*僕ともふもふと花見弁当

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*僕ともふもふと花見弁当

「ありがとうございました」  深々と頭を下げた僕に、宿泊していた夫婦が帰りの車に乗り込んで笑顔を返してくれた。  その笑顔だけで、満足してもらえたんだなとわかってホッとする。  諸々の手続きを経て再開した、祖母から受け継いだ古民家宿。  調理師免許を取得した後も修行だのなんだので、結局ここまで数年かかり、僕は三十の声を聞く年齢になった。  玄関に再びのれんをかけて数か月は閑古鳥が鳴いていた。  やっぱり無理なんじゃないかと諦めかけた矢先、再開の噂を聞き付けたかつての常連客がぽつぽつ問い合わせをくれるようになり。空気に温かさが戻り始めた最近では、週末は予約で埋まるようになってきた。  それも今は亡き祖母のおかげなのだと思えば、もう一度ここに宿泊しようと思ってもらうにはどうしたらいいだろうと考えを巡らす日々。  悩みは尽きなかった。  夫婦の車が小山の向こうに消えたところで隣に人の気配。 「今回も何とか無難におもてなしできたわね。カズキ」  まだひやひやするけどと言葉を続けたニーナに僕は苦笑を返す。  やっとここまできたものの、まだまだ勉強中の身。社会人の間に貯めていた貯金は残りわずかとなっていて、資金面でも不安がないと言えば嘘になる。  でも――。  今回宿泊した夫婦のように、拙いながらも心を込めた対応に満足してもらえたなら。  やはり古民家宿を受け継いで良かったと思うんだ。  「ばあちゃんのようにできるのは、いつになるかわからないけどね」  客用の布団を庭に干しながらそう言うと、ニーナはふふっと笑った。 「おばあさんのようには何年経ってもできないかも? カズキなりのおもてなしができるようになったらいいわね」 「……そうだね」  提供する食事も、応対も、何もかもがまだ手探りの状態。それでも、ここに泊まって良かったと思ってもらえるように、僕なりにやっていくしかないんだ。    春の日差しの中。  集落を取り囲む山にはまだ針葉樹の緑だけ。落葉樹の芽吹きにはまだもう少しかかるだろう。  そんな山にぽつぽつと山桜が淡い彩を添え始めている。  祖母の古民家宿を引き継ごうと、僕にしては思い切った決断をしてから迎える何度目かの春。  森の動物たちはもう冬の眠りから目覚めただろうか。  それに、あやかしたちは?  このところニーナにしか会っていないけどどうしているのかな――。
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