プロローグ A & R

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「失礼します」  心臓の鼓動と手汗がひどい。覚悟を決めてノックし、おずおずと社長室に入る。  革張りの椅子に腰かけているのは、ユニゾンミュージックレーベル代表、佐藤浩二氏。高級感あるデスクの上には、芸能新聞。呼ばれたのは、担当していた春乃ららの引退のことで間違いないようだ。 「春乃ららの引退理由は?」  即、叱責されると思っていた碧海は、少し面食らった。社長の声が、思ったよりも穏やかで落ち着いていたからだ。  社長の問いかけに、碧海は暗い声で返す。 「それが、全く分からないんです…」  担当として情けないことこの上ないが、それが碧海の本音だった。  一週間前までは順調だった。春乃ららのファーストアルバムが、デジタル配信サイトのアルバムデイリーランキングで7位を記録。CMソングのオファーもあったし、ライブツアーの計画だって進んでいた。すべては順風満帆…なはずだった。  碧海は A & R 担当なのに、引退の決意を打ち明けられたのは昨日。今朝には本人直筆のメッセージがマスコミ各社に送られ、SNS上でも引退宣言がアップされた。もう取り返しがつかない。 (ららちゃん、どうして引退なんて…)  春乃ららが引退、理由は不明。碧海も多くのファンと同じくショックを受けていたが、まず社長に対してしなければいけないのは、将来有望なアーティストを潰してしまったことへの謝罪だ。  会社は慈善事業ではない。春乃ららがいなくなったことで、会社に損害を与えてしまったことは間違いない。  落ち込んでばかりもいられない。マスコミに文書を送ったり、問い合わせの電話に対応したりしななければならない。社長にも多大な迷惑をかけてしまうだろう。
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