東京

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東京

社会人として初めて東京麹町にある、新聞社系列の広告販売会社に就職したのは二年前。 安直に東京に出てみようと考えたこと、自分を試すなら営業が適職と判断したこと、入社への敷居が低そうであった事が理由として挙げられるが、既に三か月前に辞職願を出して故郷に戻ってきた。  突然の都落ちで帰郷した息子に対して父と母は黙ってそれを受け入れた・・・『お前の考えがあってのことやろう』と、3ヶ月間の無職生活を咎めもしなかったのだ。 決して、職場への不満があったわけではない 田舎から出てきたばかりの若者に対してむしろ職場の先輩たちは親切であったし、はじめての営業は櫂にとって興味のあることばかりであった。 業務内容は単純で、まずは全国の企業データを纏めた分厚いデータブックから業績の良さそうな企業をピックアップする。 その企業に近隣の小中学校や公共施設にニュース記事を掲載する為の掲示板を一口7万円で寄贈してくれと売り込む。 掲示板には1週間に一度、新聞社から最新の写真付きニュース記事が送られてきて、それが1年間継続される。 但し、その掲示板には寄贈した企業の名を明記するので、地域への社会貢献と企業のイメージアップを兼ねた宣伝になる。 要約すると仕事の流れはこんなものであるが、まずは企業にダイレクトメールを送付して、後はひたすら自分がダイレクトメールを送った企業に電話営業するのみである。 その作業に対して5~6人を一つのチームとしてまとめる課長職がおり、全国のどのエリアのどんな業種をねらって攻めるかを指示する。 課長は全員で5名いたが、5つの部署に分かれて競い合うというよりも、只デスクをくっつけた島が5つに分かれているだけで、総勢30名弱の人間が一つのフロアで日がな一日電話をしているという環境である。 入社時に【電話営業スクリプト】と書かれたプリントを一枚受け取ったが、フロアの誰もがこのスクリプトに記載されている通りのセリフで営業しているのには驚いた。 呑みに行った席で先輩社員が、毎日が同じ事の繰り返しで気が狂いそうだと愚痴を漏らしたが、櫂はそのようには思わない。 最初の一ヶ月はとにかく周りにいる成約精度の高い先輩の口調、言い回しを盗んでそれを模倣した。 そしゃくする程に他人のトークは自分のトークに変わってゆく・・・今度はそれにアレンジを加えて試してみる。 声色を変え、更にトーンを変えてみる・早口に・スローに・短調に・過剰に感情移入して・時にはフランクに・・・言い出せば試すことは山積されている。  同じ毎日など櫂には無かったし、第一電話口の相手は毎回違う人間なのだ。 電話口の相手を想像して魂の村に選別する、そしてこの相手にはどんな口調、人格で接すれば興味を引くことが出来るのかを考え、それに適した役を演じる・・・・・ このような組み合わせは無尽蔵に考えられるのである。 意識すべきは、何故電話口の相手が短時間の言葉のやり取りのみで成約の決断を下したのかという事である。 それは商品そのものの価値の力もあれば、タイミングもある、黒字企業であれば寄贈に使う経費も節税の一部に組み込めるであろう。 そして櫂にとって一番重要なのは、自分の営業力で引き込んだ成約はどれだけあるのだろうという事である 半年も経てば、櫂はフロアのトップ3を常にキープ出来るようになっていた。  『櫂ちゃん、お見送りしてくれないの』 少し拗ねた声で 中妻亜希は布団に潜る櫂を揺すった。 派手なソバージュに振りかけたヘアースプレーの匂いだけで仕事への支度を整え終えたと判断出来る。  亜希と出会ったのは上京して3ヶ月ほど経った初夏の日差しが強い日だった。 中野坂上駅からほど近い北新宿に安アパートを借りて4月からの生活をスタートした櫂だが、亜希の事は近所のコインランドリーで何度か見かけたことがあった。 その日も閑散としたコインランドリーを一人で占拠して雑誌を読みながら時間を潰しているところへ亜希が現れた。 ペコっと頭を下げて社交辞令の挨拶擬きの仕草で此方を一瞥した亜希は、コンビニ袋からアイスを取り出して食べ始めた。 『半分、食べますか?』 突然の問いかけに少しまごついてしまったが、『俺ですか?』と返答すると 『当然でしょ、だって2人しかいないじゃない』と、器用にアイスから突き出た2本の棒をひねって2つに割り、片方を櫂に差し出しながら大きな目を少し細めて笑った。 どちらかと言うと小柄で細身の亜希は、こちらが勝手に想像していたよりも遥かにハキハキとした口調だった事に新鮮さを感じつつ、それよりも一気に距離を縮めた質問を浴びせてくる積極性に驚かされた。 『前からよく此処で顔合わせてたよね?』 『彼女はいるの?』 『関西のイントネーションだけどやっぱ大阪出身?』 『何処に住んでるの?』  『東京はもう慣れた?』 アイスに齧り付きながら一通りの質問に櫂が答え終えた頃には、亜希の溶けたアイスはポロリと床にこぼれ落ちてしまった。 『きゃあ! 勿体無い』 どうもリアクションに独特なコミカルさを含んでいて、亜希の鼻筋の通った美形の容姿とのギャップが大きい。 『じゃあ帰りに今度は俺がアイスおごるわ.』 洗濯が終わるまでお互いに色々な質問をして、亜希が櫂より2つ歳上だという事、イベントコンパニオンの仕事をしている事、櫂のアパートから一〇分程度のマンションに一人で住んでいる事、そして前々からお互いに気になる異性として意識していた事などがわかった。 『じゃあ、次の休みにデートしようよ』 あっけらかんとそう言ってのけた亜希は、手を振ってマンションに入って行った。 小中学校で多少は同級生の女子に好かれた経験もあったが、高校で過ごす時間の全てを野球に注ぎ込んだ結果、異性との恋愛に関してはお子様程度にしか感覚を持ち合わせない白地状態の櫂であった。 『あかん、女の人は魂の選別が難しいわ』 それから1年半の月日を半同棲状態で過ごしたが、亜希には振り回される事が多かった。 女性が女性に向ける醒めた感情を知り、身に覚えのない嫉妬に辟易し、それでも初めて女性を教えてくれた亜希には時間を重ねるほどに惹かれてゆく。 ところが、芸能界に関わる仕事を夢見る亜希には二十歳を過ぎた焦りがある事、コンパニオンは安定した仕事量が無い事、常に流行の場所、服装、化粧、髪型等の情報を入手し時代の先端に立ちたい事が、マイペースな櫂には理解出来ない事であったし、そんな態度が余計に亜希を怒らせた。 第一、櫂には東京という場所にそこまで特別な魅力を感じるという感情もなく、流行りと言っても田舎者ほど東京という場所に酔い踊らされているようにも見えたし、話せば野暮ったい輩も多い。  『今日は新しく建造された植物園のコンパニオンオーディションなのよ、応援は?』 亜希に急かされて、布団から起き上がった櫂は眠い目を擦りながら『がんばりや』とだけ言った。 晴れてオーディションに合格した亜希は『この仕事に賭けたいの』という言葉を残して、あまりにも遠い兵庫県・丹波篠山への引越しを決意した。 そんな遠い場所に建造されたパビリオンのオーディションを受けていたとは知る由もなかったが、いや、聞いていたのかも知れないが・・・・・ それよりも逞しい亜希の行動力に感嘆している自分がいた。 最後も、『がんばれよな』と言う一言を告げて東京駅ホームで亜希を見送った。 その頃の櫂にも、心の中に膨らみ続けるある思いがあったからなのかも知れない。 『俺はもっと生身の人間を相手に心理の世界を磨く営業がしたい』 今のままではこれ以上の変化を望むことは不可能と感じていた。 行動を起こすべき時であると教えてくれたのは、見送る亜希の華奢な後ろ姿であった。 【一身上の都合】とだけ書いた辞表を提出した際に社長室に呼び出されて引き止められた櫂であったが、何を問われても、やはり『一身上の都合です』としか答えられなかった。 本当に都合の良い言葉だと思いつつも櫂自身も明確な今後が見えていた訳ではないのである。 最後は、直属の上司であった課長の杉川が『本人の意思も固いようですので』と助け舟を出してくれたことで、ようやく円満退社となったのである。 コンスタントに営業成績を達成する櫂が抜けることで、一番切迫するのは杉川のはずであるが・・・・ 出社最後の日に杉川が『今日は晩飯を一緒に食おうか』と誘ってきた。 いつも半笑いの表情を浮かべるこの上司には2年間で何を教わったという訳でもなかったが、断る理由も無く退社後に杉川の贔屓の居酒屋で酒を酌み交わした。 『森田君、若いっていうのはいいよねっ』 杉川には確か櫂と同年代の大学生の息子がいると聞いたことがある。 あまり、職場仲間の私生活に興味を示さなかった櫂は朧ろな記憶を辿って杉川の情報を引き出していた。 『これからはどうするの? 一度故郷に帰るのかな?』 『はい、そのつもりです』 櫂が帰郷を決断した理由はいくつかある。 まずこれ以上、東京に魅力を感じなかった事、営業成績を残しても雀の涙ほどの歩合給しか貰えなかった事で生活を続ける資力が底を尽きかけていた事。 何よりも、この2年間で故郷の泰代が癌に侵されて手術を受けていた事が大きかった。 無事に治療を終えた泰代ではあったが、やはり大病であるだけに櫂には気がかりとして常に心の片隅に引っ掛かるものがあったのである。 杉川はやたら【若さ】を褒め称えていたが、この時の櫂には老練の勤め人である杉川の悲哀など全く理解出来ず、只お世話になりましたと、深々と礼を述べて最後の別れとしたのである。
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