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「アキコ……一度日本に帰りなよ」
「ノラ……」
「ほら、赤道儀のおじさんも帰りなって言ってるよ」
私が例の反射式赤道儀に話しかけているのを知っている彼女は、時々そんな風に茶化してくる。
どれどれとおどけながら耳を寄せるとノラは楽しそうに笑った。ここで恒星サタの観測を続けるかぎりノラは様子を見に来てくれるだろう。十年間、結婚して子供が生まれて離婚しても、ずっと変わらなかったように。
私はいつまでもこの場所でおじさんの星を見上げ続けて--
「まだあの言葉が怖いかしら?」
「……何だっけ」
屈折式望遠鏡をのぞきながら言うと「ごまかさないで」と詰めよってきた。
「I'm home……日本語の『ただいま』とは少しニュアンスが違うようだけど」
「そうだね……」
十八年前、パースに向かうおじさんを見送るとき私は機嫌が悪かった。天文家になると言えば喜んでくれると思ったのに反対されたからだ。おじさんは困ったように微笑み、いつものカーディガンを着て空港に向かった。
おじさんは帰らぬ人となり「ただいま」は聞けなかった。「おかえり」も言えなかった。
ノラは折りたたみ式チェアに腰かけて言った。
「彼に『ただいま』を言うべきよ。今度こそ解くの、この場所から離れられない呪いを」
「……私のことを『忘れてる』に5ドル」
「『おぼえてる』に100ドルよ」
「え、高っ!」
突き出した手を引っこめようとするとノラは笑って私の手を握った。
「きっと彼はあなたを待ってる。これは予感よ、外れたことないの知ってるでしょ」
「知ってる……技術者のくせにシャーマン的な能力なんてズルい……」
「彼はあなたと同じ。『おかえり』が言いたくて今の場所から離れられないでいる。It's time for a change. mmm……シオ、ドキ?」
「合ってる。どこでそんな言葉おぼえるの?」
「Akiko's Diary」
ノラの言葉に胸がはちきれそうになりながらしがみついた。私はダイアリーなんてつけてない。ただひたすらに天体写真を撮って色気のない観測日記をつけるばかりだ。
「あと一ヶ月だけ粘らせて。帰るならいい結果を持って帰りたい」
「Sure.アキコのそういうところ好きよ」
ノラは私をギュッと抱きしめるとまた夜空を見上げた。
「惑星にはどんな名前をつけるの?」
「うーん、やっぱ『Koki』かな」
「あの?」
「Yes,that's」
じゃあ急がなきゃね、とノラはウインクをした。反射式赤道儀の調整は彼女に任せて私は古びた屈折式望遠鏡をのぞいた。手を伸ばせば届きそうな星空の下でノラと二人、天体撮影を続ける。
おじさん、私日本に帰ってもいいかな。
独り言のつもりだったのにどこからか「もちろん」と声が聞こえた気がした。
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