90人が本棚に入れています
本棚に追加
三.そして始まる古民家宿
断崖の上に張り出した、のぞき岩。
霊峰の頂上近くにある大きな一枚岩に乗って、僕は眼下に広がる景色を眺めていた。
麓には秋祭りを終えた集落が小さく見えている。
再び山を登ったのは、ゴローに誘われたからだ。
そのゴローは僕の隣にちょこんと座っている。
この日は梟のままだ。
「ちと力を使い過ぎて休んでいた。私はニーナと違って年寄りだ」
そう冗談ともつかないことを言ったけれど、実際疲れてはいたのだろう。秋祭りの時には結局姿を見せなかったから。
秋祭りであった一部始終を話して聞かせると、「ホウホウ」と頷いて。
「壱様は真っ直ぐなお方だからな」
お前、苦労するぞ。
暗にそう言われた気がして、僕は苦笑した。
「むやみに襲われなかったら、それでいいんだよ。それにしても」
「ん?」
「なぜこのピアスが僕の耳に付いたのか。やっぱり、どうしてもわからないんだ。僕より、さくらさんの方が『かんづかさ』としての素質はあるだろうし」
「さあ、それはどうかわからんが。けれどもう、お前の気持ちは決まっているのだろう」
梟の大きな目が僕をじっと見ている。
僕はその視線を真正面から受け止めた。
「君たちが僕を必要としてくれるなら」
音の遠い都会での生活とは違う。
ここではすぐ近くに生き物の声がある。
生きている。そんな単純なことを実感できる。
「ここが好きだよ。ずっと――幼い頃から、ここが好きだった」
そう言うと、ゴローは「ホウ」と鳴いて飛び立った。
「その言葉で十分。それが、耳飾りがお前を選んだ全て」
そんな言葉を残して飛び去る梟を、僕は姿が見えなくなるまで見送った。
青空の下に見える集落は、これから冬になれば真っ白な雪に覆われる。それから春になって田んぼには水が引かれ、稲の苗が植えられると緑の海ができる。苗が伸び、夏の風が吹くと、緑の海にさざ波が立つんだ。
その光景がいつまでも見られるように、僕は古民家を守らなくちゃならない。
「忙しくなるぞ」
のぞき岩の上に立って伸びをすると、山を吹き下ろす一陣の風に体を持って行かれそうになった。
「落ちるじゃないか」
つい文句が口をついて出たのは、その中に壱様の姿を見たような気がしたからだ。
僕は苦笑をこぼすと、山を下りるためにのぞき岩を離れた。
先日登った時よりも紅葉の進んだお山の景色。
それを一緒に見る人は、今日はいない。
そのことを少し寂しく思いながら山を下る。
登山道の入り口まで戻って来た。
お宮の駐車場に停めた軽トラに乗ってエンジンをかけると、一台のミニバンが林道を上がって来るのが見えた。
見慣れた車に、僕はもう一度エンジンを止める。
ミニバンから降りてきたのは、さくらさんだ。
祭りが終われば、しばらくここには来ない予定なのに。どうしたんだろう。
そう思いながら僕も車を降りた。
「ふふ。お家に行ったら、ニーナさんがここだろうって教えてくれて」
さくらさんは腕に三毛猫を抱いていた。
「ニーナもすっかり気を許してるな」
フリーライターとしてしゃきしゃき動き回る姿は、そこからは想像できない。
「お祭りが無事に終わったから、皆に手料理をご馳走しようと思って戻って来たんです」
さくらさんはそう言って微笑んだ。
「それは楽しみだな。じゃあ、帰りましょうか」
僕の帰る場所は、谷沿いの田んぼの上に立つ古民家だ。
今夜はもふもふたちがいっぱい集まりそうな、そんな予感がしていた。
***
岡山県北部にある、泉湧く霊峰。
その裾野に広がる深い森と、小さな集落。
人の減少が止まらない限界集落で、人の営みを見守って来たあやかしと小動物たちは、これからもずっと生きていく。
そんなもふもふたちのために古民家宿を再開する永森和希。
少しでも長く、人の営みが続きますように。
少しでも長く、里山の美しい景色が守られますように。
少しでも長く、愛する人たちといられますように。
もふもふたちのささやかな願いを叶えるため。
祖母の残したお品書きを傍らに――。
最初のコメントを投稿しよう!