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それは、ずっと昔の事。
祖母がここに嫁いできたばかりの頃の話だった。
その頃この家はまだ百姓をしていて、祖母は毎日忙しく立ち働いていた。農作業の合い間に食事を作り、子供たちの世話をし、それはもう座る暇などないくらいの忙しさ。
刈った草をいっぱいに詰めた背負子を背負う祖母の姿。粟だか稗だかの雑草が、背負子の縁から顔を出してぴょこぴょこ揺れている。そんな光景を、田んぼの手伝いをしていた僕もよく覚えている。
そんな祖母の若かりし日。忙しい毎日の合い間に迷いこんで来た梟が一羽。
彼は羽に怪我をしていた。
飛び立てず地面の上で羽ばたく彼を見て、祖父と祖母は鉄の格子の付いた籠で、怪我が治るまでの仮の住まいを作ってやった。
その頃野生動物と人間との距離は今よりもずっと近く、助けた野生動物をそのままペットとして飼うこともよくあった。ゴローと名付けられた梟も、このままこの家の一員になるのかもしれない。祖父母も子どもたちもそう思っていたけれど、いくら手当てを受けても餌を貰っても、梟は祖母以外の人間に懐くことはなかった。
やがて手当ての甲斐あってか梟の怪我は治り、彼は籠から出されて森へと帰った。
しかし、彼らの関係はそれでは終わらず――。
「私は里に下りては、彼女の様子を見守っていたものだよ」
あの木の上で。
そう言って、ゴローは庭へと目を移した。
そこには、あの濃霧の日に、彼女が見上げていた庭木があった。
「あ――」
僕はそこで初めて合点がいった。
あの時ニーナは、枝に止まったゴローを見ていたんだ。
「二人は前からの知り合いなんだね」
「ああ、そうだな。ニーナがここに来てからずっと」
「ニーナの子猫時代も知ってるんだ」
僕はなんだかおかしくなって笑ってしまった。
姉御肌のニーナにも、子猫の時があったんだよね。
「それは――」
言いかけてゴローは口をつぐむと、
「昔話はこのくらいにするか。カズキが一番気になっているのは壱様のことだろう?」
と、急な話題転換。
ニーナが小さかった頃のことは話したくないのかなと思ったけど、僕は確かになぜ白い狐があそこまで執拗に僕を――僕が付けているピアスを狙ってくるのか。理由を知りたかった。
「うん。そうだね」
「なあに。壱様の話?」
ニーナがむくりと起き上がり、すぐさま人間の姿に戻った。
「耳聡いな。ニーナは壱様のことになると」
「あら。壱様のことは、この辺りのあやかしは皆好きでしょ」
長い黒髪をはらりと払って、ニーナは微笑んだ。
「ああ、そうだな」
「そうなんだ……」
僕は意外だった。
あの怖い狐のことを皆好きだって?
「というか、あやかしって、そんなにいるの?」
「んー、そうね。おいおい会うことになるとは思うんだけど」
「おいおい……会う……?」
「そうよ。けど、あやかしって言っても、ゴローはちょっと違うかしら」
「ん? じゃあ、ゴローさんは何なの?」
「ゴローは何度も代替わりを繰り返している森の主。どちらかというと神様に近い」
「そうなんだ」
ゴローは驚いて自分を見た僕に苦笑を返している。
「私自身は、自分が何者か、よくわかってはいないんだよ。神様は、泉のお山の大神様がいらっしゃるからね」
「そっか。……あやかしも複雑なんだね」
「私みたいなあやかしは、人に妖怪って呼ばれるくらい人の世界に近いから簡単に姿も見せちゃうけど、大神様や壱様はそうはいかないわ。大神様は八百万の一柱を担うお方。壱様は大神様の眷属。私たちとは格が違う」
今僕は、僕の知らない、こんなことでもなければ知る由もない『あやかしの事情』というものを聞かされているらしい。
「そういえば、ニーナやゴローさんの姿は宮司さんたちにも見えていたね」
「そうよ。私たちは見せようと思うから、人にも見える。私は人の世界でフリーライターをしていること、カズキも知ってるでしょ?」
「え、あれ、本当に?」
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ニーナは突然の宣伝を挟んでから、
「でも、壱様は決して姿を見せようとはなさらないわ。結界の中ででもない限り」
と、神妙な顔をして見せた。
突然、音がなくなる空間。
そこで大きくなった白い狐。
「結界。あれって、そういうことだったんだ」
「壱様がご自身の力を存分に振るうための場所。それが結界だな」
山の上で僕を襲った時、狐の力は最大限に発揮されていたのか。
「――じゃあ、僕は本当に壱様に喰われそうになっていたの? でも、どうして」
そこで、僕以外の二人が顔を見合わせたのを感じた。
顔を上げると、二人の真剣な目にぶつかった。
「だから壱様に喰われる前に、あなたを認めさせなくちゃならないの」
「壱様は僕というよりも、このピアスを狙ってる気がするんだ。これにどんな意味があるんだろう。ニーナとゴローさんは知らない?」
「神やあやかしの世話役。『かんづかさ』」
ゴローの、まるで祝詞を詠み上げるような厳かな声に、また僕の背筋が伸びる。
「それって……」
神司とは神に仕えるもの。
それなら僕じゃなくて他に適任がいるはずだ。
例えば、さくらさん――とか。
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