ベイシア

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 僕はワンルームのマンションの一室で目を覚ました。何か夢を見ていた気がしたが、起き上がるとともにすぐに忘れてしまった。すくい上げた水が指の隙間から漏れてなくなっていくように。今日は土曜の朝で目覚まし時計もかけていなかったが、時計を見ると会社に出勤する日と同じくらいの時間に目を覚ましたことがわかった。洗面所で水道の蛇口を捻って水をしばらく流し続け、お湯に変わってからコップに入れて軽く口を濯いだ。僕は知覚過敏なので、11月の水道水をそのままの温度で口に入れることはとてもできなかった。 「水は一日に2リットルくらい飲んだ方がいいらしいよ」  ふと別れた嫁が言っていた言葉が頭に浮かんだ。僕はもう一度蛇口をひねってコップいっぱいにお湯を入れ、それを一息に飲み干した。  歯ブラシを咥えながら窓の方まで移動して、カーテンを開けた。空は全体的に薄い雲がかかっているが、太陽の光はその雲を抜けて十分に地上に届いており、部屋の中へもしっかりと明るい光が入ってきた。  僕は食パンを1分間トースターで焼き、パンにバターを塗ってからその上に餡子乗せて食べた。その後、別れた嫁が面白いと言っていた本を読んだ。不思議な内容の本だった。最初の章で、本を読むことは死者との対話と同じことで、祈りを捧げていることと同義ということが書かれていた。  その後、本を読むことにも飽きてきたので平日に溜まっていた家事を済ませた。時間が正午近くになったので、外で何か食べようと思って身支度を整えていると電話が鳴った。斎藤からだった。 「おつかれ」  斎藤の挨拶はいつもおつかれだ。休日でも平日でも朝でも昼でも夜でも。 「おつかれ。どうした?」 「今日、暇?」と斎藤は言った。  僕は要件を言わずにまず予定を聞いてくる行為があまり好きではなかった。 「一応これから外出する予定だけど、なんで?」僕は昼からこれといって予定というものはなかったが、とりあえずどちらでも対応できるようにそう答えた。 「暇だったら一緒に捕まえに行かないか?」 「何を?」 「お前ニュース見てないのか?」 「は?」僕は携帯電話を片手にテレビをつけてザッピングした。ニュース番組を流しているチャンネルを見つけたが、芸能人のスキャンダルを流しているだけだった。テレビ画面の左端には強風注意報が流れている。 「ベイシア一匹が逃げたらしいんだよ」と斎藤が言った。 「ベイシアが?そんなことあるのか?」  ベイシアは5年前くらいに初めて見つかった生物だ。 「だから探して捕まえたいと思って。でも一人でベイシアを押さえつけるのはちょっと苦労しそうだろ」 「そんなの国に任せておいたらいいだろ」 「ベイシアを捕まえて個人的にいろいろ確認したいことがあるんだよ。それに、だいたい逃げている場所の目星はついてるから。13時半に海洋公園前駅集合で頼むな」  そう言って、斎藤は電話を切った。正直、ベイシアが一般人に捕まえられるとは思わなかったが、やることもなかった上に久しぶりに斎藤と喋りたいとも思ったので、僕は斎藤に付き合うことにした。 「おう」と斎藤は機嫌良さそうに言った。斎藤は大きなリュックを背負って改札前で待っていた。 「おう。急でびっくりしたよ」 「すまんな。さっそく行こうぜ。俺、多分ここにいるっていう予想がついてるんだよ」 「どこ?」 「決まってんだろ。海だよ」と斎藤はいかにも鼻息荒い感じで言った。 「なんで海?」 「本当はベイシアにも自分の意思があると思うんだ。それに、鎮静剤を打たれてなかったらテレパシーだって出来るらしい。だから宇宙に逃げるために仲間に迎えに来てもらおうとすると思うんだ。それで、ロケットってのは地球の自転を利用して大気圏に出た方が効率がいいから、東側の海で仲間と合流しようとすると思うんだ。そして、ベイシアは地球上で移動するのは得意じゃないはずだから、そうなるともう場所は限られてくるんだよ」 「そんな簡単なものなのか?」 「きっと見つかるから」と言って斎藤は左の口角を上げてにやりと笑った。  駅から東に向かって歩くとすぐに海に着いた。ちょうどそこでは船のイベントがあるらしく、たくさんの人でごった返してた。 「さすがにベイシアもこんなに人が多いところにはいないんじゃないか?」と僕は言った。 「確かにそうかもな。ここから南は結構カフェとかもあって人がいるから、もう少し北に進もうか」  そう言って僕たちは海岸沿いの道路を北に向かって歩いた。 「そういえば俺ら、会うのいつぶりだっけ?」と斎藤が言った。 「半年振りくらいになるんじゃないかな。たしか、僕が嫁と別れる直前に会ったと思うから」 「もう半年も経ったか。あれから元気でやってたか?」 「落ち込んでた時期もあったけど、今はそれなりに元気でやってるよ」 「ならよかった。もう新しいガールフレンドはいるのか?」 「そうゆう感じの人は一応いるよ。でもその子は将来を見据えた関係ではないけど」 「そうか」  遠くの空に掛かった雲が所々途切れて光の線が海に伸びていた。僕は歩いている間に体が温まってきたので、巻いていたマフラーを取って手に持った。こうやって、天気の良い日に海岸沿いを歩くと、それだけでこの世に生まれてよかったという気持ちになる。 「なんで離れたんだっけ?」と斎藤が言った。僕は最初なんのことを聞かれているのかわからなかった。気持ちがどこか遠くの世界に行っていたのかもしれない。そして、思い出した。そうだ、僕は離婚した32歳の男なんだと。 「月並みな言い方だけど、価値観の違いってとこかな。今から思うと、最初から僕と美紀は性格があってなかったんだと思う」 「それでよく結婚したな」 「うん。美人で、仕事もしっかりしてて、話も面白かったからな」 「いいとこばっかりだな」 「それに性格も寛容でこれといって悪いところはなかったと思う」 「そんなによかったのに、価値観の違いだけで別れたのか?」  僕はその言葉には反応しなかった。そして、本当はなんで美紀と別れたのかを思い出そうとした。脳裏にしばらく思い出していなかった嫌な記憶が蘇る。 「美紀と別れてもすぐ次の女性が見つかると思っちゃったのが良くなかったのかも。失ったとしてもすぐまた別のいい子が現れるって。完全に慢心だな」と僕は言った。  斎藤は、そうかと言った。斎藤にはそう言ったが、本当はそんな理由ではなかった。もっと本質的な理由は別にあるのだが、その話をするとあまりにも僕の個人的な部分をさらすことになるから、言うことができなかった。 「斎藤は彼女とうまくやってるのか?」 「ああ。相変わらずだよ」 「結婚は?」 「いつかは結婚するとは思うけど、今はまだかな。あいつ出稼ぎに行ったきりだし」 「そうか、まだ帰ってこないんだな」  斎藤の彼女は熱海のゲストハウスで泊まり込みで働いている。だからといって二人は別れるわけでもなく、結婚するわけでもなく関係が続いているようだ。たしか、もう5年以上付き合っていることになると思う。 「連絡はしてるの?」と僕は聞いた。 「うん。だいたい毎日ラインはしている」 「会ったりはしてる?」 「この間、いったんこっちに帰ってきたときに会ったよ」 「そうか。ちなみにだけどさ、斎藤は浮気とかしてないの」 「してないよ。めんどくさいからね」 「この前、マッチングアプリしてるって言ってなかった?」 「ああ、してるよ。まあでも、あれは友達作りみたいなもんだから」 「いい人はいた?」 「趣味が合う子とマッチングできて、今度一緒に映画を見に行くことになった」 「それはよかったな。写真とかある?」  マッチングアプリの写真を見ると想像していたよりも美人な子だったので驚いた。斎藤の彼女は正直それほど美人なタイプではないので、てっきり斎藤は女性を顔で選ぶタイプではないと思っていた。 「かなり可愛い子だな。うまくいくといいな」と僕は言った。斎藤とマッチングアプリの子との関係がどうなることがうまくいくことなのかはわからなかったが、とりあえずそう言っておいた。 「そういえば、お前の嫁さんかなり可愛かったよなー」と斎藤は言った。 「うん。可愛かったと思う。本当にもったいないことをしたよ」 「バカだよ、お前は」 「でもさあ」僕がそう言ったところで海岸に急に強い風が吹き始めた。僕は風に声をかき消されないように大きな声で言った。「でもさあ!彼女は、美紀は、本当に僕のこと好いていたのかな?」 「え?なに?」  斎藤も風に声が持っていかれないように声を張り上げている。 「なんかさあ、別れることが決まった後に、美紀はすぐに友達と予定していたヨーロッパ旅行に出かけたんだけど、その旅行中ずっと泣いてたらしいんだ。だから、それを美紀から聞いた時はそんなに俺のことを好きだったのかと思ったんだけど、よく聞いてみるとそれは僕のことが好きだったから泣いたんじゃなくて、長く一緒にいた他人との別れの悲しさで泣いたらしいんだ。僕が好きかどうかということは関係ないらしい。現に僕は、正式に離婚届を書く前に、思い直して美紀にやり直そうと言ったんだけど、それはもうできないって断られたんだ。もう十分に悲しんで気持ちを整理したから、もうあなたのことは好きとは思えないって言われたんだ。結婚していた時は、僕のことを好きだったのかと聞いたら、情熱的な気持ちではないが、穏やかに好きだったと思うと言われた。でも、もうやっていけないと言われたんだ。僕は美紀のことをだんだんと家政婦のように扱うようになっていたし、そのことで彼女を深く傷つけたことが離婚の原因になってるということは分かるんだけど、そんな扱いをしたのは、彼女からの愛情を感じることができていなかったからなんだ」  さっきから海岸には強い風が吹いているので、斎藤は僕が言ったことを断片的にしか聞き取れていないだろうと思った。それでも、いや、だからこそ僕は話を続けた。 「美紀は、なぜかはわからないんだけど、たまに僕のことを根っこから傷つけようとすることを言ってくるんだ。それがどんなことかは言えないけど、美紀はそういうことを言う人だったんだ。例えば、美紀は自分の母親から恋愛のアドバイスを受けた時に、母親に対して『そのアドバイスを聞いても、お母さんはそうした結果離婚してるんだから、そんな人の言うことは聞きたくない』って言ったみたいなんだ。絶対に言って欲しくないことってそれぞれあると思うんだけど、その部分を平常心で突いてくる子だったんだ。だから、僕はそんなところが本当に嫌だったというか、そういうことを言われるたびに寂しい気持ちになったんだ。寂しい気持ちになったのは、こんなに自分が好きでいるのに、この子は僕のことを簡単に傷つけてもいいくらいにしか大事に思っていないと感じたからなんだと思う。だから、その分彼女から奉仕されることで、愛情を感じたかったんだ。だから美紀を召使いのように扱って、あれもこれもやってくれと要求してしまって、それで遂には嫌われちゃったんだよ」  斎藤は、強い風で浮かび上がった砂や塵が目に入らないように目を細めていた。そして、僕が歩く少し先の空間に目を向けたり、たまに頷いたりしていた。僕が喋っていることがどこまで聞き取れているかはわからなかったが、おそらくは半分も聞き取れていないことだろうと思った。僕は話を続けた。 「美紀が最初に家政婦のような扱いのことを僕に指摘してきたとき、運が悪いことに僕はとても機嫌が悪かったんだ。ちょうど仕事で理不尽で嫌なことがあって、帰ってからもまだ気持ちが収まっていなかったんだ。そして、その時僕は美紀と強く別れたいと思ってたんだ。だから、美紀の言っていることは正しいと思ったけど、それに僕が逆ギレしたらこの関係を終わらせることができるかもしれないと思ったんだ」  斎藤は黙っていた。僕は話を続けた。 「その結果が今の通りだよ。思い通り僕は美紀と別れることができたんだ。少し後悔はしたけど、今ではそのときの自分の判断が正しかったと思っている。当時の僕は美紀と別れたいとはっきり思っていたし、周りの友人や同僚にも嫁の悪口をよく言っていたからね。どうしても美紀のことが嫌になったんだ」  僕がそこまで喋ると強い風が急に止んであたりが静かになった。斎藤はほとんど聞き取れていなかったはずだが、何かを感じ取ったのか神妙な顔つきをして遠くを見つめていた。僕は自分が少し泣きそうな顔になっていることに気づいた。強風の中、僕は何を期待してこんなことを話したのだろうか。 「あれ見ろ」斎藤は唐突にはっきりとした声でそう言った。「あれ、ベイシアじゃないか?」斎藤は海の方を指さしてそう言った。  そちらを見ると、大きな布をかぶった物体が浜辺をゆっくりと北に進んでいた。時々布が捲くれ上がった時に見える細い三本足が間違いなくテレビで見たベイシアのものだった。 「行くぞ」斎藤は息を殺してそう言った。斎藤はリュックからロープを出して手に持った。僕たちは身を屈めながら海岸沿いの道路から砂浜に降り、気づかれないように後ろからベイシアに近づいた。ベイシアはまだ僕たちの存在に気づいていない。
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