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3 ライバル出現と縮まる距離
ファンクラブ会員第一号として認定されたのならば、それを理由に神澤に近付けると思ったのだが、考えが甘かった。目立つためにクラスがすぐに突き止められたのはいいものの、神澤は基本的に神出鬼没で一ヶ所に留まっていないらしく、大勢とつるむわけでもなく、一人でふらふらっと校内を歩き回る。
聞いたところによると、外見に惹かれて寄ってくる者を振り払うためにわざとナルシストのふりをしていたのだが、いつの間にか本当にナルシストになってしまったとかなんとか。
本当のところは本人に確かめないと分からないが、確かめようにも捕まえられなければ意味がなかった。
「ここもハズレか……」
柔らかな春の陽射しが降り注ぐ昼休みの屋上へ、神澤の目撃情報を得て来たものの、残念ながら目的の人物は見当たらない。溜息をついて引き返そうとした時。
「君、誰か探しているの?」
そんな声と共に陽が陰ったかと思うと、頭上から黒い影がひらりと舞い降りて来た。
「えっ?」
黒い影だと思ったものは人で、それも砂川だった。驚くことに、扉の上にある屋根の上からそのまま飛び降りたらしい。少なくとも2メートルはあり、不可能なわけではないのだが、平然とした顔を見るとやはりαだなと思った。
「おおい、聞いてる?」
目の前でひらひらと手を振られ、はっと我に返って答える。
「あ、はい。神澤先輩を探していて」
「青空?なるほどね……」
何がなるほどなのかは分からないが、このところの定番の質問である「神澤先輩を見ませんでしたか?」を口にしかけて、長い指先で唇に触れられて止まる。
「ただでは教えてあげられないよ」
「えっ何か取るんですか?」
「そうだね。君の体で払って。そしたら教えてあげる」
「は?」
底の見えない笑顔を浮かべ、さらりととんでもない要求を持ち出される。爽やかという印象ががらがらと崩されていく中、断って踵を返そうとしたのだが、その前に砂川は吹き出した。
「冷静で賢そうに見えるのに、結構顔に出るタイプだね。面白いから、名前だけで勘弁してあげる。やっぱりライバルの情報は少しでも多くほしいしね」
「俺、1年の早乙女ノアです。あの、ライバルって……?」
「大事な友人を狙う相手はライバル以外の何者でもないよ。よろしくね、ノア君」
「は、はぁ……」
相変わらず真意の読めない目で、ニコニコと片手を差し出される。文字通りの意味に取ると、砂川もまた神澤を想っているのかと思うのだが、そう単純に取っていいのか悩むほど多分な意味が込められている気がした。
「約束どおり教えてあげるよ。きっと今は部室の姿見で練習をしているところだね」
しっかりと握手を交わした後、砂川はその姿を見てきたようにきっぱりと言う。
「部室、姿見……あっ」
「さすが追っ掛けをやっているだけあるね。次は自力で見つけてごらん。俺はもう手を貸さないから」
「はい、ありがとうござ……」
「礼はいらない。……あの青空にねぇ。なんだか妬けるな」
語尾はよく聞き取れなかったが、そのまま振り返らずに屋上を去り、部室へ急いだ。目指すは神澤が部長を務める演劇部の部室だ。
神澤の追っかけをして学校中を回っていたおかげか、入学してまだ一月も経っていないにも関わらず、大体の教室や部室の場所は把握していた。
そして、先日入手したばかりの情報で神澤が演劇部の部長と知ったのだが、部員ではないのに部室を訪ねるのは気が引けて入れなかった。そろそろ入部届が配布される時期だろうが、部活まで追いかけてしまっていいものかと、ここまで来て躊躇ってしまう気持ちもある。
そういう諸々の理由から、部室を訪ねるのはこれが初めてだ。ステージでよく練習するからかもしれないが、1階の体育館に近い場所に位置し、教室の3分の1ほどの広くはなさそうな部室の前に立ち、一つ深呼吸をする。
いざノックをしかけた時、部室の中から声がした。よく通る声で、すぐに神澤の声だと分かったのだが、どうやら一人で何か言っているようだ。
そっと隙間を開いて中を覗くと、神澤は鏡に向かって立っていた。
「男同士だからとか、家がどうとか、そんなことは私達の障害にはならない。お願いだ、私と一緒に来ると言ってくれ」
痛切な訴えは胸に迫り、独り言ではなく演技の練習をしているのだろうと思われたのだが、息を詰めて見守るうちに鼻の奥が痛くなった。
そのまま数分間見つめて、邪魔をするまいと立ち去りかけた時、練習を終えたらしい神澤が扉に近付いてきた。驚いて咄嗟に逃げようとしたが、間に合わずに扉を開けた神澤とまともにお見合いする形になった。
「あっ」
「ん?君、どこかで見た顔だな。入部希望者?」
やはり入学式で会ったことは忘れられているらしい。落胆しつつ、どう答えるべきか悩んでいると、神澤の腕が伸びてきて部室の中に引っ張り込まれた。
「あのっ?」
「ごめん。びっくりさせたかな。なんでか路頭に迷う捨て犬みたいな顔を見ていたら、そうしなくてはと思って」
そこは捨てられた子犬ではないかと密かにツッコミを入れつつ、じっと神澤を見るのも恥ずかしかったので、部室を見渡した。小道具類を箱に押し込められ、隅の方に置かれている以外は、机が二つ三つと姿見が置かれているくらいで、思ったよりも物が少ない。
姿見に近付き、何気なく見ていると、鏡の中で神澤と目が合って動揺した。一方的には飽きるほど見てきたが、こうして視線が交わるのはまだ慣れない。そのせいか、妙に声が裏返りながら誤っていた。
「す、すみませ……っ」
後退った拍子に姿見に背中をぶつけ、倒しそうになってしまう。そこを、神澤の腕がノアの体を囲い込むようにして鏡を掴み、かろうじて倒さずに済んだ。
「はぁ、セーフ……」
至近距離でほっとした顔をする神澤。その吐息が頬にかかり、呼吸をするのを忘れた。
「あれ、君ってどこかで見た顔だと思ったら……」
まるで抱き込まれるような体勢のまま、神澤は焦点の合わなくなるほどの距離で何かに気付いたように瞬いた。
その意味を察する余裕もなく、ただ暴れ狂う鼓動を感じながら触れ合いそうな近さにある形のいい唇を凝視する。キスをしたい衝動を理性総動員して抑えつけているのを知らない神澤は、ガラス玉のように澄んだ瞳で何事かを尋ねつつも離れる気配がない。
その時、自然と漂ってきていたのは神澤の体臭だろうが、何とも芳しい香りで、Ωのフェロモンとは違うのだが、極上の匂いが性的興奮を刺激した。
「あっ……」
じわりと明らかに反応しかけてしまい、熱を持て余しながら足をもぞもぞと動かす。するとその拍子に兆し始めた股間のものが神澤の足に触れてしまい、思わず高い声が漏れた。
「ひっ……」
「!」
その声でようやく異変に気付いたらしい神澤は、飛び上がるようにして後ろへ下がった。そして、赤らめた顔のまま手で口を覆い、妙に甲高い声で叫んだ。
「き、きき君!その熱をなんとかしたまえ!何を発情しているんだ!不埒なっ」
「し、仕方がないでしょ!好きな人があんな至近距離にいたら誰だってこうなりますよ」
「す、好き!?好きな人!?」
「そうですよ。言ったじゃないですか、大好きですって」
「っ……あ!やっと分かった、君はあの時の!」
ようやく思い出したらしい神澤は、金魚のようにパクパクと口を開閉させた後、恐る恐るといった調子で聞いてきた。
「ち、ちなみに、君はΩなのか?」
それが何の意味を持った質問なのかは分からないが、神澤の深刻そうな顔を見て、釣られるように真剣に返した。
「いいえ、俺はβです」
その途端。神澤の顔色がこれ以上ないほど真っ赤になった。そんなに重大なことを伝えたつもりはないのだが、神澤にとってそれは重要なことらしい。
そして、赤い顔のままモゴモゴと繰り返す。
「お、Ωじゃない。βが俺を好き。βが俺を好き……」
「そうです。βの俺が好きです」
「……っ、ぁああ」
神澤にとって重要らしいその台詞を強調して言うと、彼は顔を覆って呻いた。しばらくそのままだったので、心配になってそれににじり寄って肩をつつくと、飛び上がるようにがばっと顔を上げた。
「先輩、大丈夫ですか?」
蹲っている間に熱が鎮火したのか、赤身は引いているが、尻込みするほど真剣な目を向けられた。
「あ、の……?」
鎮まっていた心音が再び跳ね上がって踊り出す。一見クールに見える神澤のくるくる変わる表情に一層想いが溢れそうになりかけ。
「君の名前、教えてくれないか。それから、演劇部に入るなら歓迎する。君に興味が湧いてきた」
「さ、早乙女、ノアです……」
「そうか、ノア君か。いい名前だな」
くらりと目眩を覚えるほど魅惑的な笑みを向けられ、消え入りそうな声でありがとうございますと言うのがやっとだった。
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