つばさのゆくえ

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つばさのゆくえ

 星のひかりが紺碧の空を彩る、聖夜。  煌めく夜空とは対照的に、闇が落ちた、深い森の中。  ひとりの天使が、静かに木の上に降り立ちました。  彼女の黒い瞳は、今宵、たくさんの人でにぎわう街へと向けられています。  森から少し離れたその街では、夜になってもたくさんの灯りがともされ、子どもも大人も、みんな楽しそうに笑いながら歩いています。  それを見ると、黒い羽をもった天使は、少しだけ頬を緩めるのでした。 「今日は行かないんですかい、堕天使サマ」  声とともにバサリと羽の音がして、コウモリのような羽を広げた悪魔が現れ、天使の隣にやってきました。 「今夜は特別な夜。人間どもは皆、油断していますよ。手っ取り早く狩るなら今夜が一番。ほら、見てくださいよ、あの浮かれた人間どもの顔。あれが恐怖に歪むのを想像したら……ひひっ、たまりませんな」  そう言って、悪魔はにたり、と悪意に満ちた笑みを浮かべました。  しかし天使は、悪魔のほうを見もせず、街に目を向けたまま、 「今夜は、いい」  とぽつりと言いました。 「いい? 何もしないってことですかい?」  悪魔は信じられないという顔をして聞き返しました。 「ああ、今夜だけは」 「愛も優しさも捨てた堕天使サマも、聖夜だけは特別、ってワケですか? せっかく今年一番の見世物が見られそうだったのに。残念ですねえ。まあ、それならそれで、私ひとりで楽しんできますぜ。」 「……そうしたいのなら、勝手にすればいい。今夜私が狩る対象がお前になるだけだ」 「おっと、怖い怖い。堕天使サマを敵に回すなんて、とても出来ませんな。それじゃ、今日はさっさと帰って寝るとしますか」  それだけ言うと、悪魔は翼を広げてあっという間に飛んで行きました。  その羽音が聞こえなくなるまで遠ざかった後、ふいに天使は星空を見上げ、そっと目を閉じました。 「愛も優しさも捨てた堕天使……。そう、私は………」  この黒い羽をもった天使は、かつては天界に住む、真っ白な羽をもった天使でした。  しかしあるとき、とてもつらい出来事に襲われ、天使をやめた天使、『堕天使』になってしまったのです。  その『とてもつらい出来事』を起こしたのは、人間でした。  人間のせいで、彼女は大切な仲間をたくさん失いました。  どうしても人間を許すことができず、憎しみと怒りで二枚の羽は黒く染まり、二度と天界には戻れなくなりました。  地上に降りた彼女は、悪魔と一緒に人間を襲い続けました。  人間が滅びれば、失われた仲間たちもきっと喜ぶだろうと思っていたのです。  けれども、本当はどうなのでしょうか。  幸せそうな街の人々を見ていると、かつて自分が天使だったころのことを思い出します。  天界でも、聖なる夜は仲間と一緒に歌ったり踊ったり、おいしいものを食べたりして皆で楽しく過ごしました。  彼女は、歌はあまり得意ではありませんでしたが、仲間たちと一緒に歌を歌う時間は特別でした。  上手く歌えても歌えなくても、皆いつも笑顔だったからです。  天界で過ごした日々が、ほんとうに幸せだったことに気付いたのは、それが失われた後でした。  でも、もうその幸せは二度と戻ってこない。  どんなに人間を襲っても、もしも地上からすべての人間がいなくなったとしても。  二度と戻ってはこないのです。  だからこそ。  今夜だけは、その幸せな思い出にひたっていたいと思いました。  夜空は、たくさんの星のひかりでまばゆいほどです。  静寂に満ちているはずの空に、急に明るい歌声が響きはじめました。  その声に驚いて彼女が空を見上げると、白い羽をもった天使たちが、歌を歌い楽器を奏でながら通り過ぎるところでした。  天使たちの羽ばたきにあわせて金色の光が舞い、森の中にも光のかけらがはらはらと落ちてきます。  その音楽は、彼女にとっては、とても懐かしいものでした。  けれどゆっくりと聞き入る時間もなく、天使たちはあっというまに遠ざかってしまいます。  まるで夢でも見ていたかのようでした。  あわてて空を見渡しても、彼らがいた気配はどこにも残っていません。  やがて探すのをあきらめると、彼女は歌を口ずさみました。  先ほどの天使たちが歌っていた、あの歌です。  他の天使ほど上手ではありませんが、もしも人間が聞いたなら、きっと『天使の歌声だ』と思ったことでしょう。  歌いながら、彼女は心の中で、あることを決めました。  それは、これから彼女が目指すものであり、願いです。  森の中で歌声が聞こえなくなったころ、黒い羽の天使もまた、気配を残すことなく、どこかへいなくなりました。  彼女のゆくえは、彼女だけが知っています。
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