ニ.初めてのお客様

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(梟、まだ鳴いているのか)  僕はそんなことを思いながら、結局見つからないお茶っ葉を諦めて、新しく開けたペットボトルのお茶を湯呑みに注いだ。 「基本的な家事スキルを手に入れないことには、宿の再開なんて考えられないよ」  だから、今の僕には、古民家宿を引き継ぐ意志なんてまったくなかった。  こうやって、毎日掃除をして、食事を考えて、現状を維持するだけで手一杯だ。 (親とかは誰も、そんなこと期待してないだろうけどさ)  僕をよく知る人はそうだろう。束の間、自分たちが煩わしさから解放されたらそれでいい。そのくらいにしか考えていないに違いない。 (それでいいんだ)  誰も、僕に期待してくれないでいい。 「ニーナさん。お茶どうぞ」 「あ、ありがとう」  ニーナは縁側に座って庭を見ていた。手には小さなメモ帳を持っている。 「ペットボトルのお茶なんですけど」 「あら、美味しくていいじゃない。いただきます」  ニーナは丁寧に湯呑みを持って一口啜った。 「ふふ。落ち着くわね」 「梟、まだあの枝にいるんですかね」 「みたいよ。霧が濃いから、巣を見失っちゃったのかしら」  そんなこともあるのかと僕は思った。 「ねえ、カズキくん。ちょっと取材させてもらってもいい?」  ニーナは湯呑みをお盆に返して、もう一度メモ帳を手に取ると、僕の方に向き直った。 「取材って。記事にできるようなエピソードなんてないですよ」 「ええ、そうね。記事にはならないかもしれないけど、私個人的に、君に興味があるのよね」 「興味?」 「君がここに来た経緯はさっき教えてもらったけど、ここに来ることになった時、どう思った?」  ニーナは僕の戸惑いにはかまわず話を進める気のようだ。 「それはですね……」  当たり障りのない質問をしてくるニーナに、僕はそれでも真面目に答えた。 「掃除とか、家の管理とか。とにかく自分のできることを頑張ろうと思ってます」 「若いのに、えらいわね」  年はそう違わないように見えるのに、時々ニーナは子どもに対するような口ぶりになる。ちゃんと仕事を持っている彼女には、僕なんて頼りなく見えるのだろう。 「えらくなんかないですよ」 「えらい、えらい」 「えらくないですって」  会ったばかりの女性にからかわれている。  憮然とする僕に、ニーナはふっと笑顔を見せた。 「本当に偉いと思うわよ。私も何かお手伝いしたくなって来たわ」 「……お手伝いですか?」  彼女の真意を図りかねて、僕は慎重に尋ねた。 「何がいいかしら」  そんな僕にかまわず、ニーナは頬に手を当てて考えている。  その時梟が、ひときわ高く「ホウ!」と鳴いた。  びくっとする僕をよそに、ニーナは、 「ああ、そうね。それがいいわ」  と、庭の方を見て喜んだ。  まるで梟と会話したのかと思うような、そんな一連の流れに唖然としていると、 「おばあさんのお品書きよ」  と言って、ニーナが僕に顔を近付けた。 「お品書き?」 「そう。おばあさんが宿泊客に渡していた『お品書き』を探すのよ」  それを探してどうすると言うのか。 「一から料理を考えるのって、けっこう大変でしょ。でも前例があれば、それに倣って作ることができる」 「……僕、料理できないので」 「できないなら、できるようにするのよ」  それは、できる人の理屈だ、と思う。 「お品書きを見て、食材を集めて、料理を完成させる。最初は失敗するでしょう。それが当たり前だわ。でも、その失敗を踏まえて、次に進めばいいのよ」 「ニーナさんは大人ですね」  僕はちょっとの皮肉を込めて言った。  そう言えるのは、失敗を次に繋げることのできる強さのある人だからだ。  でも、僕は違う。もしそうだったなら、とっくに転職先を見つけているだろう。もしかしたら前の会社を辞めることすらしていないかもしれない。都会の真ん中の、アパートのフローリングに寝転んで、惰眠を貪るなんてこともなかったはずだ。  けれどニーナは、僕の甘ったれた考えを悉く否定した。 「大人とか子どもとか関係ないわ。結局は、カズキの気持ちの持ちようでしょ。あなたがやってみようと思うだけで、あなたを取り囲む世界は動き出すわよ」  そう言われ、僕は答えに詰まった。  確かに彼女の言う通りだ。でもそれを実践することは、簡単なようで難しい。 「あなたができるようになるまで、私も手伝うから」 「……どうして、そこまでしてくれるんですか?」 「これは、いっぱいお世話になったおばあさんへの恩返しでもあるかしら」  ふふっと笑って、ニーナはまた湯呑みを手に取った。 「ペットボトルのお茶でもいい。あなたが私をもてなそうと思って淹れてくれたお茶だもの。美味しくないはずがないわ」  それでいいのよ。  僕の心の中の凍った部分が、ニーナの言葉で少しずつ融けていく。鳴き続ける梟の穏やかな声を聞きながら、僕はそんなことを感じていた。  ***    ごそごそと引き出しの中を漁っているニーナを盗み見ながら、僕は祖母が生きていた頃のことを思った。  古民家宿の主をしている間。祖母はどれだけの人と出会い親しくなったのか。きっと、ニーナのようなリピーターも多くいたに違いない。  この家がその頃の活気を取り戻すことはないと思うけど、でもせめて残された者として、祖母の大切にしていた物は守りたい。その気持ちは本物だった。  お昼は最後のカップみそ汁ですませて、僕たちは、『おばあさんのお品書き』を探していた。 (明日は絶対買い出しに行かないと。霧が晴れるといいけどなあ)  気付けば、梟の鳴き声は聞こえなくなっていた。さすがに寝床に戻ったのだろうか。どうして、あの木の枝に止まって、ずっと鳴いていたのか。こればかりは、梟に聞いてみないことにはわからない。 「ないわねえ」  ニーナが溜め息交じりに呟いた。 「ないですね」  おばあさんが亡くなった時、誰かが捨ててしまっただろうか。そんな考えも過ぎるけれど、母の知る限りではそんなことはなかったという。  まったく。この家に来てから、何回母に電話したことか。 「他に見てない所、あるかな」 「そうですね。蔵とか?」 「ああ、ありそう」  蔵の鍵の在り処は僕も知っていた。  僕は鍵を持ち、ニーナと一緒に、一度庭に出た。  駐車場にしている広場を通って、母屋の隣に建つ納屋を抜ける。その納屋の裏手の、白壁の蔵に向かった。  庭に出たところで、僕とニーナは、霧の中をのっそり歩く一匹の猫を見た。 (ロクだ)  茶トラのロクはこちらに気付く様子もなく、納屋の方へ向かっている。  そこにロクが入るのを確認して、僕はあとを追いかけた。 「カズキ?」  いつの間にか僕のことを呼び捨てにしているニーナにはかまわず納屋に入り、 (あるじ)なき牛小屋を右手に見ながら進むと、物置に入って行くロクを見付けた。 「猫?」 「うん。ここで飼われてた猫なんです」 「もしかして、ロク?」 「ニーナさん、知ってるんですか? ロクのこと」 「うん。宿泊した時に、ちょっと仲良くなったわよ」  物置の扉は、ちょうど猫一匹が通れるくらいの隙間が開いていて、僕とニーナはそこから中を覗いてみた。暗く、物はほとんど置かれていない。古い机と棚がひとつずつあるだけだ。 「ロク?」  呼んでみると頭の上で、小さく「ブニャ」と鳴く声。 「上にいるの?」  ニーナが天井を見上げた。  この物置の屋根裏には、たしか藁をしまっておく藁部屋があった。記憶を頼りに間取りを思い出して言うと、ニーナは「ちょっと待ってて」と言って母屋の方に戻ってしまった。  お手洗いだろうかと思いつつ、天井に開いている四角い穴から下りている梯子の強度を確認していると、ニーナが戻って来た。 「カメラ、取って来たわ」  さすが、フリーのライターだ。どこにいても、ネタは逃さないという気概を感じた。  先にニーナを上がらせてから、僕も梯子を上った。顔が穴から覗いたところで、梯子に足をかけたまま藁部屋を覗いてみると、先に上がったニーナは床に跪いて、しきりにシャッターを押していた。  屋根裏は小窓から差し込む光のおかげで、下の物置よりも明るかった。一畳半ほどの狭い部屋には、藁の代わりに、昔客室で使っていた布団やダンボール箱がしまってあった。 (じいちゃん、ここで藁を打っていたっけ)  大きな木槌で藁打ちをする祖父。  その記憶は、まるでポラロイド写真みたいに、一場面だけ切り取られて僕の中に残っている。そんな記憶がこの家の至るところに散らばっていた。僕はその記憶を一枚拾うたびに、当時のことをおぼろげながら思い出すんだ。 (確か、じいちゃんはいつもあの辺に座っていたな)  そう。それは、今ニーナがカメラを向けている、日溜りの辺り。  その日溜りの中で、ロクが気持ち良さそうに丸まって眠っていた。 「ロク。お前、いつもここで寝ているのか?」  僕が話しかけても、ロクは薄目を開けるだけで、また眠りの中に戻って行く。 「気持ち良さそうねえ」  ニーナはなんだか嬉しそうだ。久々にロクに会えたことを喜んでいるのかな。 「ここも探してみる?」 「うん。僕も今そう思ってたとこです」  段ボールのどれかに目的の物がしまわれていたら、蔵の中まで探さなくてすむ。  ニーナがかたっぱしから段ボールを開けている傍らで、僕はひとつ気になっている物があった。  ロクがベッド代わりにしている菓子箱だ。  しかし、この中を見るためには、ロクにどいてもらわないといけない。  僕には懐いてくれる様子のないロクだ。眠りを邪魔されたと知ったら、いよいよ嫌われてしまうかもしれない。 「ニーナさん、ロク、抱っこできますか?」 「え?」  ニーナはすぐに僕の意図を理解したようだった。 「どれどれ。ロクちゃーん。ちょっとごめんね」  猫撫で声で言って、ニーナはロクを抱き上げた。  抵抗するかと思ったのに、ロクは大人しくニーナに抱かれている。 「じゃ、開けますよ」  菓子箱は、地元の有名な和菓子屋の物だった。薄い桜の模様の描かれた綺麗な箱は、祖母が喜んで、よくいろいろな物をしまうのに使っていた。  中には、トランプのような小さなカードがぎっしり詰まっていた。一枚手に取って見てみると、祖母のものと思わしき筆跡で『お品書き』と書かれていた。 「あった」  まさか本当に、この菓子箱の中に入っていたとは。  お品書きと (したた)めた後に、その日の献立が五つ程度、どのカードにも書かれていた。 「ああ、これよ、これ」  ニーナが懐かしそうに言った。 「私が泊まった時にも、このお品書きが客間の机に置かれていたの。お菓子と一緒に」  それが、祖母のおもてなしだったんだ。 「ロクのベッド、取ってしまったら悪いよね」  手近にあった紙袋にお品書きを移して、ロクを菓子箱の上に戻してやった。 「ばあちゃんの匂いが残っているの?」  僕が声をかけても、ロクは薄目を開けるだけだ。  そんなロクの頭をひと撫でして、僕は母屋に戻ることにした。 「たまには母屋の方にも来たらいいよ。キャットフードくらい、用意しとくからさ」  ロクとはもう少し仲良くなれるといい。  彼は僕に関心のない猫だったけれど、僕はそう思っている。
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