一.古民家生活の始まり

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 米俵を軽トラに積み込むついでに、おじさんに猫のことを聞いてみた。 「ああ、預かってる。とは言っても、うちではご飯を食べるくらいで、しょっちゅう家に帰っているみたいだがなあ」  やっぱり、帰っているんだ。 「それって、三毛猫でしたっけ」  僕は当然のように言ってみた。けれど、おじさんは首を横に振った。 「いいや。ほれ、あそこ。あれがそうだ」  おじさんの指差した方を見ると、庭の生け垣の向こうから、ちょうど太った茶トラの猫がのっそり歩いて来るところだった。 「あれが、ばあちゃんが飼っていた猫……」  葬式の時はどこかに隠れてしまっていたのか、僕と茶トラは初対面だった。  なら、家の中にいた三毛猫は、どこの猫だ? 「さあ。この辺りは野良猫も、そんなにいないしなあ」  三毛猫のことを聞くと、おじさんもふむと考え込んでしまった。 「特に、家の中で暴れたりっていうのじゃないから構わないんですけね。もしかしたら、僕の見間違えだったかもしれないし。ばあちゃんの猫が元気にしてて安心しました」 「ロク。飯あるぞ」  そう言われた茶トラのロクは、おじさんに「ブニャッ」と応えると、僕に見向きもしないで家の中に入ってしまった。 (うん、僕、そんなに動物に好かれる方でもないからね)  素っ気ないロクに、一抹の寂しさを感じた自分を慰めて、僕は軽トラに乗り込んだ。 「じゃあ、行ってきます」 「よろしくなあ。一人で大変だったら、社務所に、今年の祭り当番がいるだろうから声をかけてみるといい」 「わかりました」  そのあと勢いよく発進させた軽トラはエンストすることもなく、スムーズに集落の中の舗装された道を進んで行った。  目指すは、小山をひとつ越えた先にあるお宮だ。  幽霊が出ると昔から言われている墓場の側を通り、その先の三叉路を右に曲がった。左に曲がると、僕が路線バスに揺られてやって来た国道へと下る道になる。  住宅の側を通って来た道はやがて林道となって、しばらく走ると、植林の向こうに苔むした鳥居が見えてきた。  その鳥居の前の広場が駐車スペースだ。そこに軽トラを停め、運転席から降りると、米俵を下ろす前に鳥居の向こうに目をやった。  お宮に用事がある祖母と一緒に、両親とここに来たのはもう何年も前のことだ。もしかしたら、僕はまだ中学にも上がっていなかったかもしれない。林道脇に植林されている杉の木が、あの頃より背が高くなっている以外は、記憶の中の景色とあまり変わってはいなかった。  鳥居の向こうに延びた参道は長くて、さすがに米俵を一人で担ぐ気にはなれなかった。やはり社務所にいるという、祭り当番の人たちに手伝ってもらった方が良さそうだ。  僕は鳥居の前で一礼すると、参道の端っこを歩いて行った。  夕方近くになって、それまでなかった風が出てきた。僕は肌寒さを感じて、ジャケットの前を掻き合わせた。 (山の季節は進むのがはやいな……)  まだ十月だったけど、そろそろストーブを出した方がいいだろうな。  そんなことを考えている内に、境内の入り口に着いた。両脇には愛嬌のある狛犬がいる。  こじんまりした境内は静寂に包まれていた。人の少ない集落はどこにいても静かではあったけれど、ここにはまた違った静けさがあった。  社務所を覗いてみようと、本殿脇の平屋の建物に足を向けた。  当番というのは何人くらいなんだろうか。  しかし、社務所からは物音ひとつ聞こえてこず、人の気配すら感じられない。窓から覗いて見ても、影ひとつ見当たらなかった。 (ん? お宮を間違えたのかな)  お宮と聞いたら、咄嗟にここのことしか思い浮かばなかったけれど、思い出してみると、国道沿いにももう一つ神社があった気がする。 (でも、ここの氏神さんは、このお宮だろ?)  そのくらいのことは僕でも知っていた。  部屋の中で、すごく静かに作業をしている。なんてこともあるかもしれない。  窓の向こうをもっとよく見ようと目を凝らしていると、窓ガラスに白い物が写り込んだ。 「え?」  と思って振り返ると、拝殿の前の賽銭箱の横に、ちょこんと前足を揃えて座る、白い小さな狐がいた。  ばっちり目が合ってしまった僕たち。 「かわいい……」  思わず声を漏らしてしまった僕に、白い仔狐は冷たい視線を送っている。  つぶらな瞳の手痛い視線攻撃に耐えられず、視線を逸らすと、本殿の陰からもう一匹もふもふが現れた。  さっきの猫だ。  三毛猫だ。  こちらはまるで値踏みでもするかのように、僕をじっと見つめている。 「どうやって、ここに来たの?」  狐はまだ子どものようだ。三毛猫よりも一回り小柄だった。  しばらくの睨み合いの末、三毛猫の方は飽きてしまったのか、てちてちと小さな舌で毛づくろいを始めた。  仔狐は僕を警戒しているのか、睨むのをやめようとしない。  野生なのだから、警戒するのは仕方ないとして。 「僕、けっこう動物好きなんだよ」  ちょっと寂しくなってしまった。  僕がぽつりと零した言葉に反応したのか、仔狐の尖った耳がピクリと動いた。 「用事すませたら帰るからさ、そんなに怖がらないでよ」  そろそろ太陽が山に隠れる時間だ。家に帰ってからもすることはたくさんあった。このまま睨み合いを続けていても仕方ない。  僕は当番の人に頼むのは諦めて、ひとりで米俵を運んで来ることにした。 「じゃあね。君たちも早くおうちに帰りなよ」  二匹に向かってひらひらと手を振ると、僕は参道に足を向けた。 (三往復か。なかなかの重労働だ)  箸より重い物を持ったことがないなんてことはないけれど、どちらかと言うと肉体労働には向いていない僕だ。明日か明後日に来るであろう筋肉痛が怖かった。  僕が境内から参道に出ようとした所で、それまで毛づくろいを続けていた三毛猫が突然大きな声で鳴いた。 「ニャー!」  ひときわ高く。  境内に響き渡る声で。  その瞬間、風の音が止まった。  見上げると、杉の木立はゆらゆらと左右に揺れている。風が止んだわけではないようだ。 「音が聞こえなくなったのか?」  風の音も。  林の向こうから聞こえていた、野鳥のさえずりも。  すべての音が、ぱたりと消えてしまった。  耳鳴りがしそうなほどの静寂の中、音を求めて辺りを見渡していると、不意に視界の端で何かが光った。  そちらに目を移すと、白い仔狐の小さな体が眩しい光に包まれていた。 「な、なに?」  僕は眩しさに目を細め、手をかざした。  光の中心にいる仔狐の体はみるみる大きくなっていき、最後には、三毛猫よりもはるかに大きく、狼のような風貌となった。 「う、うわあ」  情けない声を出してその場にへたり込んだ僕を、白い狐は鋭さの増した目で睨み付け、唸り声を上げている。そして、こちらに向かって一歩足を進めた。 「ニャーオ」  僕が悲鳴を上げる前に、三毛猫が甘ったるい声で鳴いた。  華奢な体を狐の足にこすりつけている。  その甘えるような仕草に、狐の表情がすっと和らいだように見えた。  狐は唸るのをやめると、三毛猫の鼻に自分の鼻先をこすりつけ、ぴょんと拝殿の屋根の上に飛び上がった。  檜皮葺の屋根の上で、狐の体を包んでいた光は見る間に薄くなり、大きな体はしゅるしゅると、風船がしぼむように元の大きさに戻った。 (た、食べられるのかと思った……)  ホッと息をついた僕に、三毛猫が「ニャー」と鳴いた。 「なんて言ってるの?」  猫の言葉がわかればいいのに。  そう思う僕の視線の先で、不思議な仔狐は屋根の上でくるんと一回転。したかと思うと、そのままぱっとかき消えた。 「ええ!?」  何だろう。理解が追い付かない。 「君たち、いったい、何なの?」  すると残された三毛猫は、しっぽをピンと立てて、家で見せた時と同じような優雅な足取りで、僕の目の前までやって来た。 「ンニャー」 「だから、なんて言ってるかわからないよ」  苦笑を漏らす僕の手に、三毛猫はふんふんと鼻先を押し付けてきた。 「ん、どうした」  境内の地面に座り込んだままの僕は、視線の近くなった三毛猫に顔を近付けた。  ちょっとつんけんした感じは受けるけど、細身で可愛らしい猫だ。  まん丸な目はキラキラしていて、とても綺麗だった。  三毛猫は僕の顔の脇に手を伸ばして左の耳に触った。  その時ようやく耳に違和感を覚えて、猫が触った辺りに手をやってみると、耳たぶにぶら下がった何かが指先に触れた。 「ええ!?」  驚く僕にかまわず、三毛猫は伸ばした手でちょいちょいと、その何かで遊んでいる。  僕は力が抜けてしまっているのを無理矢理立ち上がって社務所まで走り、さっきまで中を覗きこんでいた窓に自分の顔を映してみた。 「ピアス……?」  僕ははっきり言って、お洒落にはまったく縁のない男だ。アクセサリーなんて、生まれてこのかた手にしたこともない。  それが、ピアスを嵌めてるって? 「どういうこと?」  ピアスは銀色で、直径が1センチほどのリング状の物だった。 「なんで……」  白い仔狐といい、ピアスといい……。  本当に狐につままれた気分だった。 「君と話せたらいいのに」  振り返って言うと、三毛猫の姿はすでにそこにはなかった。  まただ。  また、あの子は消えてしまった。 「は、はは……」  もう笑うしかない。  僕の許容量は限界だった。  どう言った仕組みかは分からないけど、いつの間にか僕の耳に装着されていた、このピアス。  僕はもう一度窓に向き直り、ピアスに手をかけた。  さっさと外してしまったら、この一連の出来事を忘れてしまえるかもしれない。 「輪っかのピアスなんて、どうやって外すんだ?」  窓に映る自分に戸惑いをぶつけるように、乱暴な口調でぶちまけていると、肩をぽんと叩かれた。 「っ……!」  もう今日は驚かされてばっかりだ。  新たに窓に映った、もう一つの顔。それは僕の背後に浮かんでいた。  びくびくしながら振り向くと、僕よりも頭ひとつ分背の低い、おかっぱ頭の女性が立っていた。 (彼女は、生きている人?)  今までの経緯を踏まえて、僕はつい身構えてしまった。 「何かありましたか?」  生身の人間の発する力強い声に、ほっと胸を撫で下ろす。 「あ、いや……。猫と狐が」 「猫と狐?」  僕のしどろもどろな答えに、女性は小首を傾げたけれど、すぐに笑顔になって。 「ふふ。総代さんから連絡いただいていますよ。和希さんですよね? 私、ここの宮司(ぐうじ)を務めています、九重(ここのえ)さくらと申します。どうぞよろしくお願いしますね」  お宮の宮司だという女性は、そう言って頭を下げた。  彼女の切り揃えられた髪が、丁寧に頭を下げるのに合わせて、さらさら零れ落ちる。それを僕は無意識のうちに、まじまじと見てしまっていた。 「あの……?」  僕があんまり黙ったままだったので、宮司さんを戸惑わせてしまったようだ。 「あ、いや、宮司さんでしたか。こちらこそ、よろしくお願いします。えっと……、総代って?」 「あら、聞いてらっしゃいませんか?」  宮司さんは意外そうな顔をした。 「はあ、聞いてないです」  そもそも何を聞いていないのか、その内容すら思い浮かばない。 「そうですか。また落ち着いてから、お話しされるつもりなのかも知れませんね。ところで、今何をされてたんですか?」  宮司さんは興味ありげに、僕と僕の背後の窓とを見比べている。 「ああ、いやあ。中で何してるのかなって思って……」 「おお、宮司さん、戻って来られたか?」  僕の言葉にかぶさるように、社務所の窓がガラッと開けられた。  振り向くと、壮年の男性が数人、社務所の中からこちらを見ている。 「ええ、ただいま戻りました。みなさんにお任せしてごめんなさい」 「いやいや。さくらさんのためなら、どんなお手伝いでも」  宮司さんと祭り当番のおじさんたちとの関係が、この会話だけでわかるようだった。  そんなことを考えてしまう僕の耳に、木立を揺らす風の音が届いた。  それから、寝床に帰る烏の鳴き声も。 (ああ、音が戻って来た……)  僕はどこか達観した心持ちで、宮司さんと当番のおじさんたちのやり取りを眺めていた。  さて、もうひと仕事。  米俵を運んだら、家に戻って、駅前のコンビニで買った弁当を晩ご飯に食べて。  それから薪をくべて、風呂を沸かすんだ。  
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