三.そして始まる古民家宿

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三.そして始まる古民家宿

 断崖(だんがい)の上に張り出した、のぞき岩。  霊峰の頂上近くにある大きな一枚岩に乗って、僕は眼下に広がる景色を眺めていた。  麓には秋祭りを終えた集落が小さく見えている。  再び山を登ったのは、ゴローに誘われたからだ。  そのゴローは僕の隣にちょこんと座っている。  この日は梟のままだ。 「ちと力を使い過ぎて休んでいた。私はニーナと違って年寄りだ」  そう冗談ともつかないことを言ったけれど、実際疲れてはいたのだろう。秋祭りの時には結局姿を見せなかったから。  秋祭りであった一部始終を話して聞かせると、「ホウホウ」と頷いて。 「壱様は真っ直ぐなお方だからな」  お前、苦労するぞ。  暗にそう言われた気がして、僕は苦笑した。 「むやみに襲われなかったら、それでいいんだよ。それにしても」 「ん?」 「なぜこのピアスが僕の耳に付いたのか。やっぱり、どうしてもわからないんだ。僕より、さくらさんの方が『かんづかさ』としての素質はあるだろうし」 「さあ、それはどうかわからんが。けれどもう、お前の気持ちは決まっているのだろう」  梟の大きな目が僕をじっと見ている。  僕はその視線を真正面から受け止めた。 「君たちが僕を必要としてくれるなら」  音の遠い都会での生活とは違う。  ここではすぐ近くに生き物の声がある。  生きている。そんな単純なことを実感できる。 「ここが好きだよ。ずっと――幼い頃から、ここが好きだった」  そう言うと、ゴローは「ホウ」と鳴いて飛び立った。 「その言葉で十分。それが、耳飾りがお前を選んだ(すべ)て」  そんな言葉を残して飛び去る梟を、僕は姿が見えなくなるまで見送った。  青空の下に見える集落は、これから冬になれば真っ白な雪に覆われる。それから春になって田んぼには水が引かれ、稲の苗が植えられると緑の海ができる。苗が伸び、夏の風が吹くと、緑の海にさざ波が立つんだ。  その光景がいつまでも見られるように、僕は古民家を守らなくちゃならない。 「忙しくなるぞ」  のぞき岩の上に立って伸びをすると、山を吹き下ろす一陣の風に体を持って行かれそうになった。 「落ちるじゃないか」  つい文句が口をついて出たのは、その中に壱様の姿を見たような気がしたからだ。  僕は苦笑をこぼすと、山を下りるためにのぞき岩を離れた。  先日登った時よりも紅葉の進んだお山の景色。  それを一緒に見る人は、今日はいない。  そのことを少し寂しく思いながら山を下る。  登山道の入り口まで戻って来た。  お宮の駐車場に停めた軽トラに乗ってエンジンをかけると、一台のミニバンが林道を上がって来るのが見えた。  見慣れた車に、僕はもう一度エンジンを止める。  ミニバンから降りてきたのは、さくらさんだ。  祭りが終われば、しばらくここには来ない予定なのに。どうしたんだろう。  そう思いながら僕も車を降りた。 「ふふ。お家に行ったら、ニーナさんがここだろうって教えてくれて」  さくらさんは腕に三毛猫を抱いていた。 「ニーナもすっかり気を許してるな」  フリーライターとしてしゃきしゃき動き回る姿は、そこからは想像できない。 「お祭りが無事に終わったから、皆に手料理をご馳走しようと思って戻って来たんです」  さくらさんはそう言って微笑んだ。 「それは楽しみだな。じゃあ、帰りましょうか」  僕の帰る場所は、谷沿いの田んぼの上に立つ古民家だ。  今夜はもふもふたちがいっぱい集まりそうな、そんな予感がしていた。  ***  岡山県北部にある、泉湧く霊峰。  その裾野に広がる深い森と、小さな集落。  人の減少が止まらない限界集落で、人の営みを見守って来たあやかしと小動物たちは、これからもずっと生きていく。  そんなもふもふたちのために古民家宿を再開する永森和希。  少しでも長く、人の営みが続きますように。  少しでも長く、里山の美しい景色が守られますように。  少しでも長く、愛する人たちといられますように。  もふもふたちのささやかな願いを叶えるため。  祖母の残したお品書きを傍らに――。
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