そうだな。お前なら出来てしまうのかもな」 「いいか? 約束だからな。私は必ずお前を呼び戻すぞ。そして、きっとお前を助けてやる」 「助けて……? どういう意味だ? 護衛というなら、助けるのは俺の方だろう?」 「いいや、私が助けるんだ。……気づいてないとでも思ったのか? お前の後ろには、誰かがいるんだろう?」 「――ッ!」 「ほら、当たりだ。誰かは知らないがな……相当、厄介な相手のようだ。殺し屋なんて続けているのは、お前の意志じゃない。お前と共にこの一年を過ごして、私はそう考えた。……間違っているか?」 「……参ったな」  この子には、何でもお見通しか。敵わない。 「そいつの名前……教えてくれないか?」  真剣な表情だ。誤魔化しやはぐらかしは通用しないだろう。正直に伝えることが、彼女への誠意でもある。だが、こればかりは……。 「……それは、言えない」 「――ッ!」  ショックを受けたように、雅の瞳が揺れる。 「どうしてだ? 私は……私はただ――」  言いかけてから、何かに気づく。 「――いや、そうか。私が知るべきではない理由が、あるということだな」 「…………」  雅は一瞬、悲しそうに表情を歪ませたが、すぐに持ち直したようだった。 「……わかった。お前がそう思うのなら、別にいい。お前に心配をかけたいワケじゃないから、な」 「すまない」 「……謝るな、ばか。お前は悪くない」  雅はそう言って、目元を手で拭った。 「……誰かのために人を殺すというのなら、それは殺し屋も伏王会トップの護衛係も大差ないのかもしれない。だから、お前に無理強いするつもりはない。少しだけでも良いんだ。私は…………」  雅はうつむいて、言葉を途切れさせてしまう。  約束……か。 「そうだな……それも、悪くないのかもしれないな」 「……叢雲?」 「わかった。約束だ。お互いにその日が来たら……また、会おう」  渡久地にされた指摘は認めざるを得ない。千裕にとっても既に、この少女は単なる護衛対象ではなかった。それはおそらく、言葉では的確に表現出来ない感情だ。あえて言うなら我が子に対する愛情というのが最も近いのかもしれないが――それともまた少し違う。そういったものが育つのに、一年間という時間は充分な期間だった。  雅は泣きながら、笑顔を作った。 「ああ……絶対だぞ! その日を楽しみにしておけよ……!」  二人が、握手をする。  千裕は思う――この約束を、俺は守ることが出来るのだろうか? その日が来るまで、生き延びることが出来るのだろうか? それはわからない。  だがこれだけは言える。今日この日、自分の生きる理由がまた一つ増えた。これでまたいっそう、死ぬわけにはいかなくなったのだ。血と泥に塗れたものでしかないと思っていた殺し屋としての生き方の中で、新たに光を見つけることになるとは思いもしなかった。  きっとこの記憶は、いつまでも自分の中に残り続けるだろう。  たとえ死を迎え、この身が滅びたとしても。 【終】
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