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帰国が決まったのはパースの秋が終わる頃だった。一カ月のつもりが、天文台に論文が認められて補助金が出ることになり、観測は二か月三カ月と伸びた。
何とか結果を出したくて粘ったが、五月に入ると雨の日が多くなり観測できない日が増えた。冬でも温暖な気候と言えど、雨季だけは避けられない。
ノラに重い尻を叩かれてようやく日本の空港に降り立ったのが、六月の下旬だった。オーストラリアでの生活に慣れたせいで忘れていたが、日本の雨季はまるで滝の中で息をしているようだった。
せっかく持ち帰った二台の天体望遠鏡もこれでは何の役にも立たない。手持ちの金も底が見え始めていたので仕事を探すところから始めた。
逃げているのはわかっている、でも仕方がない。こっちは四十のおばさんで向こうは二十二の大学生だ、わかってくれよこの複雑な気持ちと悶えているとなんとノラが日本に押しかけてきた。
散々説教された挙げ句、あの団地の前まで引きずられてしまった。
そこに昔の面影は全くなく、近代的な高層マンションが立ち並んでいた。ノラはシャーマンの能力を発揮して「間違いなくここにいる」と言うけれど、三百世帯近くありそうな建物から彼が住んでいる部屋を探し当てるのは至難の業に思えた。
やっぱり出直すと言ったが聞いてもらえず、ノラは「見つけるまで戻れないわよ」と念を押してホテルに帰ってしまった。仕方ないので銀色のハードケースを担いでひとり夕闇の中を散策する。
湿った草むらから懐かしい日本の匂いがした。一年を通して乾燥しているパースにはない甘い土と花の香り、湿り気を帯びた生ぬるい風。
この湿度の高さに観測器具がやられてしまい、おじさんも辟易していたっけとあたたかな気持ちになる。
その時、薄闇の中で何かが光った。自然にはない人工物の光だ。私が愛してやまない天体望遠鏡のレンズが跳ね返す、あのやわらかな光ーー
三階のベランダにコウキがいた。
とっさに草むらに隠れた。建物の中程にあるベランダから天体望遠鏡が見えている。それを操作しているのは紛れもなくあの新聞に載っていた青年のコウキだった。
自分と同じような黒縁メガネをかけて、口元でタバコをぶらぶらさせている。一丁前にタバコなんか吸いやがってとくすぐったい気持ちがこみ上げ、すっかりあの頃に戻ってしまう。
日本語版の新聞で彼のフルネームを知った。月本光輝、おじさんも在籍していた天文台に来年度から最年少で所属することが決まっている。月っていうか、自分で光り輝く恒星みたいなやつだなと、どこか寂しさと誇らしさの入り混じった気持ちがわいてきた。
若き日本人天文家の快挙をオーストラリアの天文台にいる人間まで知っているのに、当の本人は面白くなさそうな顔で双眼鏡をのぞいている。少しからかってやるかと思うと、案外足は軽く動いた。
「あの光が見えるかい?」
そう言うとコウキがベランダから身を乗り出した。口が魚みたいに動いているが声が出ていない。相変わらず面白いやつだなあと思うと、そのあとの言葉はスラスラと出た。
低くなった声で「そこから動かないで下さいね!」と言われ、どこか安堵した。彼のたった一言が、私はここにいてもいいんだなという気持ちにさせてくれる。
ベランダから落ちてきた採用通知を拾っていると階段の奥からあわただしい足音がした。「いてっ!」と叫ぶ声が聞こえて相変わらずそそっかしいやつだなと胸がくすぐったくなる。
「アキコさん……」
目の前にコウキがいた。背は私より少し低いけれど、太い首には喉仏がある。息は切れ、広くなった肩を上下させていた。手にはおじさんの双眼鏡を持っていて、胸が熱くなる。
--暁子、あの言葉は言えたかい?
銀色のハードケースで眠る反射式赤道儀のおじさんが言った。私は「今から」と心の中でつぶやいて、それをコンクリートの上に置いた。
やっと言える、あの言葉--
「コウキ! ただいまーっ!」
私は遠慮せずにコウキに抱きついた。これはオーストラリア式あいさつ、ノラとはいつもやっていると自分に言い聞かせる。腕の中で耳を赤くしたコウキがもがいている。
「ちょっとアキコさん……苦しい!」
「何をひ弱なこと言ってるんだ、これくらい受け止められなくてどうする……」
コウキの大きな手が私の肩を持った。あごは骨張って頬は痩せたけれど、すこし垂れた目元に少年の頃の面影が残っていた。
「アキコさん……おかえりなさい」
優しく微笑んでコウキは言った。
その言葉に長い旅路を終えられた気がした。私は笑ってもう一度「ただいま」と言う。彼の瞳がわずかに揺れたので、思わず顔を反らしてしまった。
北半球の夏の夜空を見上げて、コウキにもあの星を見せてやりたいと思った。420万光年かなたの恒星サタ。
叶うのならあの惑星に『コウキ』と名付けて--
(おわり)
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