二.狐様と僕

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「宮司さん、時間大丈夫なんですか?」  豆腐の様子を見ながら、宮司さんに尋ねると。 「はい。お祭りの支度はだいたいできましたし。それに、和希さんのお元気な姿も見られたので安心しました」 「泉の水、ちゃんと持って帰れましたか?」  そういえば、のぞき岩から飛び降りてから後のことを、まだ聞いていなかった。 「はい。ゴローさんに手伝っていただいて……」  そこで、宮司さんが何かを言い淀んだ。  どうしたのだろうと、フライパンから目を移すと、 「これは、あの狐さんのための物なんですね」  と言う、至極真面目な顔の彼女がいた。 「――うん」  何と言ったらいいのかわからなくて、ただ頷くしかできない僕をよそに、彼女はフライパンを覗きながら言葉を続ける。 「和希さんが岩の上から飛び降りた時、心臓が止まるかと思いました。まだ追おうとする狐さんをゴローさんが止めて……。それからすぐに、狐さんはどこかに行ってしまいました。私、山を下る間ゴローさんに聞いたんです。和希さんが置かれている状況を」 「……」  油が跳ねる音が、やけに大きく聞こえた。  彼女はゴローから話を聞いて、どう思ったんだろう。  奇妙なことだと、ありえないことだと、そう思って笑っただろうか。 「宮司さんはその――、信じていたりしますか? 神様だとか、あやかしだとか。そういう不思議な存在を」  彼女がなんて答えるか怖くてフライパンに意識を戻した。  そろそろ引き上げてもいい頃だ。ふわふわと良い感じに揚がっている。  僕が菜箸でつかんだ油揚げをトレーに並べるのを、宮司さんはじっと見ている。  その沈黙が怖くて、僕は「今回は成功かもしれない」だの、「旨そう!」だの、殊更明るく言ってみた。 「お宮に仕えていると、神様を感じることはあります」 「……」  咄嗟に口をつぐんだ僕にかまわず、宮司さんは続ける。 「一人で祝詞を上げている時、禊をしている時、神事を執り行っている時は必ずと言っていいほど、目には見えない力を感じる時があるんです。だから和希さんが体験されていることも、私はそうなのだろうと信じることができます。それに、私も狐さんをこの目で見ましたし」  ふふと笑う宮司さんの笑顔が眩しくて、肩からふっと力が抜けたようだった。  信じてくれる人がいる。  それだけで、なんて心強く思えるんだろう。 「和希さんが作った油揚げ料理、 神饌(しんせん)としてお祭りの時にお供えしましょう。そうしたらきっと、狐さんも喜んでくれるはずです」 「え? 大丈夫かな」 「ええ。心のこもったお料理こそ、お供えに相応しいものですもの」  出来上がった油揚げは市販のそれに比べると、まだ油揚げというにはほど遠い、どちらかと言うと厚揚げに近い代物ではあったけれど、煮たり炊いたりすれば何とか食べられる物になりそうだった。  めんつゆで煮込んで、稲荷寿司に。  お吸い物の具に。  それから青菜と一緒に炊いたりして、無事その日のうちに、お品書き通りのお膳を作ることができた。 「ばあちゃんのお膳もこんな感じだったのかな」  まだまだ不安を拭えない僕に頼もしい言葉がかけられる。 「これは和希さんのお膳だと、胸を張ればいいのですよ」 「――そうですね」  あやかしも人も真心をもって接すれば、いつかは心通わすことができると信じて。 『和希。目に見えているものの裏っかわにも、大事なモノが隠れているんだよ』  祖母が何かのついでのように言っていた言葉を、僕はその時ふと思い出していた。    作った稲荷寿司をお土産に持った宮司さんを見送るために庭に出た。 「この木にゴローさんが止まるんですか?」  料理をする間に僕が話したあれこれを、彼女はしっかり覚えてくれている。それだけで心躍る自分がいるのを、僕はもうはっきり自覚していた。 「あ、あれ、ロクさんですか?」  ロクがのっそりと庭を横切って行く。 「夕ご飯、食べに来たな」 「そのうちロクさんにも紹介してくださいね」 「宮司さんも動物好きなんですね」  すると彼女が急に顔を曇らせた。  僕は何か気に障るようなことを言っただろうか。 「あの……」 「は、はい!」 「あの時。お山の上で名前を呼んでくれた時、すごく嬉しかったです。あんな大変な時だったのに、私……」 「え?」 「和希さんがよろしければ、また名前で呼んでほしいなあって」  彼女の頬が染まって見えるのは、秋の夕焼けのせいだけではないはずだ。  二人の距離が少しずつ近づいているって思っていいんだろうか。  僕ははやる気持ちを抑えるのに必死で、「はい」としか返事できないまま、もうとっくに大切な存在になっている人の名前を胸の中に抱きしめた。 
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