第一章 新人奮闘編  研修初日

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第一章 新人奮闘編  研修初日

ワールド第四ビルからほど近い御堂筋線 西中島南方駅に午前8時に到着した櫂は、研修の集合時間までの1時間をどうやって潰そうかと思案していた。 櫂の住む田舎の単線駅からここまで来るには乗り継ぎのタイミングが悪く、午前9時に間に合うように逆算するとこんな時間に到着してしまったのである。  腹ごしらえでもしておこうかと、開店の早いたこ焼き屋の店先に設置されたベンチに腰掛けて大きめのたこ焼きを口に放り込んだ時である。 『お~! 今日から研修かっ 頑張ってな』 突然聞き覚えのある声に振り向くと、桝村がキャリーバックを持って立っていた。    《この人、いつも後ろから現れるよな》 よく見るとその他にも4~5人の女性達が桝村と同じようにキャリーバックをそれぞれ手に持ってこちらを見ている。 『あっ、どうも お早うございます』 たこ焼きを放り込んで少々ぎこちなくなった櫂の挨拶を気に止める様子もなく桝村は隣に座った。 『いまから俺のチームは出張や、しっかり勉強して早く一緒に仕事しよや』 と櫂のたこ焼きを1つヒョイと食べた。    《チームか・・》  女性陣の先頭に立っていた長髪の女性が 『課長! いい加減にしないと新幹線に間に合いませんよ』と桝村のスーツの袖を引っ張る。 『わかったから、急かすなよ清水主任』 まるで世話を焼く女房のような振る舞いのこの女性には見覚えが有った・・・・転職フェアーのブースに立って悠然と観衆の前で説明をしていたあの女性である。  《そうか~、桝村さんは課長なんや。 それで清水主任さんか》 『そしたら行くわ~森田、又な!』 桝村はそう言うとキャリーバック軍団を率いて、櫂が今来た駅方向に消えていった。  《まるでスッチーさんの集団やな・・・いやいやっ! あんな軽くて明るい機長はおらんわ》  昨日の面接で井川から出張が多い仕事だと言うことは聞かされていた。 平均5~7日の会期で行う版画即売会は近畿圏内で多店舗展開するスーパーや、地域の貸ホールに会場を設営して展開しており、今後は全国にそれを拡大してゆく計画であるという。 その計画を加速させる為に中山に引き抜かれたのが井川であり、昨日の面接は既存の営業部隊と切り離された井川の新設部隊募集の為に行われたのである。 一体どんなメンツが集められているのだろうか? まだ少し時間は早かったが気持ちがはやるのを抑えきれず、櫂の足はワールド第四ビルに向かい始めていた。  昨日訪れたワールド第四ビル社長室とは別フロアに研修室を設けていますからと受付で案内された櫂は、まるで大会議室のような風景を思い描いていたのだが、たどり着いたのはホワイトボード1つと幅広の長机2つが向い合わせでくっつけられて置いてあるだけのなんとも簡素な小部屋だった。  面接時に中山がテーブルに投げ置いた履歴書の束からはおよそ想像もつかない規模である。 『初めまして! よろしくね』 既に櫂よりも先着してテーブルに着座していた女性がおもむろに立ち上がって握手を求めてきた。 林葉好美と名乗った女性は長身ですらりと手足が長く、綺麗に整えて一括りにされた長髪が印象的で、非常にスマートなキャリアウーマンのような印象を受けたが、その笑顔は自然で警戒心を与えない。 『俺は森田、よろしく』 握手で初対面の挨拶などしたこともない櫂は違和感を覚えつつも、林葉好美の正面に着座した。 『森田君ってさあ、井川さんの面接やった?、私あの人の変な間が気になって調子狂ってまうわ~』 しばらくの間2人だけで会話をした事で、林葉が一つ歳上の宝飾店営業経験者という事を知り、おそらく喜怒哀楽の明確なタイプであるだろうということも推察出来た。 【自分に自信を持っている直進村出身】 の林葉との心地良いテンポの会話を楽しんでいたところに、櫂達とさほど年齢差がないと思しき1組の男女が入室してきた。 男性の手には大きな絵が抱えられている。 女性があたふたと設置したイーゼルに、慎重にその絵を置いてから男性がこちらの2人に向き直った。 『人吉です。こちらの女性は秋爪さん、今日から2人で研修をサポートさせていただきます』 柔らかい口調でそう語った人吉は、チック症候群なのか時折激しく両目をシバたかせている。 秋爪と紹介された女性は何だか先輩にしては控えめな態度で軽く会釈をした。 『あの~、研修を受けるのは私達2人だけなんですか~』 物怖じしない林葉が明るく人吉に問いかける。 『僕たちも基本をもう一度勉強する為に一緒に研修に参加します。サポートと言ったところで、僕も秋爪さんもまだ入社1年足らずですから』 その言葉に秋爪がウンウンと遠慮がちに頷いた。 櫂にはこれで今回の、井川新設部隊の全貌が朧ろげに見えてきた。 《今からこの人吉さんが井川部長の補佐的役割を担ってチームのリーダーをするんやな、既存の営業マンから井川部長に引き抜かれたんや、それで秋爪さんもどっかの既存営業部隊から連れてこられたけど、この人のさっきからの態度を見る限りでは営業成績はぼちぼちやないかな~、なんか俺たちに先輩顔をする事に抵抗を感じているというか、明らかに今朝会った清水主任のような悠然とした要素が見当たらんわ。 どちらにせよ一から部隊を創るというのは本当のようや》 『先輩!よろしくお願いします』 林葉の握手に秋爪が苦笑いしながら 『よろしくお願いします』とその手を軽く掴んで応じた。 研修開始時刻の9時を過ぎても井川はまだ現れなかったが、人吉がホワイトボードに現状のワールドアート営業部隊の組織図を描いて全容を説明してくれた。 ワールドアート設立時のスターティングメンバーはワールドグループ教材販売事業部から出た社長の中山と部長の河上、それから櫂も既に知っている課長の桝村である。  営業部隊を統括する河上部長の下には桝村を筆頭に加山・牧野・荒堀・光嶋の5名の課長がおり、其々5~6名体制のチームを率いて即売会場を展開している。 今日研修に参加する井川新設部隊は別働隊といった位置付けで、今後のワールドアートが近畿圏から全国展開へとシフトしてゆく為にトライアルとして既存の河上部隊とは違う新しい風を吹かせたいという位置付けである。 『楽しそう!』 一通りの説明を聞いた林葉が目を大きくしてそう言うと 『緊張します・・』 と林葉の隣で息を潜めて座っていた秋爪が呟いた 『ところでトップ営業マンってどんな人なんですか』 林葉が秋爪の呟きをかき消すように人吉に問いかける 人吉がトップ営業マンは荒堀チームの池谷という女性で、平均して月間約700万円の売上をキープすると説明した。 『ふ~ん』 林葉の意味深な返事もさることながら、一口7万円の掲示板を売ってきた櫂は桁の違いを感じた。 『700万って! いったい絵を何枚売ったらええんや』 思わず心の声が口に出てしまう。 『絵によって単価はまちまちやけど、8~9枚かな』人吉が答える 『80万位ってことか~』 林葉が素早く平均単価をはじき出す  《そうか、8~9件の成約と聞くとやれそうな気がするな》 一口7万円とは言え月間で35~40件の契約を継続して取り続けた櫂には急に身近なものに思えてきた。 研修開始時刻から30分をオーバーすると流石に人吉も間がもたなくなってきたのか、しきりに腕時計を見て目をシバたかせている。 『ところで男性社員のトップセールスはどんな人ですか?』 人吉をもり立てようと櫂が助け舟の質問を出す。 『男性営業マンは桝村課長と光嶋課長、後は僕と森田君の4名だけです・・後の男性陣は部長職以上になるから』 人吉はさらりと答えたが30名以上在籍する営業社員の中で男性が4名とは比率が偏りすぎてにわかには信じ難い話である。   《確かに今朝会った桝村さんが率いるチームは全員が女性やったな》 『まあ、アートの仕事って言うだけに女性の入社希望者が多くなりがちかな』と人吉は付け加えた。 『森田君、楽園やんか!』 林葉がすかさず冷やかしの言葉を放つ 『楽園どころか肩身が狭いよ・・・』人吉が妙に実感のある溜息口調で返答する。 『大丈夫! 櫂くんは私が守ってあげるから』 林葉はとことん櫂を冷やかすつもりらしい 『俺ならジャイ子に守ってもらわなくても 大丈夫や』 『ちょっと、ジャイ子って私~』 そんな会話を楽しんでいるところに突然扉を開けて井川が登場した。 『ゴメンゴメン・・・ちょっと面接が長引いてしもた・・』 微笑を浮かべながらいつもの優しいペースでそう言うと扉の外にいる誰かを招き入れた。 『すいませ~ん、 あっ、おはようございます』 遠慮がちに入ってきたのはやはり櫂達と同年代の女性である。 櫂の隣の席に座るよう井川に指示された女性は、藤田優里と紹介された。 『なんだかよろしくお願いします 面接日を今日と間違えちゃって・・』 『ええ~っ!』 その場の全員が絶句する。 『はい~、ごめんなさい まさか今日から働くことになります』 藤田はおっとりと答えた  長髪に少し品のあるウェーブが入り、大きな目に眼鏡を掛けた藤田は、林葉とはまた違う落ち着いたキャリアウーマンという雰囲気を持っていた。 手際よく鞄から筆記用具を取り出してこちらを見た藤田は『よろしくね』と微笑したが、その手には櫂のボールペンが握られている  《不思議ちゃん系なんか? 魂の村が解らんわ・・》 一通りのザワつきが収まったところで井川が口を開いた 『これで役者が揃ったな・・ 今日からの研修で強いチームになるで・・・・このワールドアートは正直者が馬鹿を見ない会社やから・・頑張ったら頑張った分・・それぞれの夢を掴むことが出来るんや・・・・・・・・夢は掴んでこそ夢やろ?・・力を合わせて頑張ろう』 井川の独特な間の度に息が止まりそうになるが、いよいよ櫂はスタートを切ったのである。  櫂には井川の言う【正直者が馬鹿を見ない会社】【夢を掴める】の意味が抽象的すぎて理解出来なかったが、給与システムの説明を受けた事で全てを理解する事が出来た。 まずワールドアートに入社した社員はアシスタントセールスと呼ばれるが、要は研修生の位置付けである。 基本給は本給の14万円に皆勤手当・出張手当・営業職能給を合わせて約20万円。 この時点で既に櫂の東京での基本給を超えてはいるが、ここに各自の月間売上提出額の6%が加算され、さらに500万以上の売上に達してからはその額に応じて段階的に別途営業手当なるものが付加される。 『じゃあ池谷さんは平均70万円位を稼いでるってことね』 思考速度の早い林葉が即座にトップセールスの給与をはじき出す 『そういうことや、但し70万で満足するような社員がいくらいても・・ワールドアートは他社を追い抜いて・・・・全国展開をすることは・・出来んやろうな』  井川は微笑を浮かべて続けた  『そやから・・各個人がそれぞれの夢を持ってそれを本気で・・叶える・・夢を叶える人間が多いほど・・・ワールドアートも夢に近づけるという事や・・・だから夢を思い描くだけの人間はいらんのや・・妄想より叶える努力や・・・』 『ビクチャンか~』 藤田がおもむろに呟く 『ビクチャン? なにそれ・・』櫂は不思議に思って聞き返した 『あっゴメンなさい、ビックチャンス到来って事です~、私の流行りなんです』 あっけらかんと藤田は答えた。 『なになに、ユリリン面白すぎ~!』すかさず林葉が突っ込んだ  《ユリリンって?、さっき会ったばっかりでもうアダ名付けたんか・・》 櫂は心の中で林葉に突っ込んだが、藤田も楽しそうにユリリンを受け入れた様子である。 井川はこの一連の会話を遮ることなく微笑のまま落ち着きを取り戻すまで眺めてからさらに給与の説明を続けた。 アシスタントセールスが自分の力だけで400万円を売り上げた場合は達成当月よりコンサルタントセールスに昇格し、さらに基本給部分が増える。 但し、最初の3ヶ月で400万を達成出来なかった場合は本給の14万円のみの給与となってしまう。  《要するにアルバイト扱いって事やな、もしくは早よ辞めてくれというシグナルや》 コンサルタントセールスの降格基準は2ヶ月連続で400万を切った場合。 又、コンサルタントセールスから主任への昇格基準は自力売上600万を2ヶ月連続達成する事で主任手当が追加支給される。 逆に降格基準は600万を2ヶ月連続不達成となる。 『それやったら700万平均の池谷さんは主任さんやから75~80万は貰ってるって事か~』 林葉が先ほどの計算にすかさず修正を加えた。 『そういう事やな・・・此処にいる皆にはもっと稼いでもらわんと・・困るで・・・休憩にしよ。』 ヘビースモーカーの井川はやたらと休憩が多く、その度に此処に集められたメンバーの親睦は深まっていった。 人吉はコンサルタントセールスになって3ヶ月目で櫂とは同年齢・・・・秋爪は入社半年目でやっと、コンサルタントセールスになったばかりの櫂よりは三歳上。 林葉は宝飾店での営業経験有りの一歳上・・・・藤田は大学を中退してスペインへの留学を終えて帰国したばかりの一歳上である 《狙って若いメンバーを揃えた感じやな、わざと自主的な意見を出しやすい環境も作ってくれてるようや》 研修一日目が終了する頃には井川の思惑通りに個性の違うメンバーが結束し始め、既存の他チームを意識して現場に出る日を楽しみに感じるまでになっていた。  退勤後、最寄りの西中島南方駅に着いてからも話が盛り上り、林葉・藤田と長い立ち話をしてしまった櫂が自宅に着いたのは、午後九時を回った頃である。 既製品の大きな犬小屋から出てきたハスキーが櫂を出迎えて吠えたのを聞いて、泰代が玄関で待っていた。 『遅かったな~、早よご飯食べてしまいや』 そう言うと台所に早足で準備に向かった泰代は、最近ようやく頬がふっくらとしてきたように見える。 癌の治療は終了したが、やはり術後の5年位は再発の危険がつきまとう事は櫂も知っている。 いつもの山のような盛り付けの白飯を眺めながら櫂が切り出した。 『今度の仕事は出張が多いみたいやわ、体の具合はどうなん?』 『もう大丈夫やわ、私がそう思うから間違いないで! 櫂がやりたい事を見つけたと言うんやったらしょうもない心配せんときや』 『しょうもない心配って、そら心配もする病気やろ~が』 『良えか、昔は16歳過ぎたら男は大人・・元服やで。 親を振り返る暇があったら見つけたもんに真っ直ぐ進んで行きや!』 『それは分かってるけど・・・』 『分かったことならそれ以上何も分かる必要ないやろ、早よ食べて寝てしまい・・櫂の仕事はもう始まってるんやで!責任持って取り組みや』  確かに自分との新しい闘いは始まっている。 母が自分を噛み殺して放つ言葉は決して本心でない事など承知であるが、いつまでも心配の種を意識していては自分の選んだ道を突き進むことが出来ないのも現実である。 《ありがとう・・・》 シンプルな感情が湧き出てくる。  櫂には井川が言う大それた夢など無かったが・・ 《仕事の結果が自分の未来を創るというのであれば、とことん自分を磨いてその見返りを受け取ってやる》  明日からのエネルギーが満ちてゆくのを実感しながら櫂は眠りに包まれた。
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