幸せな時間

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幸せな時間

ナズナがムスカリを犯すことはなかった。 当たり前だろう。 自分を唯一認識してくれる存在に害をなすことなど、ナズナにはできなかった。 このまま死んでもいいとさえ思っていた。 「奴隷の刻限」は、もはや、ナズナにとってなんの枷にもならなかった。 ムスカリには、いくつかのことを黙ったまま、本当のことを話した。 半端な嘘を言っても、ムスカリにはバレてしまう。 目が見えない代わりに、ムスカリは耳やそのほかの感覚が鋭く、特に、人の嘘にはとても敏感だった。 貴族社会には、嘘が多いせいかもしれないと、ナズナは思った。 ナズナが話したのは、自身が透明人間で、他人には見ることができないこと。 外から来ていて、色々な場所を渡り歩いていること。 透明人間なのを利用して、道中は他人の家で食べ物などを拝借していること。 この3つである。 どれも、嘘ではない。 ナズナは、透明人間だ。任務で、色々な場所を渡り歩いている。そして、その道中の食料などは、現地調達が基本だ。 「触ってみてもいい?」 ムスカリの言葉に、ナズナが右手を差し出した。 その気配を感じ取り、ムスカリが両手でナズナの手に触れた。 その温かさに、ナズナはびくりと体を震わせた。 家事などしたことなどないだろう、やわらかで小さな指が、ナズナの親指の先から手のひらから順繰りに撫でていった。 「本当に、人間なんだね」 そう言って、ムスカリが、手を離した。 ムスカリの暖かさが消えた右手は、そこだけ、祭りの後のような寂しさがあった。 ナズナは、残念だと素直に思った。 16年の人生の中で、母親以外とこういったコミュニケーションを取ることはなかった。 ムスカリは14歳にしては聡い少女だった。 ナズナの素性など、とうにバレているのではないかと言う予感はあった。 けれど、それにムスカリが触れないというなら、ナズナにとっては、非常に都合が良かった。 ナズナは、旅人であるかのように、ムスカリに話をした。 海の話をした。 砂漠の話をした。 草原の話をした。 街の話をした。 ドラゴンの話をした。 英雄の話をした。 いずれも、ナズナ諜報の際に立ち寄った町々で集めた情報だった。 勿論、裏の情報は一切漏らさない。 漏らしてしまえば、ムスカリに危険が及ぶ。 それだけは、絶対に避けなければならなかった。 夜にムスカリの部屋に行き、せがまれるままに色々な話をする。 そして、昼間は諜報活動を続けていた。 屋敷の情報で、ムスカリの役になるものがないか、探すためである。 同時に、ナズナには、少しだけ欲が生まれていた。 生きていたいという欲だ。 生きていれば、まだ、少しだけムスカリと一緒にいることができる。 だから、ムスカリに危害が及ばない範囲で、依頼人が納得する。 そんな都合のいいスキャンダルがないか。とナズナは屋敷を歩き回った。 堂々と屋敷の中を歩くナズナに気付く人間は、ムスカリ以外誰もいなかった。 そして、ナズナにとってそれは、この上ない喜びだった。
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