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白い家庭
その日、エヌ氏が目覚めると白い服の女が立っていた。
「や、なんだお前は」
エヌ氏は郊外の一軒家にひとり暮らし。家まで訪ねてくるような親しい友人もいない。目の前に広がっている光景は明らかに異常だった。
「あ、そんなに驚かないでください」
白い服の女が言う。生気を感じられない、低くこもった声だった。
「だれなんだ、お前は」
「ご存じないですか?」
白い服の女が不思議そうな顔をする。よくよく見ると、この女、やけに肌が白い。
「まったく知らない」
エヌ氏は即座に否定する。エヌ氏はそれなりの歳にもかかわらず独り身。仕事は会社員だが、とくに出世もせず会社の片隅で過ごしている。おかげで、貯金も多くない。
また、外見が優れているというわけでもない。そんな理由で、女性とは無縁の人生を送ってきた。
つまり、女性の知り合いがいるわけないのだ。
「私、幽霊です」
女が言う。
「幽霊だって? こんな朝から勘弁してくれ。せっかくの休みの日なんだぞ」
「そんなこと言わないでください。あなたにお願いがあって来たんですから」
やけに低姿勢な幽霊だった。幽霊とはいえ女性に頼られる経験は貴重だ。エヌ氏はちょっと女の話を聞いてみようという気になった。
「お願いというのは、なんなんだ」
「実はですね。私と夫婦になってほしいのです」
「なんだって」
エヌ氏が目を丸くする。
「だめですかね」
白い服の女がもじもじしている。エヌ氏が改めてその女を見ると、美人とまではいかないが、それなりに整った顔をしていた。肌が透きとおるように白いのが、いい印象を与えているのかもしれない。
「いや、しかし。幽霊と結婚なんてできるものなんだろうか」
結婚など自分とは関係のないことだと、エヌ氏は思っていた。そこに舞いこんだチャンスである。興味がわかないわけがない。
「その、世間一般で言うような結婚はできないと思います。でも、愛する男女がひとつ屋根の下にいる。それだけで十分ではありませんか」
「ふむ、たしかにそうだな」
「そうでしょう」
「いや、待てよ」
エヌ氏があることに気づく。
「そもそも、なんで君は僕と結婚しようというのかね」
もっともな疑問だった。現にエヌ氏に言い寄ってくる女性などいなかったのだから。
「実は私、幽霊でして」
「それはさっき聞いた」
「はあ、つまりですね。この世に未練があるわけですよ。私の場合、しあわせな家庭を持ちたかったというものでして」
おっとりとした口調で女は語る。
「生前、夫にひどい裏切られ方をされまして、人生を悲観した私は崖から飛び降りようと――」
「わかった、わかった」
幽霊の女が感情を昂らせはじめたので、慌ててエヌ氏が話をさえぎった。人が死ぬ話を事細かに語られたら、たまったものではない。なにせ相手は幽霊なのだ。
「どうでしょう。私幽霊なので、あなたにそこまで負担をかけることはないと思います。食事をしませんから、食費もかかりません。暑い寒いもないので、光熱費が増えることもないでしょう。いかがです?」
女は冷静さを取り戻して、言った。生前の恨みより、まともな家庭を持ちたいという願望のほうが強いのだろう。
「まあ、いいんじゃないかな」
軽い気持ちでエヌ氏は答えた。味気ない独り暮らしに、話し相手が増えるくらいの考えだった。もっとも女のほうも同じような考えかもしれない。家庭さえ持てれば、相手はさほど重要ではないのだろう。
「本当ですか。うれしい」
白い服の女が抱きつきてくる。びっくりしたエヌ氏は体をのけぞらせた。しかし、幽霊の女はエヌ氏の体をするりと通り抜け、壁の向こうへ消えていった。
「やれやれ」
こうして、エヌ氏は正式に白い服の女と結婚生活を送ることになった。
エヌ氏が幽霊と結婚してから半年がたった。
「いってらっしゃいませ」
朝、会社へ向かうエヌ氏を、白い服の女が玄関まで見送ってくれる。
「行ってくるよ」
「帰りは遅いんですか」
「いや、いつもの時間に帰る」
結婚前はひとりで家のドアに鍵をかけて、無言で出勤していた。ずいぶん生活が変わったものだ。会社でも、「明るくなったな」とか「仕事に意欲が出てきたんじゃないか」などと言われることが増えた。それでもこの歳だから急に出世することはない。
会社での地位は相変わらずだったが、エヌ氏は気にならなかった。
自宅に帰れば、理想的な妻が出迎えてくれる。
「お帰りなさい、あなた」
「ああ、ただいま」
「どうでしたの、会社は」
「うん、いつもどおりだよ」
買い物袋を提げてエヌ氏は帰宅する。自ら晩ごはんを作り、洗濯なども自分でやる。妻は幽霊なので、家事は全部自分でやるのだ。
もっともふたり分をやるのではなく、結婚前と変わらずひとり分でいい。負担に感じることはなかった。
「あなた、いつもすいませんね」
「いや、いいんだ。君はいてくれるだけでいいんだから」
「そんなこと言われると、照れてしまいます」
むしろ話し相手がいることで、エヌ氏の心は軽い。幽霊との結婚生活は予想以上に快適なものだった。
エヌ氏が不在のとき、どうしているのか聞いたことがあった。
「あなたがいないあいだは、家でぼーっとしてますわ」
「外出とかは?」
「人に見つかって、幽霊屋敷だという噂でも流されたら、たいへんじゃありませんか。この家に住めなくなってしまいます」
とんでもないという風に女は言った。
「ふーん。ひまじゃないのか」
「ひまとは思いませんね。幽霊と人間では時間の感覚がちがうんじゃないでしょうか。人間は死にますけど、幽霊は死なないでしょう?」
「そんなものかね」
エヌ氏は深く考えなかった。いまがしあわせなら、それでいいのだ。その考えは女のほうも同じだった。なにもかも満ち足りた生活である。
それからまた、半年がたった。
「ねえ、あなた」
「なんだい」
白い服の女の呼びかけにエヌ氏が答える。エヌ氏が会社から帰って、夕食をとっている時だった。
「そろそろ子どもが欲しいと思いません」
「子ども?」
さすがのエヌ氏もびっくりした。思わず食事の手が止まる。
「いや、僕も子どもが欲しいのはやまやまだが、その、君は幽霊なんだぞ。いったいどうやって子どもを作ろうと言うんだね」
「作るのは無理ですね」
「じゃあどうやって」
「連れてくればいいのです」
エヌ氏には一瞬、女がなにを言っているのかわからなかった。しかし、エヌ氏は白い服の女と出会ったときのことを思い出して、納得した。
「私がしあわせな家庭を欲しいと思っていたように、優しいパパとママを求めている幽霊だっているはずですよ」
「なるほどね」
エヌ氏は女のほうを見てほほ笑んだ。
近々この食卓に、白い服の子どもが加わるかもしれない。
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