a la vie prochane

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a la vie prochane

   a la vie prochane  こんな素敵な日に いつかまた会おう  言おうとして言えない言葉。凍る息の中、ただ黙って。  黙ることが哀しみだけ深める。  瞳がなにか言おうとしてる、こんな日。 「地球の雪は奇麗だな」 「うん」  吹き寄せる風が頬を凍らせていく。  見上げると、後から後からわいてでてくるように、雪が落ちてくる。手のひらを伸ばすと白く降り積もる。 「指輪、無駄になっちゃったのかなー」 「なぜそう思う」 「えー? だって、あたし達これから別々の星とこに行くんだよ? 持ってても仕方がないかなー、なんて宏樹は思わないの?」 「お前は思うのか?」 「……」  綾香は空を見上げてぽつりとひと言。 「思わないよ。別々の星とこに行くからこそ、って言いたいんでしょ、宏樹は? なんかすんごいセンチなのね」 「たまにはいいだろう」 「たまには、か」  おそらく、これが最後。  綾香は空を見上げた。手袋をしていなければ、指輪のせいで凍傷になっていたかもしれない。 「ねぇ、こうやって手を伸ばしててさ、そこに降り積もるものってなんだろうね」 「……お前はなんだと思う」  宏樹は相変わらず質問をそのまま返すクセが抜けない。 「……わからない」  綾香は再び空を見上げた。  雪が降る すべて白くして  ふと振り返る。 「あーあ、足跡、消えちゃったよ。ところであたし達、なんでこんなとこに突っ立ってるワケ?」 「別に……祝賀会の帰りだろう?」  相変わらずの無表情は、それさえなんだか可笑しい。 「だからそういうんじゃなくて。帰るホテルが無いわけでもないのに、なんでこんな寒いとこにいるのかな、って話」 「……お前にはわかるのか」 「わからない」  ふふん? と鼻で笑って宏樹を見ると自分と同じような表情をしているのがなんだか滑稽で笑えた。  行き先さえ、白くて見失いそうになる。 「大規模なテラ・フォーミング・プロジェクト。複数の星を一気に人の住める惑星にする、画期的なプロジェクト……か」 「……」 「みんな、なにがそこまで嬉しいんだろうね。あたし達はそれを理由に、別れなくちゃならないのにな。そういや宏樹、さっきもらった花束、どうしたの?」  綾香が持っている、祝賀会で渡された大きな花束はまるでそこだけ色があって、黒白フィルムのようなモノクロの今の世界から浮いている。なのに花は、花というだけで主張するなにか、がある。それもまったく無視して、綾香は花束をぶん、と振ってみた。 「受付の女の子が欲しそうにしていたから、やった」 「なによそれ? その子、宏樹が好きだったとか、そういうの?」 「知らん。俺に話しかけようとしていたから、これが欲しいのかと思っただけだ」 「……ふーん、鈍感。あたしも誰かにあげたかったな。だって、邪魔じゃない? いまさら決定的に別れの花束もらっても、どうしようもないのにね」  湖を渡って来た風は凍るように冷たい。 「増えすぎた人口。コロニー建設の限界。資源採掘の重要性。大地の確かさ」  いきなりボソリ、と宏樹が口にする。 「なに?」 「一斉テラ・フォーミング・プロジェクトの動機だ」 「そんなのわかってるよ。あたしが言ってるのはそういうコトじゃないって」 「わかっている」  今度は綾香が一瞬黙る番。 「……宏樹って、相変わらずなのね」  一歩歩き出して宏樹を振り返る。 「寒いから、宿、帰ろ?」  風に吹き上げられた重い雪が肩に降り積もり、じんわり溶けながらしみを作っていき、風はそのまま足下から身体を巻くように冷やしていく。  夜の風は、それだけで冷たく感じる。  宿は、支局側が取ったものなので、シングルが基本だ。セキュリティ万全というのが売りの最新型の、でも建物自体は昔のものを使った、一見古風なホテル。ドアをくぐるとそこは暑いほどに温かくて、外とは別世界。振り払った雪が見るまに溶けていく。フロントマンはこんな時間に誰が……と目をやってから、その制服を見て居住まいを正す。宏樹と綾香は若いながらも今回の一斉テラ・フォーミング・プロジェクトの主要人物としてその能力を高く評価・報道されている。最年少コンビとして有名になった彼らだったが、結果として、別々の星に行かざるを得なくなってしまったコンビでもあるのだ。プロジェクト全般からしてみればそれはささいなことなのだが、ふたりにとっては大きな問題だった。これまでふたりでお互いを目標にして抜きつ抜かれつしながらやって来た結果が、別れなのだから。天才という称号が、この時ほど肩に重くのしかかったことはない。普段はそんな言葉、気にも留めていなかったのに。 「ガラスの荒地をはだしで歩いてるみたい」  ぽつり。絨毯は柔らかで、暖房も効いている。それでも、そんな気分を隠しきれないでいた。特にここ数日、気持ちに踏ん切りをつけようと何度も気合いを入れ直してきた。それでも、なんともならない。眠っても、眠っても、消えない面影。特に、今は目が覚めれば目の前に彼がいるのだから。隣同士の部屋を取られてはいるけど、結局は宏樹の部屋に綾香が押しかけてそのまま朝まで一緒にいる。  ……あと何日、一緒にいられるだろう。  そんなことをどちらともなく考えて。  ……いつか時が経てば忘れられる……だろうか。  そんなことも考えて。  大学の研究室でも異質だった。でも、お互いがいたからこそやってこれた。辛辣ないやみと嫌がらせ、ねたみからくる暴言の数々、四面楚歌の日々。研究所に入ってそれは無くなったものの、やはりふたりは若さゆえに浮いていた。若いから、というだけで信用してもらえないことも昔はあった。唇を噛む日々、お互いがいたから耐えられた。でもこれから先、お互いはそばにいない。人形が無ければ眠れない歳でもあるまいに、とは思うものの、これから先の孤独を思うとやりきれない。独りはやはり、つらい。 「ねぇ宏樹、サーカロイドって、知ってる?」 「あ? あぁ、あれだろ。バイオロイドの、話し相手」 「そう言い切っちゃうとおしまいなんだけどな。なんでも、カスタマイズ処理したやつは助手として登録、連れ歩けるんだって」 「……それがどうかしたのか」 「えー? あたしも一体作って、助手にしようかな、なんてことを一瞬考えたわけよ。やっぱ作業は助手がいるのといないのとでは効率が全然違うでしょ?」 「人形か」 「カスタム製作で好きな形に出来るって話だし」 「お前が人形に興味があるとは知らなかったな。ベビーシッターなどにはいいと聞いているが」 「でしょ? 一応役には立つのよ」 「助手に出来るほどの情報をインプリンティングできるのか?」 「って話らしいよ。カスタムだからさ。汎用品じゃ無理だろうけど」 「曖昧な話だな」 「んー。でもさ、興味わかない? どんなだろうね。かわいい女の子型でもいいかな、とか思ったりしない?」 「しない」  あまりにもきっぱりと宏樹が言い切ったのを見て、綾香はおや、と眉をあげた。 「じゃあ宏樹だったらどんな型をつくるの?」 「お前はどうなんだ」  にらみ返すような言葉。 「あたしは……そーだなぁ、宏樹そっくりのやつとか、面白そう」 といいかけて宏樹と目が合い、慌てて訂正を入れようとする。 「ジョークよジョーク」 「俺ならお前そっくりの奴を作る。お前の言葉は冗談なのか?」  相変わらずくそ真面目な表情。 「へ?」  言われた言葉が信じられない、といった表情で綾香は宏樹をまじまじと見つめた。 「聞こえなかったのか。俺はお前そっくりのを作ると言った」 「聞こえた……けど、本気?」 「それ以外になにかあるのか」  至極当然、といった風情ではっきり肯定されてしまうと、話を振ったほうが思わず照れてしまう。 「あ、いや、その、あたしも宏樹そっくりのやつ作ると思う……けど」 「けど、なんだ」 「そこまではっきり言われるとは思ってなかったんで……その、照れちゃった。ははは」  綾香は珍しく本音をぽろりとこぼすと、 「だったらさ、データ取り」  そう言って照れ隠しなのか、宏樹の顔を潰すかのようにおもむろに両手で触りはじめた。 「あごのラインでしょ。鼻のライン。……ねぇ、宏樹ってもしかして美形?」  そんなことを言いながら、顔をぺたぺたと触る。 「やめろ」  眉間に少ししわを寄せながら宏樹がつぶやく。 「あんまし眉間にしわ寄せちゃだめよ? クセになってシワが刻まれちゃうから」  笑いながら眉間を軽くつついてやる。それでも顔を触るのを止めない。 「やめろと言っている」  宏樹の語気にいらだちが見えて、ようやくだがやはり笑いながら綾香は手を止める。 「じゃあさ、明日の朝一番でセンター行こ? 自分のコピー作るのって、おもちゃつくるみたいでなんか楽しそうじゃない?」 「わかった。で、その手はなんだ」  両腕を宏樹の肩に置き、その手で輪を作るようにしてその中に宏樹の頭がある。 「ナニ、って宏樹の肩に両手をかけてるだけ」  そういうと綾香は自分から宏樹にキスをする。 「そう邪険にしないでよ」 「……」  宏樹は返事の替わりにキスを返した。 「お前がそばで喋ってないとカンが狂うからな。人形はその役に立ってくれるだろう」 「あ、ひどい。そこまで言う?」 「冗談だ」 「宏樹に真顔で言われても冗談に聞こえないよ、バカ」  キスをもうひとつ、ふたつ。  センターでは、妙な顔をされた。まったく、妙な顔、としか言い様のない顔を。同時にインプリンティングする情報の多さに、呆気にとられた顔をされた。 「とにかく、あたし達すっごい急いでるから。特急でヨロシクね」  ふたりの出した要求に、センター側は慌てつつもちゃっかりと割り増し料金を要求してきた。Cスクェア一体作るのにかかる額の中では微々たるものかもしれないが、それでも結構な額だった。それを、惜しげもなく支払う、と言いきるふたりにセンターの人間はまた呆気にとられた。Cスクェア製作を同時に二体。センターはてんてこ舞いになった。それでも、今回はモデルになる人物が生きているというので、型をとるのはスムーズにいったようだ。  プロジェクトの合間を縫って、ふたりのセンター通いが始まった。  お互いのスケジュールがいつも同じという訳でもないので、すれ違うのが常ではあったが、それでも、ふたりは忙しい合間を縫ってセンターに足しげく通い続けた。助手として使うのに必要な情報をリストアップするのだけでも大変な労力がいる。それをもいとわずふたりはお互いにお互いのコピーを、黙々と作り続けた。 「あたしの趣味、入れてもいい?」  久しぶりに会うと、突拍子もないことを言ってくる。 「なにをだ」 「宏樹の気づかない、宏樹のクセとか。そういうの」  にこっと笑って言う姿は子供の様で、もう二十歳近い年齢だというのに、十五かそこいらに見える。 「好きにしろ」  溜め息混じりに言うと、 「宏樹もさ、なんかあたしを驚かすようなことをさ、入れといてもいいよ?」 「気が向いたらな」  苦笑する。綾香は相変わらずで、なんだか一緒におもちゃでも作っているかのようで、共同実験でもしているかのようで、別れを前提とした話をしているとは、表情からは到底伺い知ることは出来ない。宏樹もまた、普段どおりの対応で、そのふたりの余りにも日常的な会話が、反応が、センターの中でされているということが、妙な違和感を持ってセンターの人間の目には映った。 「なんかさー、あたしのしらない、宏樹の新しい特技とかあったら、あたし楽しいかも」 「……考えておこう」  などと言いあいながら笑う様はやはり別れを前提としていることは明らかで、それが日常的な雰囲気であればあるほど、センターの人間達の同情を誘った。  景色は冬。息さえも凍るような寒空の元、二人は黙々と準備に励み、以前ほどに会えなくなっているとは気づかせないような時間が過ぎていった。  ある日、宏樹はセンターの局員に、楽譜を渡した。 「あの……?」  戸惑う局員に、テレを隠してでもいるのか、いつもより素っ気無い態度の宏樹は口を開いた。 「俺のコピーに、コイツをピアノで弾けるようにインプリンティングできるか?」 「できます……けど、いきなりですね。貴方がそっち方面の才能もおありだとは存じませんでしたよ。早速サンプリングしましょうか」 「俺は弾けない」 「は?」 「あいつを驚かすくらいの役には立つだろうと思ってな」 「驚かす……ですか」 「そうだ。あいつからなにか俺のクセをインプリンティングするよう言われてるんだろうが、それだけじゃつまらないからな。こちらからも何かサプライズをと思ったんだ」 「そうです、ね。確か口笛が……」 「それ以上言うな」  宏樹の目つきに局員は大人しくなる。 「す、すいません。で、曲はこれだけでいいんですか?」 「一曲だけじゃつまらないか。そうだな、なにか探してくる。あいつが嫌がりそうな曲を弾かせるのも面白そうだ」 「宏樹さん、またそんな意地悪を」  局員の困ったような笑いに、 「向こうもなにか考えてるさ」  とニヤリ、と笑って返した。 「サンプリングは無理だろうから、少々はこちらでもデータを作ってみよう。それも面白そうだしな。数日中にはまた新しい曲を持ってくるから、基本データは入れといてくれ。いいな」 「わかりました。やっておきますよ」  局員はにっこりと請け負った。  部屋に帰って音楽ディスクを鳴らす。それもピアノ曲ばかり。そんな宏樹に綾香はあれこれ口出しすることじゃないと思いつつも、 「なに、宏樹ったら最近ピアノ好きなの?」  くらいのことは言って見せる。それに向かって宏樹はといえば、 「たまにはこういうのも良いだろう? お前はどの曲が好きなんだ」  とさり気なくリサーチしてみたりする。 「バイオリンもなかなか捨てがたいが、今日はピアノ曲の気分だからかけてる」 「うん、あたしもバイオリンは好きだなー。あたしはどちらかって言うとバイオリン派かな。ねぇ、宏樹はどんな曲が好き?」 「そうだな。あぁ、これにも入ってる、協奏曲なんだが、ヴォカリーズなんかも好きだな」 「ラフマニノフかぁ。でもヴォカリーズはちょーっと淋しい曲だよね。ラフマニノフだったらほら、パガニーニの」 「あれは協奏曲じゃないだろう?」 「あー。そっか。んでもあたし、結構好きだなー、十八変奏のあたりとかさ。うん、宏樹の言うとおりヴォカリーズも好きだけどさ、『今』はあんまり聞きたくないかも。その曲、飛ばしてよ」 「了解」  ……淋しい曲は『今』は聞きたくない……か。  リモコンに手をやりながら宏樹は物思いにふけった。 「ねー、サティのディスクはないの?」  綾香の言葉に我に返る。 「ある。かけるか」 「うん、そっちのほうがいいな」 「どの曲がいい?」 「って言ったってそれに入ってるかなんてわかんないでしょうが。ちょっと曲名リスト見せて」  そう言って綾香は宏樹の手からリストをぶんどると、しげしげと眺めた。 「まったく宏樹って奴の趣味は広すぎてよくわかんないよねぇ。あ、あったあった、これ」 「どれ」  ひょい、と宏樹がいきなり覗き込んでぶつかりそうになるのに驚いて、綾香はバランスを失いかけそうになりつつ、なんとかこらえてみせる。 「あんたねぇ」 「なんだ」 「……もういいよ。宏樹がこういうことするの、あたしにだけだし。だけど、あんまりやると、人から誤解受けるからね?」 「なにをどう誤解するんだ?」 「宏樹はもう、しょうがないなぁ」 「なんだ」 「なんでもないよ。それよりやっぱこれよ、好きな曲」 「言うと思った。この曲が入ってないディスクを用意してるとでも思ったのか?」 「うるさい」  宏樹は人付き合いが悪い。というよりも、苦手らしく、無頓着な面もあるせいかいつも損ばかりしている。それをフォローして回るのが綾香の役どころ。綾香は明るく、屈託が無い。デコボココンビといわれつつも、ふたりは仲がいい。お互い小さいころから英才教育のための寮暮らしで、ふたりでいることに慣れている。ふた りでいるのが当たり前。 「あたし、パティ・オースティンのこの曲、歌よりピアノアレンジの方が好き」 「似てるな。俺もだ」  思惑が伝わったのか、ヒロキはニヤリと口の端をあげる。 「譜面とデータ、確かにお預かりします」  局員は言った。譜面自体はおまけのようなものだが、それは作っている『人形』に渡すためのもの。  綾香への最後の贈り物。言葉は伝わらないときもある。けれど、それを補ってくれたらと願い、綾香には何も言わずに宏樹はデータを渡す。  出発の日取りが決まった。準備も佳境に入っているが、『人形』の作業も佳境だ。完全に起動させるわけではないが、各種起動テストが始まる。データの入力状況、動作に異常ないか、を調べるのだ。  完全起動はどうやらふたりが別れた後、お互いが個々にどこかのセンターでやらねばならないらしいことだけがわかってきた。これが完成するときはもうふたりはお互い座標軸でしかしらない星の上という訳だ。 「聞いた? 起動は別々って」  ある日、お茶をしていたときに綾香はきりだした。 「どうやらそのようだな」 「ってコトは微調整はあたしの好きにしていいってコトだよね」 「言ってろ」  コツン、と額をこづかれ、綾香は破顔する。  出発は、クリスマスの翌日。  クリスマスで浮かれる街を早々に後にして、宏樹と綾香は宿に帰った。明日は出発。 「クリスマスプレゼントは、開けてのお楽しみ、だからね。覚悟しといてね」 と言って笑う綾香に、 「お前もな」 と返す宏樹。  そう言ってキーを交換しあう。渡せない『さよなら』。ふたりとも、今夜が最後とわかっていつつも、なにもできない。  外は雪。足跡が雪に消え、過去がうずまる。  出発当日は、快晴になった。忙しくてろくに話もできないまま時間が過ぎていき、たまにすれ違うとお互い合図してエールを送る。  シャトルに乗って星が流れて行くのを見ながら、ふといつもの癖で、 「ねぇ、宏樹はどんなところだと思う? 今度行く星」 と言っても返事はなかった。隣の席に目をやれば、宏樹ではない別の人間が早くも眠りについていた。  宏樹はいない。現実が目の前に突きつけられた気がして、 「…………」 流石の綾香もこの時ばかりは口をつぐまざるをえなかった。  来年のクリスマスを一緒に過ごすことはないことだけを急に実感して。あのメロディーが口をついてでた。  See you on the Christmas day in the next life.  ぽつりと一言、口にした。  荷物を降ろすと、そこはとても無機質な場所に思えた。これから先、しばらくはこの星で過ごすことになる。ここにはセンターがない。だから例の『人形』はまだ眠ったままだ。 「ねぇ、あたしの分担分野にはまだ間があるから、近くのサーカロイドセンターのある星までちょっと行って きてもいい?」  ある日、綾香はたまりかねたように同僚にそう提案してみた。 「あ? お前そんなとこにいってどうするんだよ」 「あたしの助手になる予定の奴がまだ起動できてなくてさ、起動してきたい訳よ。助手がいるといないとでは効率も変わるでしょ? ねぇ、行かせてよ」  助手、という一言がなんとか功を奏して、綾香はそれからしばらくして、やっと渡航許可が下りた。早速コンテナ移動の手配をして近隣のセンターに予約をとる。  ようやくたどり着いたセンターは、辺境だから仕方がないのかもしれないが、製作のために通っていたところに比べると、少々貧相なイメージが払拭できないのはどうしようもなかった。なんだか不安に思って話を聞いてみると、局員もCスクェア自体初めてだというのだから心もとないことこの上ない。  それでも、起動したかった。  目の前に、宏樹がいない生活がこんなに辛いとは、実際思いもよらなかった。たとえ『人形』でも、そばにいて欲しい。それが本当に『人形』なのか、それとも意志を持つものになるのか、それはわからない。それでも、動くヒロキが見たい。  それほどに、渇望していた。  基本はでき上がっているのだから、心配は無用のはずだ。後は起動するだけでいい状態でここまで運んできたのだから。  心がはやる。  たとえ貧相でも、ここはちゃんとしたセンターだから、ひととおりの設備は揃っているはずで。だからこそ、早く起動したい。  人工羊水に浸ったままの『人形』は、モニターの意味も含めたマーカーも当然そのままで、それが人工物であることをありありと見せつけて綾香を身震いさせる。それでも、綾香は目をそらせなかった。各種チェックが行われ、起動用キーを作動させ、『人形』と機械の連絡が始まる。  人工羊水が抜かれ、カプセルが開くと『人形』はゆっくりと目を覚ました。初めは合っていそうにない焦点がだんだん合っていくのがはっきりとわかる。そうして『彼』は辺りを見回し、綾香を認めると、 「マスター・綾香」 と発した。その声は、紛れもなく宏樹の声だった。 「とにかく、あたしを呼ぶのには綾香、これだけでいいから。いい? これは命令だからね」 「了解」  真面目な顔をして『彼』は答える。 「そういう物言いまでそっくりだね。……って当たり前か。で、今なんて言った? なにが欲しいって?」 「ピアノか、それに類するものが家に欲しい」  無愛想な顔のまま、彼は答える。 「やっぱ聞き間違いじゃないのね。なんなのよそれは」 「無理なのか?」 「そーじゃなくて。ヒロキ、弾けるの?」 「数曲なら。だからピアノでなくて安いキーボードで構わない、と言っている」 「にしてもなー。あー。もー。わかった。ショールームに行くからついておいで。辺境ていったってそれくらいはあるでしょ」  小さな街の商店街で、生ピアノとまではいかないが、電子ピアノを取り扱っている店をどうにか発見した。調律もままならない場所で楽器をどうにかしようと思えば、調律のいらないものを探すしかない。この街もそれと同じ理由で生ピアノは扱っていなかった。 「店は見つかった。とりあえず、店でせめて一曲くらいは弾いて見せなさいよ? 弾けないのに買ったって仕方ないんだからね」 「わかっている」 「まったく、表情までそっくりだね。にしたって趣味がピアノってのは、一体どういう風の吹き回し?」  『彼』は店に入ると特に何を選んだ訳ではなさそうに一台を選ぶと、電源を入れた。綾香は店主に試弾させてくれと断ってから『彼』を促した。腕がすっとあがる。  『彼』が静かに奏ではじめたその曲は、出発前にやはりこれが好きだとお互いに言いあったあの曲だった。  綾香は思わず込み上げてくるものを感じて、ただ上を向いた。  ヒロキの指に奏でられ、店内に流れた曲は、『Say you Love Me』と『Je te veux(あなたが欲しい)』。
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