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序章 櫂(かい)
少年は帽子のツバ裏にマジックペンで太書きされた【克己】の文字をチラリと上目で見たあと呼吸を整えた。
山間部の谷間にあるこの細長い地形の集落にはそれに沿うように浅瀬の川が流れており、もっぱらこの川原が少年達の遊び場である。
うなじにチリチリと熱気を感じるが、穏やかな水流に浸かる足首には心地良さを感じる
幅約8メートルの川の中に横一列に並べられた自転車に跨る悪童達は、さしずめ合戦場に並び立つ馬上の武者の如く真剣な眼差しを前方に立つスターターに集中した。
『よ~いっ、ど~ん!』 間の抜けたスターター役の少年の掛け声で悪童たちの自転車が一斉に駆け出す。
蝉と少年たちの奇声が混ざり合いながら真夏の集落に鎮座する熱気をかき混ぜてゆく。
このレースのルールは単純で、ゴールと定められた約1km下流にある滝の上部に最初にたどり着いた者が勝者である。
時には弾ける飛沫に隠れた石に脛をぶつけ、生い茂る川原の雑草をくぐり抜け、湿地にタイヤを取られながらも少年達の一団は逞しくゴールを目指して突き進んでゆく。
『うぶっ!』 最後尾の一人が、川沿いに立ち並ぶ集落から突き出した排水パイプより射出された汚水に直撃されて転倒した。
また一人、また一人と下流に向かうほどに脱落者が増えてゆく、自転車を降りて流されるゴム草履を追う者、顔面に跳ねた泥で転倒する者と、一団はやがて少数となり、最後の開けた浅瀬の直線コースに躍り出たのは骨細く褐色に日焼けした少年である。
後輪から高々と水しぶきを上げながらゴールした少年は、濡れてリズムよく水滴を落とし続ける帽子のツバを持ち上げて『かち~っ!』と叫んだ。
慣れぬ路線図を頼りに辿り着いた博多駅中央コンコース内は熱気と行き交う人匂が混ざった独特の匂いに包まれていた。
首筋にべっとりと滲んだ汗を缶コーヒーで冷やしながら、森田櫂はコンコース内中央に設営された版画展示即売会場を遠目に眺めて自分の思考回路のスピードを上昇させてゆく。
時代はバブル経済が崩壊した直後であったが空前の絵画ブームが巻き起こり、それまでは富裕層の趣味という固定観念のあった絵画が、版画作品を主軸にアートという言葉を使って世に浸透していた。
今や家族連れから二〇代前半の若者までが気軽にこの様な即売会場に足を運ぶという社会現象となっている。
勿論それは販売する側の各企業が戦略的に宣伝し、人気作家のステータスを高めたからにほかならないのだが、それでもイルカや波の絵、カラフルな原色をふんだんに使ったポップな絵を描く人気作家の作品は景気に薄暗く影を落とす時代に見る者を魅了する力を持っていたのかもしれない。
パーテーションを簡易に組み上げて設営されたテニスコート大の即売会場からは、およそアートとは似つかわしくない流行の歌謡曲が大音量で流されており、それが不思議と周囲の雑踏と調和している。
それよりも会場入口付近で入場客勧誘用に印刷された配券束を持った女性販売員が、つまらなそうに生気のない表情で手持ち無沙汰に突っ立っている姿のほうが違和感を放っていた。
会場入口から見える範囲では来場客に溢れて活況な様子ではあるが、足の速い客が入っては漏れ出てゆくだけで商談と言える状態は皆無だ。
そればかりか来場客に話しかける素振りもない販売員同士が談笑している姿さえ見受けられる。
かれこれ二〇分程度は眺めていただろうか、櫂の中では少しずつ販売員の上下・横の関係が把握され、すでに個々のタイプ分けに意識はシフトされている。
『入口の女の子は新卒採用やな、就活の為に揃えた黒スーツと靴がこの数ヶ月の酷使で随分と摩れてしまっている・・・親元ではなく一人暮らしで金が無いのは一目瞭然や。ろくに仕事のイロハも教わってはいないようや、時折思い出したように果敢に通行人に話しかけていることから推察
するとまだ前に向かう意思は残っているようやな。 あいつの出身地は・・醒めた魂の村出身・・・けれども、このままでは飛んでまうのも時間の問題や。』
『受付の背の高い女の子は派手目のスーツで他の販売員との会話の様子を見る限りでは中堅といったところや、気位は高そうやからおもろいことになるよな。まあ柔らかさもあるけどチョイ堅めの直進村出身』
『奥にいるそこそこ年齢の過ぎたやせ型のおっさん、あいつは古株のようやけど押しの弱そうな目をしてるな、気を付けんと良いことだけしか見せんカマキリ村出身』
『会場中央で何やら周りに偉そうに指示しているド派手で背の低い年増女がこの中においては一番か?・・・楽しませてくれそうやん。
それにしても首から指の先まで飾り物で武装した統一感無しのミーハーおばはんやな。こいつはズケズケ村出身で間違いないやろ』
『おっ、若いけどダブルスーツの兄ちゃんが出てきたぞ・・あいつがここのリーダーやな。 立場に酔っている感が否めない・・振る舞いですぐに解るな。 この勘違いモテ野郎は今のところ坊ちゃん村出身とでもしておこうかな』
櫂は缶コーヒーのプルトップを捻りながらも目を逸らさずに観察を続けた。
櫂の一種独特と言える〔魂のタイプ分け〕は今に始まった事ではない。
奈良県南部の田舎で育った櫂は周りにいる子供と同じく純朴活発に育ったが、違っていたのは父親がその地域でも知られたヤクザであった事と、その親子の接し方にある。
接し方といっても、両親には愛情を受けていると実感もしていたしその当時はそれで当然と感じていた。
しかし幼少期の刷り込みほど浸度は深く、良くも悪くもその後の人格形成の主骨格となってゆく。
父親の隆明はほとんど家にはおらず複数の取り巻きを従えて帰ってきたと思えば櫂には当然理解できない仕事の話をし、酒を飲み、又出かけてゆくという生活だった。
母親の泰代はそんな隆明への不満を櫂に漏らすことはなく、時折、櫂には隆明の事を持ち上げて言って聞かせたほどである。
しかし怒声の飛び交う事が日常の酒宴の裏で料理を作る泰代の表情からは、隆明を容認出来ない苛立ちや冷めた怒りが読み取れてしまうのである。
櫂は過疎を予感させるには充分に寂れたこの山間の集落の中にあって、一際に綺麗だと思う母親のそんな表情を読み取ってしまう瞬間が嫌でたまらなかった。
県内でも随一の進学高校を首席で卒業した泰代が隆明と出会ったのは、泰代が務める地方銀行への出勤に利用していた電車の中である。
毎朝泰代が電車に乗ると、既に前駅から座席を確保した隆明が手招きをして泰代を座らせた。
実は隆明の乗降する駅も泰代と同じであったが、なんとも甘酸っぱい努力である。
一見周囲からはアンバランスと思われるであろうこの二人が、親戚(特に泰代の)の反対を押し切って家庭を築く道程には頷ける共通点があった。
隆明は生後すぐに子供を授からなかった櫂の祖父母に引き取られており、本当の両親は未だに明確に知らされてはいない。
後々にこの地方では名の通った寺の住職が外で孕ませた子であるかも知れないと、隆明本人が酒に酔った混沌の中で呟いたのを聞いたがそれも定かではない。
泰代は幼少期に両親共に病気による死別を経験し、後は親戚の叔母の元で高校卒業までを過ごした。自分のアイデンティティーを勉学と位置づけてその中でプライドを確立してきた。
そんな二人の子として生まれた櫂は、初めて血の繋がる家族として愛情を注がれ、期待を一身に背負う存在であったと言える
故に勉学は母に厳しく管理され、男としては父に厳しく指導されるという環境が整うのに時間はかからなかった。
両親からの指導は厳しかったが共通していたのは【負けてはいけない!】という一点のみ・・・・あまりに漠然としているが、とにかく負けてはいけないのである。
それ以外は自由奔放に育てられた櫂の小中学校での学業成績は常に上位であったし、運動も人並み以上に熟せた。
特に恵まれた体格ではなくどちらかと言うと骨細く痩せた櫂ではあったが、マラソンなどの精神を競う競技では同学年の追随を許さない強さを誇っていた。
ただ、野球好きの隆明にうまく乗せられて始めた少年野球だけは全く上達しなかった。
ある日いきなりグローブと野球帽を買い与えられた・・・
『野球でも負けるな、この帽子に書いた【克己】という言葉は自分を乗り越えて勝利を掴めという意味があるんや、覚えとくんやぞ。』
そう言うと隆明が手加減無く直球を投げてくる。顔面でボールを受けるが泣けば弱者の誹りを受ける事になる、今度は精一杯ボールを投げ返すがこれも全力で投げ返さなければ大した事がないという烙印を押されてしまう。
キャッチボールが終わる頃には野球の基礎も知らない櫂の肩は痛みに支配されていた。
『なかなか良い球なげるやないか、少年野球負けるなよ』 それだけ言い残して隆明は長期の不在となる。
結局は上達しないまま少年野球を続けざる負えない櫂であったが、中学に入っても野球部に所属した。
【負けられない=あきらめが悪い】この悪循環に櫂本人も気付かず、野球熱の高かったこの集落の大人たちの冷ややかな視線を敏感に察知しながらも野球はやめなかった。
その当時の隆明は羽振りがよく、たまに帰ってくると車が乗り換えられているのも日常で、服装も野暮ったさはなく髪型はいつも整えられている。
凶悪であろう風貌の取り巻きの舎弟達にとっても一目を置く存在の隆明は、明らかに櫂の日常生活の中で見る他の大人達よりも垢抜けていると感じていた。
この頃の泰代の隆明に対する立ち居振る舞いを見れば、隆明の浮気は櫂にも充分推察できた。
櫂にとって、泰代をこれだけ苦しめる隆明は憧れと憎しみの混ざった形容しがたい存在となっていたのだ。
それなりの地位であろうと推察されるヤクザ連中と連れ立っては、やれ東京・名古屋だと長期間の留守を泰代に告げていなくなるのである。
それゆえに隆明がいる束の間は、そんな父親に対して興味の視線を逸らすことが出来ず、父親の挙動やそれを取り巻く人間を観察する癖が自然と備わってゆくのを櫂自身も自覚していた。
やがて、興味から始まったこの癖はありとあらゆる人間を対照とするようになり、中学卒業間近になる頃には、周囲の友人や教員達をはじめ、嘘や誤魔化しを平然と口にする舎弟連中や、隆明が兄弟と呼び合う名の通った親分衆までが【魂の村に】選別される対照となった。
筋を通す信念をもった人間とはどういう者か・・さらに、そんな人間でも状況が変化すれば出まかせを言う側に豹変する小さな兆しがある。
櫂の感覚はその精度を確かなものにしようと望むほどに敏感になっていた。
希薄で危うく油断ならない人間関係の中にある隆明が心配でもあったし、どこまで自分の父親にそれを見抜く心眼があるのかも興味の対照であった。
そんな日々の中で事件は勃発する・・・・夜中に階下から発せられた泰代の甲高い声に櫂は飛び起きた。
自分でも驚く程の速さで階段を駆け下りた櫂が目にしたのは、原型をなくす程に顔面がいびつに腫れ上がり、血塗れになった隆明であった。
夜遅くに、近所の料理屋に用事があると出かけて行ったあの垢抜けした父親とはあまりにもかけ離れた姿である。
『大丈夫や、・・・警察も病院も連絡入れるな・・ちょっと撫でられただけや・・』
声を絞り出す隆明を見下ろしながら櫂は生まれて初めて、理屈抜きに湧き上がる怒りというものを感じていた。
『誰にやられたんや、やった奴は一人やないやろ・・』
自分でも驚く程に冷静な口調で櫂は隆明に問いかけたが、心の中では金属バットを握り締めて見えない複数人を相手に暴れる自分の姿を思い描く。
勿論、骨細い中学生が一人で相手できるほどヤクザという人種が甘くない事ぐらいは理解出来ている。
例え櫂が意識をなくしてもヤクザなら躊躇なく暴力を振るい続けるだろう・・・・・それでも、やれる目一杯までやればいい。
怒りを引き金にした感情が突き抜けて、生まれて初めて覚悟の感覚を知る。
黙って料理屋に向かおうと踵を返す櫂に隆明の怒声が飛ぶ 『子供が偉そうにちょっかいを出すんやないわ!』
我に返った櫂と入れ違うように玄関から舎弟連中が雪崩れ込んでくる。
襖を挟んだ隣部屋から漏れ聞こえる隆明と舎弟連中の話では、事前に隆明から他のヤクザ組織に対して根回しの指示を受けていた小根という舎弟がそれを疎かにしており、状況を把握していないそのヤクザ組織が勘違いから隆明を呼び出して襲撃したという何とも陳腐な顛末らしい。
小根は櫂が幼少の頃から隆明と行動を共にする舎弟ではあったが、そびえる様に背が高く、細く吊り上がった目をしたこの男はどこかいつも眼球の奥に隠し事を秘めているように見え、軽率な嘘で身を固めている印象も相まって、櫂はこの小根を〔キツネの村出身〕と選別していた。
複数人の怒声・罵声に紛れて、小根のか細く消え入りそうな謝罪を連呼する声が聞こえてくる。
その後ほどなく隆明は回復し、車やスーツを新調して以前と変わりなく留守をしていることから、あの一件はお金で解決といったところで落ち着いたのだろう。
先読みが身を守り、人を動かす術となる事がこの頃から確信に変わり、無意識のうちに人をタイプ分けしてしまう、一種独特の櫂の魂の村選別はここが原点となっている。
『ままごとやなあっ!』 思わず口に出して呟いた櫂の言葉にコンコース内で談笑していた観光客らしい一団の視線が集まる。
一見しただけでは二〇代中頃の青年とは到底思えない貫禄を漂わせ、本職さながらにオールバックで縦縞のダブルのスーツを着こなす櫂の出で立ちと、それにもまして目立って屈強な体格のこの若者が思わず漏らしたこの呻きは、周囲の視線を集めるには充分なものがあった。
バツの悪くなった櫂は手早に傍らのビジネスバックを掴み上げて即売会場へとゆっくり歩を進めていった。
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