SIDE : Ayaka

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■SIDE : Ayaka  霧に包まれた天文台は暖かく見えた。二階の管理部門の窓からさしている明かりは天文台を取りまく駐車場をぼんやりと浮かび上がらせ、木々の枝にふんわりとのっている。  アヤカは、ともすれば車のスピードを出し過ぎになるのを必死で押さえながら天文台へ急いだ。  速く、とく速く。  はやる心をおしこめてハンドルを握る。胸ポケットからこぼれ落ちそうになる封筒ひとつをもう一度ぎゅっとおしこめてハンドルを握り直した。  今日の夜勤は宏樹と自分だけだから気が楽で、だからこそ、このニュースを早く知らせたかった。まるでドリフトでも決めるように駐車場に車を滑りこませると、所長用とかかれた位置に奇麗にバックでいれた。タイヤの減りが早いといつも宏樹に言われていたことをふと思い出す。 「完璧っ!」  こぼれんばかりの笑顔を付けてドアを勢いよく閉めると天文台の玄関へと急いだ。霧で浮かび上がる道も天文台もまるで雲に浮かんでいるようだ。吐く息も白く、それはそのまま霧に混じっていくよう。  天文台、といってもここはどちらかといえば正式には観測所で、この惑星唯一の天文施設であることから天文台の通称で呼ばれているにすぎない。まぁ、天文台であることも事実ではあるので、その呼称が間違っているとは一概には言えないのだが。  テラフォーミングの段階で住居コロニーを作らずそのままの大地に住居区画を作ったのが原因かどうかは定かではないし、特になにが原因というわけではないのらしいのだがなぜだかここは霧が多い。ここ天文台のあるような高い場所には毎夜必ずといっていいほど霧が発生するし、麓の町にも霧が発生することはほぼ毎日。そんなことからこの辺境惑星は『霧の星』という。それでも晴れた日には闇夜に浮かび上がる家々の明かりがぽつりぽつりと人々の心を和ませてくれるのだった。 「ひーろきっ、ただいま!」  ハートマークでも飛びそうな勢いでアヤカは管理室に飛び込むと、そこには静かな笑顔をたたえた宏樹が待っていた。 「お前はドリフトが好きだな」 「へ?」  見事なプルシアンブルーの瞳がアヤカを見つめている。 「何度言ったらわかるんだ、お前は。お前に運転を任せているとタイヤの寿命が早くてかなわない。自重しろ」  やれやれ、仕方ない奴だなとでも言わんばかりに溜め息混じりに言われて、 「はいはい」  と口先だけの返事を返す。 「なんだ」 「はい?」 「それで、今日の上機嫌ドリフトの原因はなんだと聞いているんだ」 「そうそう、聞いて驚け、転属の辞令が降りたのよっ!」 「お前にか」 「なーにすねてんのよ、あたし達ふたりに決まってるでしょ。しかもここより都会の星。あたし達の生活も賑やかになるかもね」 「……」 「夜勤明けたら早速挨拶回りに行かなくちゃね、まずどこからいこっか。まぁこんな田舎の、辺境惑星だか ら? 回るとこもそんなにないしあっという間に伝わるだろうしねぇ」 「……」 「どうしたの、嬉しくないの?」 「……。」 「ねぇ、どうしたっていうの」  ぼそぼそぼそっとなにかを口にした宏樹が気に入らなくて、少し口調がきつくなってしまう。 「はっきり言ってよっ」 「俺は残る」 「はぁ?」 「俺はここに残る、と言ったんだ。その辞令は断る」  そう言ってきっぱりとアヤカを見据えた宏樹の瞳にははっきりとした意志が宿っていて、アヤカは困惑する結果となってしまう。 「ねぇ、どうしたのよ。あたしはてっきり宏樹が喜んでくれるものと思って帰ってきたのに……」  アヤカははっきりと困惑の表情を浮かべた。  この間定期検診に出したばかりなのに、とふと宏樹は考えた。カスタマイズされているサーカロイドをど う『調整』したのかはしらないが。こんな辺境惑星なのに、腕のいい技術者は、珍しく宏樹と懇意の竜門りゅうもん 要かなめという。要め……なにを企んでいるのやら。今度飲みにでも誘ってその真意を聞いておこう、と考える。サーカロイドはじつに精巧にできていて、生身の人間とまったく遜色ない。その技術には恐れ入る、と苦笑する。  サーカロイド(circaroid)は一般的にはひとり暮らしの人間を対象に、基本は話し相手として、場合によっては夜の相手も可能ということで開発されたヒューマノイド型バイオロイドである。基本的にサーカロイドはその立場はフリーなので契約期間だけの相手であり、サーカロイド自身の維持費用ということで契約料は結構高めである。ちなみにクライアントだけを相手にするように製作段階でカスタマイズも可能である。カスタマイズの場合、容姿もクライアント側で決定することが出来る。これはCスクェア(サーカロイド・カスタム)と分類されている。これは、夫、妻などを亡くした人間がよくやるのだが、汎用品と違って製作するのに多額のお金を必要とするので、数は少ない。アヤカの場合、宏樹がクライアントとしてカスタム製作したのである。つまり、宏樹はアヤカのマスターである。そしてそのカスタマイズ内容によって、アヤカは宏樹の助手として働けることをきちんと政府が認定している。  夜勤が明けて、転属辞令の話題は禁忌タブーだとうやむやのうちに納得させられたままアヤカは家に戻った。とりあえずポットで湯を沸かし、コーヒーなぞを入れてみる。窓の外にはレンガの壁で連なるのどかな町並み。 「なんだかなー」  ぽつり、と声に出してみる。シュンシュンシュン、とポットが湯気と音を立てはじめて火からおろした。円を描くように湯を注ぎ込んでやるとふんわりとコーヒーの香りが立ち上ってくる。 「どうした?」 「なんで都会に行くのが嫌なわけ? この辺境が気に入ってるとか?」 「そうだ」  パサリ、と読んでいた雑誌を机において宏樹は軽く溜め息をついた。 「俺は都会の暮らしに馴染めない。ここののんびりした空気が性にあってる」  時折見せる感情の激しいものを思い出して、あまりそうだとは思えないけれど……とアヤカは考えながらコーヒーをカップに注いだ。 「でもあたし、霧ってあんまし好きじゃない」 「……今日の午後も霧が出そうだな」 「ほんと? んじゃ霧が出ないうちに買い物にでもいってこよーっと」  そう言ってそのままジャケットを羽織ってドアへと足を向ける。ノブに手をかけて思いついたように振り返って、 「なにか食べたいものある?」  と聞いてみるが、 「いや、特には」  という台詞に、 「了解。テキトーに見繕ってくる」 手を振って答えてそのまま家を出た。  とにかく、転属の話は人に触れ回ってはいけないらしい、とだけは理解して、アヤカは市場に向かう。夜勤明けの朝のことだ、買い物から帰ったらとにかく眠るだろうから、その後食べるのにふさわしいものを……、と考えてアヤカは果物やスコーンなどを物色することにした。  宏樹と違ってアヤカは愛想がいいから人々から受けも良くて、町中をひとり出歩いていると声をかけられ ることも多い。おかげで八百屋ではおまけがついたりとラッキーなこともあり、アヤカ自身まんざらでもない。外れにあるパブの前を通れば店の前を掃除中の店主のブライトには次はいつ来るのかと声をかけられ、近々顔を出すから一杯おごってくれと声を張り上げた。 「アヤカー、買い物ぉ?」  子供たちがはしゃぎながら声をかけてきた。そのままアヤカにまとわりつきながら遊ぶ。 「卵買ったの。割れちゃう」 「へへ、そんなのまた買えばいいんだい」 「こら。オレンジあげるから向こういって」  レンガの建物で赤茶けた色が中心の町中に、子供のはしゃぐ声がすれば、噴水のある広場で転がるように遊んでいるのが目に入る。  辺境の、こじんまりした町ではこれがせいぜい。それでも、人々は皆明るい。 「アヤカちゃん、今日は休みかい」  店先でおばさんがにこやかに声をかけてくるのに、 「夜勤明けなの。なにか元気でるものちょうだい」 と笑顔で返す。 「じゃあこれ、宏樹さんと一緒に食べてみてよ」 「わぁ、手作り! おばさんありがとう」  おばさん達は、このアヤカの笑顔が見たくて、売り物ではないパイを作りおいてくれたりする。  おかげで宏樹は天文台での仕事だけしかしてないようでいてつきあいがいまひとつであっても嫌われることはなく、まったくアヤカ様々であった。外にでていないのに買い物から帰ってきたアヤカが、今日はパン屋の息子がどうしたの、肉屋のベンジャミンがこの間どうしたのと話をしてくれるので、いつの間にか人々の動きを把握しているような有り様であった。  酒屋で宏樹の気に入りのワインを一本仕入れて次に上等のサラミとチーズを仕入れて、さらにはふたりが特に気に入っているコーヒー豆までも久々に見つけて仕入れたアヤカは上機嫌で帰途についた。  フラットに帰ると、窓から差し込む光だけの部屋でカーテンが揺れていた。自然光だけでは少々薄暗い部屋の中、焦茶色の木の壁が持つ独特の光と影のオブジェがそこに出来ていた。そんな中、ソファで宏樹がうたた寝をしている。  それはまるで一枚の絵のようで、アヤカは落ち着いた静かな時間を目で楽しむ。初めて会った時には同じ位の年で、いってもせいぜい二十歳位の外見だったのに、数年経って宏樹は大人になってしまった。見た目はそうかわらないけれど、目の落ち着き方が少し、変わった。それだけが経過した時間で、それ以外はまったく変わらない。アヤカを呼ぶ声も、柔らかくあたたかな唇も。  宏樹は、アヤカが宏樹のことを『マスター』と呼ぶことを嫌う。まるで主従関係のようで嫌だと。あくまで対等な存在なのだから、そう呼ぶな、という。それがなんだか嬉しくて、好きになった。所有物としてではなく、一個の人間と同様に対等に見てくれること、本当にあくまで対等に扱ってくれたことも、嬉しかった。目覚めた時から好きだったけど、これはどうやらプリセットな感情な気がするから、この際置いておいて。そのうち、自分のオリジナルがどこかにいるらしいことも、わかった。それでも、宏樹はやはり自分だけを見つめてくれて、自分の向こうに自分のオリジナルを感じることはまずなかったし、自分だけをずっと見ていてくれるから、もっと好きになった。そもそも、自分はCスクェアなのだから、マスターを嫌いようがないのだけど、そういう言い方を宏樹はものすごく、嫌う。昔そんなようなことを言ってこっぴどく怒られた。なぜだか泣きそうな瞳で、と思ったのは錯覚だったかもしれない。  買ってきたばかりのコーヒーを早速いれて、アヤカは宏樹の椅子のそばに座りこんでまったりした空気を楽しんでいると、コーヒーの香りに宏樹が目を覚ました。 「ん……帰ってたのか」 「さっき。ワイン買ってきた。後で飲もうね」  宏樹の手が降りてきて、くしゃ、とアヤカの頭をなでる。特に意味のないスキンシップ。けれどそれは充分にアヤカの心を和ませて、柔らかな笑顔を生む。柔らかく立ち上るコーヒーの香りと、窓からさす自然光。昼前の光はきつくもなく弱くもなく。アヤカは椅子にもたれ掛かったまま静かな風景にまどろんでみる。 「……その指輪、恋人との?」  なでられた手に指輪を見つけて、ふと、聞いてみる。 「これは、昔、相棒と……」 「え?」 「気にするな。そのうち、な」  くしゃり、とまた頭をなでられた。  ゆっくりと時を刻む時計の音だけが時間が流れていることを知らせてくる。こんな静かな時間を、アヤカは嫌いではない。宏樹はコーヒーの香りを楽しむようにして少しずつ飲みながら、ぽつり、ぽつりと言葉を口にしはじめる。 「ねぇ、宏樹」 「なんだ」 「この星の、どこが好き?」 「どこ?」 「そう、のんびりしたとこ、とか、そういうの」 「そうだな…………時間」 「時間?」 「お前は感じたことがないか? ここは、時間の流れが優しい惑星ほしだと」 「今もそう思ってたとこ。なんかの資料で見た昔の地球の田舎町みたいだよね」 「それはどうだかしらないが。散歩するにもいい」 「まぁ、のどかな場所だってことには反論を挟む余地なし、ってとこね。でもねぇ、宏樹、まだ若いんだからさ、なんだかじじくさくこもってないでぱーっとはしゃぐのも必要だと思うけど?」 「鈴の輪舞亭でお前がよくやっている様にか」  くすり、と苦笑するのが見えなくても言葉の雰囲気で伝わってくる。 「宏樹だって飲みに行くでしょ」 「俺はお前ほどには騒がないからな」 「ちぇっ」 「でも、お前が楽しそうなのを見ているのは好きだ」 「へ?」  思わず顔をあげて宏樹を見つめる。 「聞こえなかったのか? お前が楽しそうなのは嬉しい、と言ったんだ」 「え、あ、そう」  突然そんなことを言われて顔を赤らめながらどうしていいかわからなくなったアヤカはズズズと椅子の縁をすべって深く座る。 「あ、パンプキンパイ買ってきたんだ。食べようよ」  思い出したように立ち上がるとシンクに向かい、置きっぱなしだったパイの入った箱を宏樹に見せるように持ち上げると取り繕うように笑って見せた。  テーブルの上にはケーキ皿とティーカップがふたつずつ。  窓から入る風は少々肌寒く、今日も気温があまり上がらないことを知らせてくる。その風に冷やされた肌に、温かい腕が心地よい。                   * * *  サーカロイドセンターは大抵町の外れに位置していることが多いので、アヤカはそのまま町並みを背に歩き出した。今日も夜勤なので昼間は時間がある。  手紙なんてまぁ、前時代的なモノを……、と思わないでもなかったが、一緒に入っている書類が重要だというのでおとなしくお使い任務に従うことにする。本来なら宏樹本人が持っていくべきものらしいのだが、仕事の都合で時間が合わないらしい。アヤカは宏樹の代理として行くことになった。持って行く相手は、宏樹と懇意のドクター竜門、つまりアヤカ言うところの『かなめセンセー』なので特に問題はないだろう、と宏樹が判断したのだ。しかし、アヤカひとりで行かせるには少々ためらいがちであった。というのも、別れ際宏樹は、 「今晩磁気嵐が来る。その時オーロラが見られるはずだから出来ればその時間までに間に合うように来い」  と言って早く来るようにアヤカに伝えたのである。アヤカは明るく大きく手を振ってそれに応えて、宏樹の車を見送った。  車が視界から消ると、アヤカはきびすを返してセンター目指して歩きはじめた。  要のオフィスに通されると、慣れない場所に多少落ち着かない風でアヤカは出されたお茶を 飲んでいた。  要はというと自分の机でアヤカから渡された封筒の中からまず手紙を読み、それから書類をとりだしてチェックをはじめた。書類に目を通し、サインを入れていく。それがいくつか終わると端末入力をはじめた。アヤカは視線の置き所が無いので、ただ漫然と要の作業を見つめてしまう。 「要センセー、そろそろ終わりかな? あたし、天文台の方に行きたいんだけど」 「後ちょっとで終わるから待ってろ。宏樹って不思議なやつだな。なんでお前なんだろう」 「要センセー、お言葉ね。でも、今はあたしだけが宏樹のそばにいられるの」  アヤカの、自分だけ、という言い方にどこか誇りすら感じたのか、要は口の端をほころばせる。 「なにか聞いたことはないのか」 「なんにも。言いたがらないから、あたしも聞かない。無理やり聞くのは趣味じゃない」 「そうか……そうだな」 「でしょ。でさ、その、サインがいるっていう書類ってなに? あ、いや、言ってもいい内容なら知りたいなと思って」 「え? あ、うん、どうすっかなー」 「言いにくいんだったらいいの」 「あー、いや、そういうわけじゃないんだけど、どう言っていいのか迷って」 「なに?」 「その、まー、あれだ。宏樹が持ってる資産の一部をだな、お前名義にして、法的だけじゃなくて資産的にもお前も一人前に、正式にお前を自分と対等にしようってハラだろ。そのための手続きだ。そんで俺は証人のサインをしてたわけ」  そう要が言った途端に、アヤカは手に持っていた鞄を落とした。 「……どうした、目、潤んでるぞ」 「うるさい。そんなことないって」  アヤカはすん、と鼻を軽くすすって笑顔を作ると照れ隠しのためか要の肩をぽん、と叩いた。 「端末処理も今終わって受理されたよ。……良かったな」 「宏樹もバカだなぁ、そんなことして自分の財産減らしちゃってさ。あたしが使い込んでもしらないのに」 「それはもうお前の資産だから、お前がどう使おうと宏樹はなにも言わないよ」 「莫迦よ、宏樹は。あたし、サーカロイドなのに」 「それは言わない約束なんだろ」  くしゃり、とアヤカの頭をなぜた要の手は、宏樹の手を思い出させた。  そこへ要に内線電話がかかってきた。 「はい、竜門」  そういって話を聞きはじめた要の表情かおが一瞬のうちに変わった。 「なに、爆発?」  それを聞いてアヤカは弾かれたように要を見た。 「わかった、すぐに行く」  そう言うと慌てて電話を切ると車のキーを取り出して、 「天文台で事故が起こったらしい。行くぞ」  それだけ言うとドアに向かって歩き出す。 「天文台? 今の時間は宏樹くらいしかいないんじゃ……」  そうつぶやいて呆然とするアヤカに、 「なにしてる、行くぞ!」  要は叩くようにドアを開けた。                       * * *  漏電でショートしたのが原因かどうか。そんなことはどうでもいい、とにかくは今、目の前の燃え上がる天文台だ。  消火機能が働いてるといっても古いものだし、おそらく通常では予想できない場所からの出火なのだろう、炎はますます勢いを増すばかりでどうにもならない。なにもなければ二階の管理部門からの脱出だ、そう難しいことはないだろう。なのに宏樹はでてこない。二階にはいないのか、それともすでに倒れてでもいるのか。  アヤカが到着したときにすでに数人の消防士達が消火活動を始めていた。何本もの消火ホースが天文台に向かって伸びている。しかし、火はなめるように建物をおおい、ボヤではすまない状況であることだけははっきりと見て取れた。 「宏樹!」  声を張り上げて辺りを見回してみたものの、姿は見えない。避難していないのか。はっ、と天文台に視線が戻る。思わず走り出した。ぐい、と腕をつかまれて振り返ると、消防士だった。 「危ないから下がっていなさい」  火のはぜる音の中、大声で叱る消防士の声は、とても遠くに感じられた。振りほどこうとしても消防士の手は強くアヤカの腕をつかんでいた。このままでは服が破れる、と思った瞬間、破れたっていい、と思う自分がそこにいた。渾身の力を込めて消防士の腕を振りほどく。走り出せば声が追いかけてくる。が、宏樹が中にいる。構ってなどいられない。  天文台の中に飛び込んだ。幸い、今日は髪を結んでいるから広がって火をもらうことも少ない。 「宏樹!」  声を出すと煙で思わずむせてしまった。管理室に入って声を張り上げてみたが返事がない。炎で視界が悪く、いるのかいないのかさえ判断がつかない。部屋の中まで入って調べてみようか逡巡したとき、宏樹の言葉を思い出した。 『今晩はオーロラを見よう』  とすると宏樹は屋上か、ドームの制御室にいるに違いない。アヤカは管理室の中の探索をさっさとあきらめて階段に向かう。  炎は容赦なかった。服のあちこちに焼け焦げが出来ていたし、腕や指には火傷もあるかもしれ ない。それでも、まったく気にならなかった。痛覚がマヒでもしたのか、視界に入るものと痛覚が繋がらない。熱を感じないわけではなかったが、そんなことはどうでもよかった。 「宏樹!」  再び声を張り上げる。  煙が上がってきていた。思わず煙にむせながら炎と煙から腕でよけながら足を進める。  階段を上り、ドームの制御室に入ってみるとそこにはまだ炎は来ておらず、それ自体は助かったが、がらんとした部屋の中は人気がなかった。机の影、椅子の影なども見て回ってみたが姿がない。いよいよ屋上か、屋上に立つドームの中しかないか、ときびすを返して専用の狭い階段へと向かう。  屋上に向かう階段の踊り場に、宏樹がうずくまっていた。  いや、うずくまるようにして倒れていた。どうやら降りてこようとして煙にまかれたらしい。  アヤカはすぐに駆け寄ってみる。 「宏樹!」  身体を起こして声をかけてやれば、鈍い声とうろんげな目の反応が返ってくるばかり。再びで きる限りの大声で名前を呼びながら頬を打ってやると、幾分か反応が明瞭になってきて、アヤカを一安心させた。 「アヤカ……遅かったな」 「なにがあったの」 「これを、やる」  そう言って宏樹ははめていた指輪を外すとアヤカに渡そうとする。 「そんなの今じゃなくたっていいでしょ」 「今じゃないと、駄目だ。いいか、これは『証』だ、なくすなよ」  アヤカの手にしっかりと握らせる。 「わかった、わかったから。すぐに脱出するから、あと少しの辛抱だからね」  宏樹に肩を貸してやるようにして立ち上がると、アヤカは歩き出した。炎と煙が容赦なく押し寄せる。  外に出たふたりはすぐに、有無を言わさず救急車に押し込まれた。                * * *  目が開いてすぐに、白い壁は見ていたくない。そんなことを漠然と考えた。すぐに宏樹のことを思いだし、がばと飛び起きて苦痛に顔をゆがめた。 「お前だって結構な火傷してるんだから、ちったぁおとなしくしてろ」 「要センセー、いたの」 「当たり前だろう、お前のメンテは俺がやるんだからな」 「あたしのことはいい。宏樹は?」 「横で寝てるぞ」  要が姿をずらしてやると隣のベッドに宏樹が寝かされているのが目に入った。さまざまな機器が宏樹にくっついていて、まるでチューブやコードが生えてるみたいで気持ち悪い。 「センセー、宏樹の容体は?」 「ん? かなり悪い。見た目以上に火傷がひどかったみたいだな。火の中でなんかやってたんだろう。そうだ、これ、預かっておいた」  要はアヤカに渡された宏樹の指輪を取りだすと、アヤカの指にはめてやる。 「これは、もうお前のものだ」 「それってどういう……」 「もらった手紙に書いてあったからさ。万一の時は指輪をお前に譲るってさ」 「宏樹、一体なに考えて……」  視線を宏樹にもどすと、もぞ、と動いたように見えた。 「宏樹?」  激痛も気にならないかのようにアヤカは勢いよく身体を起こした。宏樹のベッドに駆け寄ると、宏樹の手がアヤカを探すように動いた。 「アヤカ……。指輪は……」 「持ってる。ちゃんと持ってる」  宏樹の視線がさまよった後、アヤカで固定される。 「そうか。だったら……いいんだ。アヤカ……」 「ん?」 「オーロラを見に行こう。その時にはその指輪、忘れるなよ」 「わかった。それまでは絶対、身に付けとく」 「外すなよ。それじゃ、俺は少し、寝るから……」 「あぁ、お休み、宏樹」  宏樹は再び瞳を閉じた。眠りに落ちて行く宏樹。  そして、心音停止を機械が知らせた。 「宏樹?」  要がアヤカを押さえにかかる。それを振り払ってアヤカは宏樹にすがりついた。 「宏樹、起きてよ。宏樹……」  アヤカの目に涙が溜まる。最後は言葉にならなかった。  要は目頭を押さえた後、携帯ではあったが端末から処理をした。これで宏樹の資産はすべて、サーカロイドのアヤカのものになった。  数日後。 「宏樹がいないのに、この星にいても辛いだけだからさ、あたし、この星、でるわ」 「アヤカ……」 「要センセーと会えなくなるのはちょっと、さみしいけどね」  アヤカが乗り込んだシャトルは、霧の星を後にした。
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