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金曜日のにおいがする
白く発光する廊下を歩き、突き当りの部屋のドアを開ける。
コの字に並んだテーブルには、数人の知った顔。もう午後だけど「おはよう」と言いながら席に着く。「おはよう」「おはよー」パラパラ声が返ってくる。
挨拶はするけれど、隣に誰もいない席を選んで座る。
自分の右隣に鞄を置くか、左に置くか。一瞬の逡巡の後に左に置いて、中からルーズリーフとペンケースと、手帳を出してテーブルに置く。
開け放された窓にはクリーム色のカーテン。風に揺れて影の形を変えている。
その前の席に座る美人な二人は、テーブルの上で広げた手帳と携帯電話を覗き込み、小さく笑い合っている。俯き気味の顔に、濃く長いまつ毛の線が見える。
「映像の課題やってる?」
美人な二人が顔を上げ、私に訊く。
「うーん、ぼちぼち」
答えると二人、綺麗に笑って「うちらも」と声を揃える。また俯いて、携帯電話に視線を落とす。
ホワイトボードに近い席に、まだ高校生に見える小さな女の子が座っている。
陽の光に茶色く透けた髪を撫で、化粧をしていない顔で私を見、少し笑う。私も笑い返す。
彼女の一つ隣の席で、坊主頭の男の子は眠り続ける。腕に顔の下半分だけを埋めて、頬がいびつに歪んでいる。アルバイトがキツいのだと、いつかのゼミコンで言っていたのを思い出す。
ドアが開き、私は顔をそちらに向ける。
ショートカットの女の子が電話で話しながら入ってくる。大きな声が教室を満たす。
美人な二人は手を振って挨拶、そしてまた額を寄せ合い携帯へ。幼い彼女は笑顔を向けた後、白いままのホワイトボードに視線を戻し、坊主頭は眠り続ける。
ショートカットの彼女は私の背に優しく触れて、「おはよー」口パクで言うと二つ離れた席に座った。
彼女の話し声だけが、小さな教室に響いている。
相手は恋人だろうか。頻繁に変わる彼女の恋人。今はどんな人と付き合っているんだろう。
カーテンは揺れて、隙間から、鮮やかに黄緑色の葉が見える。
またドアが開く。
今度こそはと顔を向ける。だけど入ってきたのは教授だった。
それに続くようにして、長い髪を一つに結んだロン毛くんと、スポーツ推薦で入学したマッチョくん。
ホワイトボード正面のど真ん中の席に教授、その両隣にロン毛くんとマッチョくんが座り、三人は楽し気に話し続ける。
講義開始二分前になって、ようやくドアが開いた。
ドアの音を背中で聞いて、開いた手帳に視線を落とす。
文字が目の上を滑っていく。自分が何を読んでいるかなんてわからない。
右隣の椅子が引かれて、「よっこらしょ」と声がする。
その声で初めて気がついた。みたいな顔をしている自分が可笑しい。本当は嬉しい。当たり前に隣を選んでくれることが嬉しい。
そういうのってバレているんだろうか。バレていたとしたらどうなんだろう。どう思われているんだろう。
「もうすぐ十巻読み終わる」
その声に、私は笑って話し出す。夢中になって、口からはタタタタタって言葉が溢れる。
話したいことがいっぱいで、どうしてもっと早く来てくれないのと思う。二分じゃ足りるわけないのに、と。
どうしていつもギリギリに来るの
いつか訊いた。
「来てるんだからいいじゃん」だって。
「ゼミは休まないよ」だって。
「そうじゃなくて」思わず言って、だけど、その続きはなんて言えばいいの。
始業のチャイムが鳴って、それでも教室内の空気は変わらない。
美人は笑って、小さな彼女はホワイトボードを眺め、坊主頭は眠り、教授は両隣の二人と楽しく話す。
窓から風が入る。
クリーム色のカーテンが揺れる。
覗く黄緑が、嘘みたいに青い空と写真のように窓枠に収まっている。
今日は金曜日。ゼミが終わったらバイトに行く。
駅までのバスを君と一緒に乗りたいと思う。
晴れた外を見て強く思ってしまう。
土日は大学がないでしょう。月曜の三限目、君はサボりがちでしょう。
ねえ、だから。
見たい映画の話をしようか。それとも子どもの頃好きだったドラマの話。
なんでもいい。どんな話でもいい。
たくさん話したいことがある。だからもう少し早く教室に来てよ。
どこで何をしてるの。誰といるの。
つまらない講義も怖い店長のいるバイトも、ゼミで君が隣に座ってくれるだけで、全部大丈夫になる。
大学から駅までのバスも、だからいつか、隣同士で座りたい。
全部言わなくても全部わかってくれる君の、隣を、私の場所に。どうか。
言いかけてやめる。
「なんか金曜日のにおいがするね」
「わかる」
君には可愛い彼女がいる。
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