一.お山の泉

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「和希さん!」  荒れ狂う風の中から、 宮司(ぐうじ)さんの声が飛んできた。 「さくらさん。来ちゃだめだ!」  狐の牙から逃れながら、やっとの思いで出した声が彼女に届いたかはわからない。  けれど、彼女の声に狐の力が弱まったことだけはわかった。  グイっと押し退けてみると、狐はピョンと少し離れた場所まで飛んだ。  急いで起き上がって、転がったままの容器を拾う。少し振ってみると、中から水の音。零れずに済んだようだ。 「走れ!」  ゴローの声に急かされるように駆け出した。  山小屋の前に立っていた宮司さんの手を取る。  「結界を抜けろ!」 「結界?」  (何のことだ)  と思いながら振り返ると、ゴローは狐と対峙していた。 「早く!」  短く指示を出すゴローに頷き返して、僕は宮司さんの手を引いて走り出した。  しかしすぐに斜面に茂る笹の前に、走るスピードを緩めなくてはならなくなった。 「和希さん、お怪我は?」 「大丈夫です」  心配そうな宮司さんに、努めて明るい声で返す。  振り返ってみると、狐が追ってくる気配はなかった。  ゴローが食い止めてくれているんだろうか。 「あの狐、何なんでしょうね」 「狐?」  後ろから返って来たキョトンとした声に、笹を掻き分ける手が止まった。 「大きな狐に、僕、襲われてましたよね?」  振り返って見ても、宮司さんはやはりキョトンとしていた。 「和希さんがすごく痛そうな顔をしてらっしゃたのはわかりましたけど……。風に煽られて、どこかを痛められたのではなかったんですか?」 「あ、いやあ――。実はそうなんです。でも大丈夫ですよ」 「ええ。しっかり走っていらっしゃるから安心していたところです」  宮司さんはそう言って微笑んだ。  彼女には狐が見えていなかったんだ。 (なら、どうして、ゴローは……)   新たな疑問が頭をもたげたけれど、今はとにかく『結界』を抜けることが先決だ。 「先を急ぎましょう」  依然として狐が追ってくる様子はなかったけれど、僕はゴローに言われた通りにすることにした。  でも、どこに行けば『結界』とやらを抜けるんだ?  僕は宮司さんの手を引きながら、もう片方の手で笹を掻き分け斜面を進んだ。  ようやく稜線まで上がり、歩きやすい縦走路に出たところで、ゴローが追い付いてきた。 「のぞき岩まで走るんだ」  彼の足の速さに驚きながら頷く。 「狐は?」 「まだそこにいる。急げ」  ゴローに続いて走り出す。  縦走路の向こう側の雑木林に飛び込むと、暗くて狭い獣道のような山道を少し走った。  視界が開けて明るくなったと思ったら、大きな岩が横たわっていた。  それが、この霊峰のシンボルである『のぞき岩』。  巨大な一枚岩の下は切り立った崖だ。滑落すれば、ひとたまりもないだろう。 「これでいいの?」  ゴローに問うと、彼は首を横に振った。 「まだだ」  彼の低い声はいちいち凄みがある。  びくびくしている僕をよそに、ゴローは耳を澄ませている。  宮司さんが怯えたように僕に身を寄せた。何が起きているのかわからないからこそ怖いんだ。  僕は彼女の手を握る手に、ギュッと力を込めた。 「結界の境はのぞき岩。飛び込め」 「ええ? 何言って……」  唖然とする僕たちに、ゴローは冷静さを失わないままの低い声で、 「早くしないと喰われるぞ」 「!」 「さくらさんのことは任せて、行け」  僕は宮司さんを見た。  宮司さんは僕を見ていた。  僕は大きく息を吸い込んで言った。 「狐の狙いは僕です。ゴローさんと一緒にいれば大丈夫ですよ」 「和希さん?」 「来た」  僕は反射的にのぞき岩の上に飛び乗った。  崖に張り出した一枚岩。風が容赦なく吹き付ける。  体を持って行かれそうになりながら足を踏ん張ると、 「カズキ、飛べ!」  バンジージャンプなんて物じゃない。  命綱もないのに、ここから飛べって? 「早く!」  わかっているけれど体が動かなかった。 「キャッ」  宮司さんの悲鳴が聞こえたと思う間もなく、強い風が僕を襲った。  体を持っていかれそうになって膝をついたところで、背中に白い塊が体当たりしてきた。 「うわあ」  出したくないのに、情けない声が漏れてしまう。 「危ない!」  岩の上にもんどりうって倒れた、気づけばのぞき岩から顔が出ていた。奈落が真下に見える。  辛うじて悲鳴を飲み込んだ僕の上に狐が乗って踏みつけてきた。 「なんで僕を目の敵にするのか知らないけれど、ちょっとは話を聞けよ!」  理不尽に襲われることに、いい加減嫌気がさしていたんだ。  僕はありったけの力を使って起き上がった。  狐が狼狽えたように僕の背中から飛び降りる。  振り返ってみると、狐がさっきよりも少し縮まっている。  最初にお宮であった時のように、この狐は伸び縮みできるらしい。  (どういう仕組みだろう)と思わないでもなかったけれど、今はそんなことを考えている暇はない。 「ゴローさんの言葉がわかるくらいなんだから、話できないわけじゃないんだろ? だったら、ちゃんと話そうよ」  白くて、少し小さくなった狐が「キューン」と可愛い声を出した。さっきまでグルルと唸って涎を垂らしていた狐と同じだとは、とても思えない可愛らしさだった。 「『結界』……出たら、話せるかい?」  僕は立ち上がって後ずさった。のぞき岩の縁を足の裏で探る。  そしてそのまま、のぞき岩から奈落に向かって飛び降りた。    ***  目が覚めると、見慣れた天井が見えた。  古民家の客間の天井だった。  明るい光に窓の方に視線を移すと、手入れされた庭木が見えた。  それから視界に飛び込んで来たのは、三毛猫と梟。それに諸々の小動物たち。 「いっぱいいる」  いきなり起き上がった僕は、思いの(ほか)彼らを驚かせたみたいだ。  兎に、野鳥、狸に、蛇。いろんな小動物たちが、三々五々散っていく。  呆気に取られているうちに、客間には三毛猫と梟しかいなくなった。 「なんなの。いったい」  溜息交じりに呟きながら無意識に耳に手をやると、ピアスが手に触れた。  途端に山の上でのことが甦ってきて、僕は小さく身震いした。 「いろんなことが起こりすぎて、もう頭がパンパンだよ」  三毛猫と梟に言っても――と思いつつも、言わずにはいられなかった。 「仕方ないわねえ」  突然聞こえてきたのは、ニーナの声。 「そろそろ教えてやった方がいいだろ」  続いて、ゴローの声も。  彼らを探してキョロキョロ部屋を見渡していると、 「ここにいるでしょ。失礼しちゃう」  さっきまで三毛猫がいた畳の上に、ニーナがにやにやしながら。梟がいた場所に、ゴローが神妙な面持ちで。それぞれ座っていた。
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