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「そのバッジ、もしかして……」
この言葉が言えたら、もしかしたら楽しい出来事が待っているかもしれないのに!
☆☆☆
彼女が入社してきたのは、一年前のこと。
「五月雨雪子です。よろしくお願いします」
寝ぼけている頭はなかなか回転していなかったが、綺麗な名前--……とはぼんやり思っていた。昨夜は掛け持ちしているソーシャルゲームの新イベントが配信され、寝るのが遅くなってしまった。もうそんなに若くないから夜更かしはやめようと決めたのに。
彼女は私の前の席に座った。よろしくね、と声を掛けると、よろしくお願いします、と先程と同じキチッとした返し。乱れていない服装に髪型。見た目も中身も真面目な雰囲気だ。
今日の業務を脳内で思い出しながらメールを開く。前では五月雨さんが私の一個上の先輩から業務の手ほどきを受けている。
彼女はカバンから筆箱とメモ用紙を取りだした。茶色の布で作られたシンプルな筆箱……のリボンのバッジに目を奪われた。
青い布地にピンクのラインが入ったリボンに、赤と緑の星型のビーズがついた小さなリボンのバッジ。間違いない。あれは……
私の……推しCPのモチーフ……!!
私、卯月華(26歳)は腐女子である。腐女子歴は10年。腐女子とは男性同士の恋愛を取り扱った作品を好む人類のことである。
昔から好きなカップリング……恋人同士と思ってくれ……略してCP(カプ)の傾向は「可愛い子×クールなお兄さん」。昔は逆を好む子が多かったので少数派……マイナー街道まっしぐらだった。腐女子はここ最近で世間にも認知されてはいるが、それでもまだまだ声を大きくして言える趣味嗜好ではないと思う。逆にもっと肩身が狭くなったような気もする。だが、ルールを守れば問題はないと思っている。例えば版権作品を元に創作をする”二次創作”は、当たり前だが原作元に迷惑をかけない、とか。
だが……そんな私の現在の二次創作の推しCPは「女の子を男キャラにしたBL」である。作者(公式)がおまけでその子たち男キャラにしたイラストや話を描いたので、これは公式であると胸を張りたい。……が、特殊というかニッチというか。やはり傾向が傾向なので活動等はこっそりしている。
よく「卯月ちゃんは可愛いからキモいオタクなわけないじゃん」とはやし立てられるが、これはなるべく他の人と変わりないように服装や髪型などを流行に近づけているのだ。ましてや彼氏なんかいたことない。それにあまり服装やメイクに無頓着だと、年が離れた姉(オタクではない)がうるさいのだ。だが魂はあくまで漫画やアニメが大好きなオタクである。本当は推しと同じ髪型にしたいのだが、世間の目があまりにも厳しすぎる。コスプレしようにも背が解釈違いだ。
今までマイナー街道茨道まっしぐらだったので、リアルでもSNSでも友達はほとんどいなかった。唯一の趣味として絵は描けるが、個人で発行出来る本……同人誌を作れるほどの技量はない。今日も今日とてSNSに語りと妄想と言う名のパッションをぶつけるのみだった。
そんな私だから、初めて出会った推しCPの同士は運命でしかないのだ。だがしかし、本当に同士なのだろうか??
彼女の筆箱についていたバッジは間違いなく推しのモチーフである。青にピンクのラインが入ったリボンは明らかにピンクのツインテールに青いリボンをつけたあざといけど芯の強い彼女のものだし、赤と緑の星型のビーズは赤いポニーテールに緑の星のアクセサリーをつけた背が高くてクールだけど可愛いものが好きな彼女のモチーフに間違いないのである。公式でアクセサリー系のグッズはまだ出ていないはずだから、恐らく自分が作ったのだろう。すごいなあ。ちなみに推しCPは男になるとあざとさの中に男らしさがある可愛い子と、細マッチョのクールなお兄さんになるから最高である。何故、みんなこの魅力に気付かないのだろう……。
「そのバッジ、もしかして……」
この言葉が言えたら、もしかしたら楽しい出来事が待っているかもしれないのに!
言いたい。けど言えない。
もしかしたら二人が純粋に好きなのかもしれない。
もしかしたら女性である二人の組み合わせが好きかもしれない。
もしかしたら彼女自身のオリジナルアクセサリーかもしれない。
そう思うとなかなか言えない。それに、前の職場でオタクだからと色々お話していた人たちから、「卯月さんと話してたせいでオタクのレッテルを貼られた」って迷惑をかけていたみたいなので言い出せない……(これを私に伝えてきた同期の意地が悪いというのもある)。
でも、でも私はオタクの友達が……欲しい!
そんな悶々とした想いを抱きながらなんと一年。席は前後ろなのに業務以外のことは話さないし、気がついたら彼女は上の世代の方とご飯を食べるようになっていたのでますます話せなくなってしまった。彼女が築いたコミュニティを崩したくない。
そして、その日はやってきた。
「えっ。五月雨さん仕事やめるの?」
社食で肉うどんを啜っていたら五月雨さん関連の話が聞こえてきたので、妄想を中断して思わず耳を傾ける。聞こえるんだからしょうがない。
「はい。彼と二人で地元に帰ることになって」
な、なんだと……彼氏さんがいたんですね……。羨ましいが、現実に戻る。五月雨さんが、いなくなる……?
「せっかく仕事覚えてきたのにねー」
「すみません。皆さんにご迷惑をおかけして……」
「まあ、向こうのご両親の都合ならしょうがないよね」
他の会話は耳をすり抜けていく。どうしよう、このままじゃチャンスを逃してしまうかもしれない!!
うちの会社は退職する三ヶ月前には申請しないといけないから、すぐにさよならではないはずだ。
ということは、まだ時間がある。でも、いつ話し掛けよう? どうやって? 作戦を練りながら仕事とゲームのイベントに追われていたら、数週間経ってしまった。上司から五月雨さんの退職が正式に発表され、カウントダウンが近付いてゆく。
今日も話せなかった……。退勤後、うなだれながら車に乗ろうとすると、目の前には五月雨さんがバス停に向かう姿が。あれ、確か彼女も車通勤だった気がする。修理にでも出しているのだろうか。私の足はあれこれ考えるよりも先に、バス停に向かっていた。
私が走ってきたのに驚いたのか、五月雨さんが今まで見たことない驚いた表情を見せた。
「卯月さん?! どうしたんですか?」
「あ、あの、さみだれ、さん」
「はいはい、落ち着いてください」
車通勤で運動不足の社会人がいきなり走るのは身体にめちゃくちゃ堪える……身を持って知った私の背中を、五月雨さんは優しくさすってくれた。
「く……車は?」
何故か車のことを先に聞いてしまった。
「今日の朝、エンストしちゃって修理に出してるんです」
「そ、そう。直ると、いいね」
やばい。五月雨さんが「え? わざわざそれを聞きに?」って顔してる。
「あ、あのね。私ね」
「はい」
話し出したと同時に、向こうからバスがやってきた。
「あ、私あれに乗らなきゃ……」
「ずっと、五月雨さんとお話がしたかったの!」
カバンの中のクリアファイルから、前持って書いておいた小さな封筒を取り出す。中のメモ用紙には私の連絡先が書いてある。
「気が向いたら返事して! じゃ!!」
それだけを彼女に押し付けて、私はバスが着く前に走り去っていった。
その夜、彼女から連絡が来て同士だということが判明したが、彼女は攻めと受けが逆のCPが好きということが判明してしまった。逆がダメな人はここで戦争が勃発するが、私も彼女も他人の嗜好には口出ししないタイプなので、戦争は勃発しなかった。でも、直接聞かなくてよかった……かもしれない。
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