幻影と永遠の接吻を。

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   コン、コンコン。  小気味よくノックをした男は扉を隔てた向こうに人影があるのを確認すると、咥えていた煙管を離した。  「……合言葉を」  至って簡素で薄い作りである扉は、向こう側に立つ若い男の声に歓迎の色が込められていることを伝える。  大男が右肩に抱えた一つの“異物”。妖怪とも人間ともつかないような不可思議な荷物を、その扉は大口を開けて待っていた。  「……“恋に落ちた吸血鬼は、月の光を浴びると死ぬ。日の光は彼と彼女を殺さない”」  「……」  男が一息で言い終わると、中からは何も返答がないままキィと扉が開かれた。まるで異世界へ誘うかのように重々しく、その入り口は久方振りの客人に喜色を示した。  男がここへ着いて一分。二人は、顔を見合わせて表情を緩める。  「やあ、ようこそ御出でくださいました鬼売り屋さん。今日も彼岸花をご所望ですか」  「ああ、頼むよ。いつも悪いね、葬儀屋の真似事をさせてしまって。髑髏(しゃれこうべ)を厠にしているとどうも死に呼び寄せられて仕方ない。職業病というやつだね」  それはそれは、毎日御苦労様です──若い店主はそう言って恭しく一礼し、男、鬼売り屋の方へ訝しげな視線を向けた。  「……今宵は一段と年老いた鬼のようだ。貴方にしては珍しいのではないですか。明日は天変地異が起きるかもしれないですね」  「鬼売り屋」と呼ばれた男は、普段は特段に若い女を好む。そういう変態的な姿を見ているからこその言葉だった。鬼売り屋がこの店を贔屓にしている限り、若い店主は衣食住に困ることがない。そういう訳でいつもは連れてきた鬼に対して何も口は挟まないのだが、今回ばかりは異色の度が過ぎていたために無意識に言葉が滑り落ちていた。  鬼売り屋は店主のウウンと唸る声を聞きながら、ハハハと笑い出した。  「呵々、呵々。何を言うかね君、久方振りの相手に対して随分なご挨拶じゃないか。ナア、傷を癒すには新しい病が必要なのだ、生年(わかもの)よ。年老いた者から幼子までを順番に狩っていって、生命の逆進化という作品を創造する。それは必ずや私に良心の呵責を生み出すだろう。鬼売りは非現世的な職業であるとは云っても……そうして傷を癒し続けなければ、私は死んでしまうからね」  「……ほお、そもそも貴方の脳内辞書に“良心の呵責”という概念が存在するのかも怪しいところですが。またよく分からないことを仰いますね、僕には到底理解が及びません」  まあ立ち話も何ですし、お掛けください──店主は口角を歪めながら黒いソファーを指さした。それはかつて自殺した店主の妹の、白雪のような人皮を何度も加工して仕上げた代物である。彼は常連客が来店した時は必ずここに通すのだ。  二人は歩きながら談笑を続ける。  「有難う。私がこの齢になっても死なない《救われない》理由はきっと君にあるのだろうね」  「ふふ、相変わらず冗談がお上手だ」  「君も冗談が上手だね。私は拙い軽口は叩かないよ」  かつての大歓楽街は廃れ、化け物が寄り集まるスラム街の新宿は“神宿”と名を改めた。  そのメインストリートから少しばかり外れた路地裏、老舗の純喫茶“戦争屋”は深夜も営業を続けている。店内には紫煙を燻らせながら優雅な所作で佇む着流しの店主と、額に「悪鬼退散」と刻まれた古札を着けたロングコートの大男。  異様な組み合わせだが、これでも神宿が誕生して以来の、旧知の仲である。  「……ところで、気のせいだろうか。どこか遠くから般若心経の声が聞こえているのだが」  鬼売り屋の両耳は長い髪によって隠されている。大部分は雪景色を彷彿とさせるような銀色だが、その毛先だけは鮮血のような赤色である。中々にちぐはぐな髪色だ、と店主は見る度に思う。  「いえ、少なくとも戦争屋(我々)が流している音楽ではありませんよ。……ああ、もしかして遂に数多の断末魔を宿した聴神経が息絶えてしまいましたか」  何か物事がある度に悪態をつくのは、もはや日常茶飯事である。  「オイ、私に断末魔などを知覚できる高尚な器官が在ると思っているのかね、君。呵々……イヤハヤ、これは明日からも鬼の競売に励まねばならないな」  「では、餞別として僕からお呪い《おまじない》を後でお渡しさせて頂きますね」  「……アア、待て、待ちたまえ。“マジナイ”など簡単に言ってはいけない。“マジナイ”とは“呪い”と同じ字を有する同一の生命体なのだ、ナニカの手違いで発生した言霊のせいで、私に呪いが掛かってしまったらどうする」  「……ふふ、失礼致しました。確かにそれは一理ありますね。訂正します。“御守り”をお渡しいたしましょう」  「ウン、それがいい。“御守り”という言葉は神聖で心地が良い」    純喫茶とは言いつつ、その薄暗い店内を照らすのは流血のように真っ赤な提灯。まるで高級娼館を彷彿とさせる内装は、世界の闇を遂行する顧客たちに好評である。内緒話をするには最適な空間だ。  ワインレッドで塗られたテーブルの数々を通り過ぎ、二人は向かい合ってソファーに腰掛けた。鬼売り屋が肩に担いでいたのはひどく年老いた女の鬼。鬼売り屋は、角さえも折れかけた肢体をゆっくりと長机に横たえる。鬼用に調合した特別な睡眠薬の効能で、今は深い眠りに入っていた。  鬼売り屋が先に席に収まり、その後続いて店主が「それでは、失礼」と言いながらおもむろに腰を下ろした。  「……サア、今日の客足はどうだい。宴もたけなわ、といったところかな?」    宴、というのは神宿でこの時期に開催されている縁日のことだ。旧暦ではこの月のことを神無月、と呼ぶ。神が地上から姿を消して楽園になる宵々、魑魅魍魎は日々の迫害から羽を休められる唯一の時とばかりに飲めや歌えやの大騒ぎだ。そんな神無月も終わりに近づいた今日。戦争屋を出れば、そこには数々の酒瓶やら新聞やらが転がっている。  店主は「いいえ」と首を振って、口角を上げるだけの笑いを浮かべた。    「売上どころか、そもそも今日は休業とさせて頂きましたよ。貴方が何時に来るのか、何時もお伝えしてくれないものですから」    彼らのやり取りは基本的に小道具頼りだ。携帯電話が使えなくなった神宿では、今は鴉が伝書係として使われている。戦争屋では二羽の番の鴉を飼っており、雄の方は速達専門として使役する。店主によく懐いているが鬼売り屋には心を開かない。妖怪でもなんでもないただの野生だった鴉が持つ警戒心、あるいは“野生の勘”というやつなのだろう。    「こんなやり取りを昼のお客様に聞かれようものなら腹切り物ですよ」  「ハハハハッ、それは失敬。これからは日時までも悉皆伝えるようにする。お詫びに前金も含めて今回の件は弾ませて頂こう」  「思っていたよりも人間らしさに溢れたご対応、こちらとしても非常に助かります」  「オヤ、それは悪口かね」  「いいえ、愚痴です」  「同じじゃあないか」  相変わらず愉快だな、と大して面白くもなさそうに鬼売り屋は笑う。気のせいです、と店主側もまたとりとめのない返事をした。  「では」  「ええ」  年季が入った鬼の動かぬ肢体一つを隔て、彼らは乾杯の代わりに互いの煙管を交換した。同じタイミングで息を吐くと紫煙が交わり、歪んだ気流が天井へと向かっていく。店主は滅多に煙草を吸わないが、こうして上物が手に入った時には鬼売り屋との交流上祝杯を交わす。くだらない冗談ばかりを言い合ってはいるが、彼らは決して仲違いしている訳ではない。  「“彼岸花”の用意は明日以降でも?」  店主はひとしきり鬼売り屋の煙を吸ったあと、話を切り出した。  「ウン、構わない。神無月が終わるまでに整えられれば上々だ……折角手に入れた鬼を堪能する必要があるのでね」  「……鬼の“変態”、ですか」  「ああ。この薬の効果が切れたら直に“何か”に変わるだろうさ。今からそれはそれは心待ちにしているよ……そうだ君は、“変態”を見たことがあったかな?」  「それは、目の前にいらっしゃる怪人様のことでしょうね」  細長い指先に黒色の爪が光る。「一理あるが中々に失礼だな」と答えて再び笑みを浮かべた。男の退魔符から覗く瞳は、深い海の色をしていた。  漆黒のロングコートで覆われた懐の中から茶封筒を出すと、そこから何枚か紙幣を取り出して鬼の上に放つ。この世界では人が鬼を喰らう──もちろん喰らうというのは比喩だが、昔話では脅威であったはずの鬼という魔物は、今や人間側に次々に復讐される対象である。だから老いた鬼などは貴重な存在でしかなく、それなりに力も蓄えているはずだ……と鬼売り屋は思っていたのだが、この女は違った。  店主は「ええ、確かに」と呟きながら紙幣を回収した。そこから彼が自分の懐の間に入れるまでの一連の動作を見届けたあと、鬼売り屋は恍惚、といったように嘆息する。  「私としても非常に興味深い。老いた鬼が、これほどまでに粗末なものだとは……」  もちろん彼が乱した訳ではなく、女の着物は泥や傷やらで薄汚れていた。皺だらけになって波ができた肌には光沢の欠片は一切ない。生きているはずなのに生気を宿していないことが全身から伝わってくるほどである。年を重ねれば重ねるほど鬼の威厳たる角は長くなっていくと伝えられているが、女の角は長いどころかまるで刑にでも遭ったかのようにちぐはぐだった。成長に失敗した子供などよりも酷い。ぼろぼろな着衣には、底の深いグロテスクな臭いが染み付いているかのように思えた。  「……伝承とだいぶ異なりますね」  店主は老女を訝しげな様子で見つめる。  「アア、そうだね。もしかしたら鬼の生態とは……人間の文明の一歩手前を歩くものなのかもしれない」  「……と、言いますと?」  「出来る限り美しい言葉で言えば、“高齢者虐待(お焚き上げ)”さ。しかし悪質な、ね。本当は鬼は年を重ねるごとに弱体化し、あとの世代から蔑ろにされるものなのかもしれないというのが私の予測だ。マア最も、参考にする例が現時点ではこの老女しか居ないから断定は出来ないが」  古い御守りや古札を燃やし、天まで贈ること──人も鬼も、老いるとはそういう数奇な運命のことを言うのだろうか。それはか弱い人間が神へ祈る行為とは全く違う、蹂躙にも似た暴力の形だ。人間の世では、老人は生における師であると持て囃される。しかしいざ彼らが実際に若い人間たちの育成を終え、年波によって身体や精神を病めば途端に見放される、というのが常である。鬼売り屋による「人間の文明の一歩手前」というのは、もはや人間の社会が崩壊してしまったからこそ出てきた言葉だった。  彼は腕組みをしながら、思考を巡らせるように視線を右上にやる。  「人間界においても年老いた存在というのは常に邪魔なものだ。“邪魔なものだった”。……鬼は、他生物などではないのかもしれないな」  「……こんなことを聞くのも野暮ですが、鬼売り屋さん貴方は……人間なのですか?」  今度は店主が腕を組んだ。通常であれば店内は全面的に禁煙だが、彼が来る時は特別に喫煙も可能にしている。葬儀屋としての顔を知っているのは、鬼を売る商売で金を稼ぐ人間達だけだ。  深海のような瞳が怪しげに光る。  「……呵々。サテ、な。私とて数ある鬼売り商売人の端くれに過ぎない。人間であるかもしれないし、神でもあるかもしれないな。イヤ……それとも、何方ともつかない幻影かな」  神宿の住人というのは心を隠す。「まあ実際のところ、私にも自分が誰なのか分からないだけだ」と適当な言葉を吐きながら笑った。  「それは、おそらく太陽が地上で自らの明確な影を探すのと同じことでしょう。太陽は自分がどこを向いているのかも知らずただ光を放つことしかできない。太陽自身は、自分がどんな姿をしているかなど知る由もないのです」  「なるほど、その話でいくと私は太陽という訳か。呵々、似合わないな」  「ふふ、そうでしょうか」  くす、と自嘲気味に笑ったのは店主の方だった。手持無沙汰に煙管を吸い、フーッと煙を吐き出す。  「……で、何の話をしていたのだったか」  「“変態”の話題からでしょうかね」  店主が冷静にそう返すと、思い出したように鬼売り屋は手を叩いた。  「アア!そうだ。そうだった……呵々、健忘症になっていけないね。私の脳髄すらも死神に魅入られているようだ。生きた存在には全く救われた《愛された》ことなどないというのに」  鬼売り屋は悪鬼退散の札の下で、その両目を閉じた。  外では雨が降っている。ほろ酔いのような深夜の一雨。  ──窓の外からは、時折大きな足音が聞こえてくる。それは飲み屋帰りの百鬼夜行の群れか、勤め帰りの社畜幽霊か。何しろこの時間は皆騒ぐ。時折、酔いどれのいきものたちが扉にその身体を叩きつける音がする。  不安定な足元では、平衡感覚すら保てないのだ。  「鬼というのは、命を落とすと数日後かにその身体を何らかの別の生物に変貌させる。しかしそれは蛹が蝶になるようなちっぽけな変化ではない。喩えるなら悪鬼が聖者になるような──それほどの威力を持った変態(生まれ変わり)だ」  アダムとイブが楽園から追放されたことにより、世界が誕生するという革命が起こった。“変態”とはすなわちそれほど程度の高いものだ。「世界を変えられる」とまではいかないが、鬼売り屋の経験上では今までに何度か、醜い鬼が“水晶の肉体を持った妖精”に姿を変えるところを見てきている。  「アア、アア。そうだ……一番美しかったのは、生前ひどく醜い姿をしていた若い女鬼だ。“変態”の瞬間に迸った汗、機能を停止したはずの眼球から零れた血……姿を変貌させ終えるまでの全てに嫌悪感を覚えるほどだったが、変わり身を終えた時の感動ときたら。傷んでいた髪は絹糸のような銀髪に変わり、閉じた睫毛さえも雪のようで……その雪白の肉体に火傷の痕のようなものができていたんだ。よく観察してみれば、そこには光沢を放つ水晶が埋まっていた……」  身体の継ぎ接ぎは狂っていたように見えたが、と鬼売り屋は付け足した。  一瞬目を疑ったものの、それは確かに宝石の類で間違いなかったという。蔑視と値踏みの対象でしかなかった鬼がこうも鉱山の宝庫のように変貌するとは、鬼の研究者であっても想像もしていなかったことだったのだ。  鬼の特質といえば、「傷の再生能力が異常に高いこと」「鬼同士で共食いをして成長すること」「寿命が人間よりも多少長いこと」の三つである。鬼が出現する場所には血の雨が降る、とまで言われ、人間の民間人は自分に危害が加えられる訳でもないのにその存在をひどく恐れる。要は、そういう訳で「需要がある」のだ。自分たちより生物学的に優れた化け物である鬼を手中に収めることができるのは、どんな善良な人間だって欲をそそられる。需要量は一般市民から悪質なサーカス団にまで及ぶ。あわや、鬼などは奴隷。  鬼売り屋は、「鬼などよりも余程、人間の方が“喰う”のは得意だ」と心の中で呟いた。  「私は暫時目を離すことができなかった……。生まれてこの方、アレほどまでの衝撃を味わったことはなかった。矛盾した美だ。痙攣的な美しさだ。私は初めて、鬼を売り飛ばすということを躊躇ったよ。然し私も商売人。キチンと高値で売らせてもらった。……何もしなかった訳ではない、彼女の心臓部にあった宝石を一つ拝借し、懇切丁寧に彼女の膣内に煙を射精したよ」  「……気狂いですね」  「マアそんなことを言うな。……鬼の再生能力、あれは人間には持ち得ないものだ。だから誰も手では触れられない彼女の内部に傷痕をつけてみたかったんだよ。君も“妹さんが居たのなら”、分かるだろう?」  鬼売り屋が煙を吐き出すと、店主はクルリと彼から受け取った煙管を回した。目元が不敵に歪められる。虎のような野性的な色を持った琥珀色の双眸は、ギラリと正面の男の姿を捉えていた。右目の目元に刻まれた彼岸花の文様は青色だ。数年前、彼の最愛だった妹に彫らせた刺青。  店主は、それがズキ、と微かに痛むのを感じた。  「……はは、よく御存知で。“傷を治すには新しい病が必要”ですからね」  「おっと、ソレは私の台詞じゃあないか」  店内には二人分の乾いた笑い声が響いた。しばらく間を置いたあと、「それでは」と店主が口を開く。  「この老女も、そのまるで奇跡のような“変態”を起こすと?」  半信半疑ではあった。何しろ目の前の男は口がうまい。その口八丁で何度も鬼を高額で売り付けてきたであろうし、実際に自分に任されるのは鬼を美しく飾る葬儀屋の真似事だが、付き合い立ての頃には何度か手中に落ちそうになったことはある。  「断言はできないが、その可能性は十分に有り得る。此奴は私が今まで捕らえた鬼の中で最も高齢と見えるよ。百年は生きているだろう」  鬼売り屋が発した声に、小さな震えが混じっているのを店主は感じ取った。しかしそれは恐怖や怯えといった感情から来るものではなく、おそらく歓喜や未知への好奇心に由来しているもの。このあとの空気が最悪になることは目に見えている。  鬼売り屋はいつも通り、この眠らせた鬼の解剖を始めるだろう。そして最初に言った「彼岸花」を鬼の腸の中に埋め込むのだ。もちろん路上に咲いているようなものではなく、店主が鬼用に作り育てた美しい植物。その種子は鬼の吸収力を以てすれば、一日ほどで完全な形へと花笑む。花は腸の中で本数を増やし、そして内部に薬を振り撒く。その薬は鬼としての人格を失わせ、人間側への服従を強制させるものである。  「すぐに売れるさ。君への報酬も普段の倍にさせて頂くよ、変態税というヤツだ。……で、棺の発注もお任せしていいのかな?」  大男は大層な価値のある漆黒のロングコートを羽織っている割に、指輪や腕輪などの装飾品は一切身に着けていない。彼ほどの荒稼ぎ屋であれば金は神の泉のように溢れ出てやまないだろうに、自身が得た金の山は一体どこへ行っているのか。店主は常々それを疑問に感じていた──今回もその例に漏れることはなかったが、彼はそんなことを聞くのは野暮だと質問を押し殺す。  「勿論です。……寧ろ戦争屋(我々)以外に心移りされるのは、中々に堪えますよ」  人差し指を口にあてて、にこりと笑った。  ──棺とは文字通り、鬼の生前葬を行う儀式のために使われるものだ。鬼売り屋に捕らえられた鬼は、最早以前までの自由奔放に生きていられた鬼ではない。何かにつけて“儀式”をするのを好む人類文化の性である。  「アア、有難う。とびきり良いやつを頼むよ。私が此奴と交戦しようとしたときはあまりの覇気の無さに驚愕したが……眼光は確かに喰った鬼の数を物語っていた。若い頃は大層力のあった鬼なんだろう。なぜここまで落ちぶれているのかは、これからの研究に任せるが」  まあ何はともあれ、今回の葬儀も君に全部頼むとするよ──鬼売り屋は煙管を机に置いた。その返答に店主も「お任せを」と恭しく礼をした。  前のめりにしていた姿勢から、ソファーの背もたれに深く寄りかかる姿勢へと変え、リラックスをするような体勢になった。天井を見上げると小さな灯籠が燐光を放っている。店主の趣味なのか、灯籠の中はよく見れば赤い金魚が悠々と泳ぐ水槽だ。あんな狭い中で、よく魚を泳がせようとするものだ。 鬼売り屋は天井を見上げたまま呟く。  「……君、照明を変えたのかい?前に来たときは確か……エエト、あの中には桜と彼岸花が居たじゃないか」  「ああ、そうです。よくお気付きで。そういえば妹が縁日の際にはいつも金魚を欲しがっていたことを思い出しまして」  それにつられるように店主も天井の金魚を見つめながら返答した。「そうか」という呟きと共に客人の視線が下げられたことを確認すると、自分も同じように視線を戻して徐に立ち上がる。  「そういえば何故、桜と彼岸花の組み合わせだったんだい?」  店主はカウンターへと戻り、珈琲を淹れるため焙煎の用意を始めた。  「……そうですね、大した理由ではないのですが、その二つが決して出会うことがない植物同士だったから、でしょうか」  大粒の豆がするすると小袋からドラムへと注がれていき、煙草のにおいで充満していた店内には昼間の香りが仄かに立ち込める。そのままバーナーを入れると、珈琲豆はくつくつと加熱され始めた。珈琲は、商談が終わった後に。これが店主の持論だ。  「季節のことか?……桜は一年中咲くものもあると聞くが」  鬼売り屋は座ったまま、店主の手際を見つめていた。空気は世間話の流れへと転換している。鬼はあと一週間は目覚めないだろうから、まだこうした談話を楽しんでいていいだろう。  「はは、確かに。そうですね、あまり深くは考えていませんでした。ただあと一つ付け加えるなら……彼らは、愛される花と愛されない花の代表格であるような気がしていましてね。そんな二つが共存している空間は……何とも滑稽でしょう?」  店主は焙煎を行う手元から目を離さない。  もはやこの表向きの喫茶店商売にも慣れてはいるものの、彼は少しの気も抜かない。気を抜いてしまったら、抽出後の仕上がりにムラが出来てしまうことがあるのだ。いつ、どんな珈琲を淹れる時であっても、一箇所に発生した異物を許してはならない。すべては一様に、同様に。“多様”などというものは、笑い話にしかなれない。  「……偶に君の感性がよく分からなくなる時があるのだが、まさに今はその時だな」  「それは心外です」  その時、チリリリン、と鈴の音が鳴り響いた。  「おっと、すまない」  それは鬼売り屋の通信端末からだった。ポケットに仕舞い込んでいたそれを落ち着いた動作で取り出すと、音を止めるためにボタンを二度押す。高性能な携帯電話は使えなくなった現在、これは伝書鴉がもうすぐやって来ることを知らせるだけの道具だ。  「ちょっと失礼するよ」  そう言って窓を開けると、雨音が一層入り込んできた。店主が「ええ」と返事をしてそちらの方を見やると、端末が宣言した通りすぐさま伝書鴉は飛んできた。彼の知り合いのものだろうから誰のものかは分からないが、目つきが鋭く首に赤い首輪を巻いた、いかにも「絶妙に飼われている」といった風貌の鴉だ。その嘴には小さな紙切れが咥えられている。  鬼売り屋は小さく何かを呟く。すると、役目を終えた鴉は瞬く間に飛んで行ってしまった。この雨の中、よく飛んできたものだ──店主は心の中で小さな感動を覚えた。  「……すまないね、失礼した」  男は紙切れの内容を見ながら窓を閉める。退魔符に隠されているとはいってもその表情は店主の方から窺い知ることができた。彼は珍しく、ひどく驚いた様子だった──店主は反射的に「どうしました?」と尋ねる。  「……」  紙を見つめたままコツコツとブーツの音を鳴らし、ゆっくりと再びソファーに戻る鬼売り屋。  「急用ですか?それでしたら支払いの方は後日で構いませんので、今日は──」  「否」  店主が言いかけたところを、「イヤ……」と再び口にして何かを考えこむ仕草を見せる。彼にとっては初めて見る表情だった。いつも飄々としているこの大男が狼狽えるところなど、空前絶後のことだろう。  「……?」  異様な様子に店主も首を傾げる。焙煎中の豆がくつくつと音を立て続けていた。  「……君、“傷を治すには新しい病が必要”ではあるが、君の得た”病“は……これからおそらく逆に新しい傷を生む」  「は?何を言って……」  謎めいた鬼売り屋の発言に咄嗟に理解ができず、目を丸くする。今の手紙に一体何が書いてあったというのだろうか?  豆を煎る機械に意識を向けたまま、その言葉たちは彼の耳横を通り過ぎていった。  彼は耳を疑った。先ほど落雷に遭ったかのような表情をしていたくせに、今はもういつも通りの飄々とした顔に様変わりしていたのだ。いや、それ以上に信じられないのは──「妹は死んでいない」という言葉。  「君の“傷”とは、妹から全ての才能を自分が吸い取ってしまったことに対する苦しみ……つまりは生きることへの絶望だ。それを治すために、君は妹の死を悼むことという名の新たな“傷”を作り出すことにしたのだろう?」  ……年若い店主は、最愛の妹がまだ生きていた頃の過去の記憶を思い出していた。  自分とは違って、ひどく病弱だった彼女。それに加えて周囲は少年時代の店主のことを神童と持て囃し、彼女のことは白痴だと言って罵った。事実、彼女は頭が良くなかった。それに加えて身体能力も低かった。二人兄妹の唯一の欠陥だ、と。完璧な兄と欠落した妹。母親の胎内に呼吸器を忘れてきた異物。生命活動における全ての才能を兄に吸い取られた虚……妹に対する親族の評価は散々なもので、彼女は15歳の春、生の苦しみに耐えられずに自殺したのだった。兄はというと、勿論のこと彼女の死を悼んだ。唯一彼女にとって彼だけが人生の味方ではあったのだが、味方が一人ではどうしようもない世界だった。 妹が死んだ姿を、店主は確かにその目で見た──はずだったが。  「妹さんは死んでいない。ついでに面白い事実が分かったよ。鬼の“変態”──これはまさに生命の神秘、“異なる生物への変身”と全く同じものなのだ」  ──妹さんは、人間の頃“は”美しかったかね?  鬼売り屋は、そう言って歪んだ微笑を浮かべた。  「…………」  店主は押し黙る。ソファーの生地を持つ手に、無意識に力が入っていた。  「アア、アア私も少々混乱していてね、高鳴る胸を抑えられない。一体どうしようか、この感情を。絶望がさらに絶望の海底へと沈んでゆく瞬間、これはもはや芸術だとしか言いようが──」  早口でまくし立てて身を乗り出す鬼売り屋に、店主は俯かせていた顔を上げながら微笑んだ。  翡翠の色をした双眸の奥に宿った、篝火のような虚無が牙を剥く。  「いえ」  記憶の中の二人は、混沌とした世界の中で常に手を握っていた。  「人間の頃“は”なんかじゃありませんよ。妹は僕だけの天才だ。叶うことなら死の間際の顔に接吻をしたいと──そう思うほどにね」
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