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朝、目を覚ますとそこは白銀の世界だった。
「おおーっ、ずいぶん積もったねぇ」
「おはよう、ねぼすけ。今しがた散り終わったところだよ」
歯ブラシ片手に、友人と並んでデッキに佇む。
海面に化粧を施したのは、雪ではない。
打ち寄せる波に洗われ、弄ばれているのは、浜の真砂ほどもある桜の花弁だ──もっとも浜なんて、私達は生まれてこのかた見たこともないんだけど。
「しっかし、こう積もっちゃうとなんだかありがたみが感じられないね」
「桜は散り際が一番美しいって言うもんね」
「見なよ、鳥も困ってる」
目測ができないでいるのだろう。たくさんのカモメ達が、眼下にいるはずの魚の群れを襲いあぐねて虚しく旋回していた。
ユーモラスな眺めではあるけれど、私はあんまり笑えなかった。ほんの少しいたたまれないような、あるいは鳥達に申し訳ないような気分。なんといってもこんな光景を招いたのは、私達人間なのだから。
「花さそふ 嵐の庭の雪ならで ふりゆくものは我が身なりけり」
後ろめたさを覚える私をよそに、友人が呟くように詠う。
「なんだい、そりゃ」
「百人一首のひとつだよ。去年習っただろ」
「さぁねぇ、忘れちゃったな。どんな意味だっけ」
「えーと、嵐が吹き荒れる庭で、桜の花が雪みたいに降っていて……」
「あっほら、ぶつかりそう」
「聞きなさいよ」
私達の行手に屹立しているのは、黒々とした、ふしくれだった幹。
桜の古木は海のそこここから、そのグロテスクに曲がりくねった枝葉を天高く伸ばしている──その根元がどうなっているのか、私達は誰も知らない。
ただ一つはっきりしているのは、この下にはたくさんの屍体が沈んでいるということ。
文字通り、数多の犠牲の上に私達は生かされているのだ。
ポン、と友人が手を打って、私は物思いから覚めた。
「なんだい」
「いいこと思いついちゃった。あの桜の実で、ジャム作るなんてどうかな」
「おっ、いいねぇ」
「初夏の楽しみが、一つ増えちゃった」
「でも毛虫もいっぱい出るんじゃないかな」
「げーっ、それは嫌だな」
どうやら船は、無事に迂回できたらしい。
こんなたわいもない話をしながら、私達は悲喜こもごもの日々を、この船上で送っている。
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