一.古民家生活の始まり

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***  悪戦苦闘の末に、ちょうどいい湯加減になった五右衛門風呂。  僕はまだ少し熱い湯舟の壁に触れないように、足元の簀子(すのこ)を沈めながら湯に浸かった。 「疲れたな」  長い一日だった、と思う。  始発の新幹線に乗って、県の北部まで戻って来て、着いたと思ったら、目が回るほどいろいろなことがあっった。  明日からの生活もまだ見えてこないというのに、なんとなく集落の事情に巻き込まれてしまった気もする。  僕は耳にぶら下がったままのピアスを触った。  取ろうとしても取れない、厄介な代物。 (それにこいつ、宮司さんにも、おじさんたちにも見えなかったんだぜ)  僕は湯の中にぶくぶく沈んだ。途端、湯船の底の辺りの、熱い部分に触れてしまって飛び上がった。 「あっつ……!」  底の簀子の位置を直して、もう一度浸かる。 「はあ……」  誰か、この状況を説明してください。  白い狐のことも、ピアスのことも。現実で起こったこととは思えないくらい不思議なできごとだった。  それに祭り当番のおじさんたちは、秋祭りの準備のため、ずっと社務所の中にいたという。  ではなぜ、僕が来たことに気付かなかった? (もう訳がわからないよ)  それから、分家のおじさんだ。  あのあと軽トラを返しに行って訊いてみた。  おじさんは確かに、今年お宮の総代を務める番なのだそうだ。しかし体が思うように動かないので、力仕事は誰かに任せたい。他人に任せるわけにはいかないので、僕に頼んだのだと。そう言って説明した。  今のおじさんの体で力仕事は無理があるというのはよく分かる。  それならそれで、事前に説明してほしかった。と思うのは、僕の子どもっぽさだろうか。 (まあ、手伝えることは手伝うさ)  そうだ。今の僕にはそれしかない。  古民家を守って。  おじさんの手伝いをして。  それから……。  それからあとは何もない。  だから、おじさんたちに言われたことを、「はいはい」とこなしていくしかないんだ。  不思議なことに振り回されることへの戸惑いも、ひとつも誇れることのない自分への苛立ちも。全部胸の中に閉じ込めて、僕はここで淡々とした日々を過ごしていく。  それ以上のことを、僕は僕自身に望みはしないだろう。  浴室の窓から見える満月。  その下で月明かりに浮かぶ霊峰を、僕はぼんやり、のぼせるまで眺めていた。
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