3人が本棚に入れています
本棚に追加
幸せな時間
ナズナがムスカリを犯すことはなかった。
当たり前だろう。
自分を唯一認識してくれる存在に害をなすことなど、ナズナにはできなかった。
このまま死んでもいいとさえ思っていた。
「奴隷の刻限」は、もはや、ナズナにとってなんの枷にもならなかった。
ムスカリには、いくつかのことを黙ったまま、本当のことを話した。
半端な嘘を言っても、ムスカリにはバレてしまう。
目が見えない代わりに、ムスカリは耳やそのほかの感覚が鋭く、特に、人の嘘にはとても敏感だった。
貴族社会には、嘘が多いせいかもしれないと、ナズナは思った。
ナズナが話したのは、自身が透明人間で、他人には見ることができないこと。
外から来ていて、色々な場所を渡り歩いていること。
透明人間なのを利用して、道中は他人の家で食べ物などを拝借していること。
この3つである。
どれも、嘘ではない。
ナズナは、透明人間だ。任務で、色々な場所を渡り歩いている。そして、その道中の食料などは、現地調達が基本だ。
「触ってみてもいい?」
ムスカリの言葉に、ナズナが右手を差し出した。
その気配を感じ取り、ムスカリが両手でナズナの手に触れた。
その温かさに、ナズナはびくりと体を震わせた。
家事などしたことなどないだろう、やわらかで小さな指が、ナズナの親指の先から手のひらから順繰りに撫でていった。
「本当に、人間なんだね」
そう言って、ムスカリが、手を離した。
ムスカリの暖かさが消えた右手は、そこだけ、祭りの後のような寂しさがあった。
ナズナは、残念だと素直に思った。
16年の人生の中で、母親以外とこういったコミュニケーションを取ることはなかった。
ムスカリは14歳にしては聡い少女だった。
ナズナの素性など、とうにバレているのではないかと言う予感はあった。
けれど、それにムスカリが触れないというなら、ナズナにとっては、非常に都合が良かった。
ナズナは、旅人であるかのように、ムスカリに話をした。
海の話をした。
砂漠の話をした。
草原の話をした。
街の話をした。
ドラゴンの話をした。
英雄の話をした。
いずれも、ナズナ諜報の際に立ち寄った町々で集めた情報だった。
勿論、裏の情報は一切漏らさない。
漏らしてしまえば、ムスカリに危険が及ぶ。
それだけは、絶対に避けなければならなかった。
夜にムスカリの部屋に行き、せがまれるままに色々な話をする。
そして、昼間は諜報活動を続けていた。
屋敷の情報で、ムスカリの役になるものがないか、探すためである。
同時に、ナズナには、少しだけ欲が生まれていた。
生きていたいという欲だ。
生きていれば、まだ、少しだけムスカリと一緒にいることができる。
だから、ムスカリに危害が及ばない範囲で、依頼人が納得する。
そんな都合のいいスキャンダルがないか。とナズナは屋敷を歩き回った。
堂々と屋敷の中を歩くナズナに気付く人間は、ムスカリ以外誰もいなかった。
そして、ナズナにとってそれは、この上ない喜びだった。
最初のコメントを投稿しよう!