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「ニーナ、さくらさんを頼む」
三つの尾を持つニーナがトコトコと気を失っているさくらさんに近づいて行く。僕は壱様とにらみ合いを続けながら、それを目の端で捉えていた。
「壱様。さくらさんは関係ないよ。壱様が嫌いなのは僕だけでしょ?」
大きな狐は僕が話をするのも気に入らないのか、眼光を鋭くして僕の方へ一歩足を踏み出した。
怖い。
怖くて足が震える。
でも――。
「壱様。これは僕の祖母があなたに作っていた油揚げ料理です。祖母のものと全く同じではないとは思うけど。味も違うかもしれないけど。食べてもらえたら嬉しい」
僕はそう言ってから、お膳をそっと床に置いた。
壱様はしばらく僕とお膳とを見比べていた。
興味はあるようだけど、口を付ける気配はない。
「やっぱり僕が作ったものなんて食べられないか」
仕方ない。
さくらさんを連れて、ここを出よう。
そう思い、いまだ気を失ったままのさくらさんの元へ行こうと体を動かした。
その時結界の中の空気が変わるのを感じた。
「え?」
「カズキ!」
ニーナの叫びを聞いた時には、僕は壱様の太い足の下になっていた。
「なんで、こんな……!」
壱様の唸り声を間近に聞きながら、僕は床の上のお膳に手を伸ばした。
「あと、少し」
「和希さん?」
「え。さくらさん、気が付いたの?」
「私、祝詞を詠んでたら急に眠くなって……キャッ」
小さな悲鳴を上げたさくらさんは、怯えた表情で壱様を見ている。
「和希さん、これはいったい」
「さくらさんはニーナの側にいて」
「ニーナさん、どこですか?」
キョロキョロと辺りを見渡しているさくらさんの太ももを、ニーナがちょいちょいと触った。
「――ニーナさん?」
「詳しい説明はあとでね」
さくらさんは大丈夫だ。
問題は僕なんだよなあ。
顔を戻すと、壱様の真っ赤な口がそこにある。
何度こういう形で彼の険しい顔を間近に見ただろう。
「壱様が僕を嫌う理由はわかったよ。ばあちゃんが付けていたピアスを、僕が付けているのが気に入らないんだろう? 僕だって、できることなら外したいよ。でもこうなった以上は、自分の役目を甘んじて受けるしかないとも思っている。壱様、ばあちゃんはもういないんだ」
壱様の唸り声が一瞬途絶えた。
けれどすぐに、グワッと口を開いて僕の顔めがけて襲いかかって来た。
本殿にさくらさんの悲鳴が響くのを耳にしながら、僕は手にしていたものを真っ赤な口に突っ込んだ。
「これ、食べろって!」
直後、ピンと張りつめていた空気がふっと緩むのを感じた。
目の前で、見る間に壱様の体が萎んでいく。
やがて小さな仔狐に戻った壱様の口には、僕が作った稲荷寿司が挟まっていた。
「結界が解かれたわ」
あむあむと嬉しそうに稲荷寿司を食べている壱様の頭を、人間の姿になったニーナが撫でている。
「間に合ってよかった」
ニーナは僕を見て微笑んだ。
僕は稲荷寿司を、壱様の大きく開けられた口に押し込んだんだ。
「念願の稲荷寿司が食べられてよかったですね。壱様」
壱様は食べ終わると、トコトコと小さな足でお膳まで駆け寄って、小皿の上の油揚げ料理をあっという間に平らげた。
それから物足りなさそうに僕を見た。
「美味しかったの?」
僕の作ったものでも気に入ってもらえたんだろうか。
ペロリと舌なめずりする壱様に、またニーナが身を寄せた。
「ふむふむ。旨かったけど、まだお前を認めたわけじゃないって仰ってるわ」
簡単にはいかないなあ。
「僕は別に認めてほしいんじゃない。ただ、理不尽に襲うことはやめてほしいんだ。それだけだよ」
怖い思いは、もうたくさんだ。
好物の油揚げ料理を食べて、幾分気持ちが落ち着いた様子の壱様だったけれど、まだ僕を見る目は厳しい。
いったいどうすれば、わかってもらえるんだろう。
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