6人が本棚に入れています
本棚に追加
《The wind is blowing》
古い記憶を、思い出と感じるようになり
打算なく、踊り、走り回る幼子に、命の溌剌さを、見出すような
そんな己の気づきに、勘づいた時
人は老いを、覚えるのではないか
太陽の煌きに、背を向け
夜に浮かぶ月の眩(まばゆ)さだけに、頭(こうべ)を上げるだけで
出づる新しきに、躊躇(ためら)い、ただ妬くようになる
そんな自らに気づき、看過できなくなった時
人は衰えを、知るのではないか
連綿とした大地に、人生をなぞり、見晴らすならば
地に這う一部に、麦が生える土を、一世の、歳時記と模して
そこに青春の時期を、重ねて憧憬する
麦は幾度も、踏まれる事によって
冬に立つ霜柱を、持ち上げ、振るい落とす
青春は穂が覚束ない、脆さである
青年期は日向(ひなた)の暖ではなく、冬の薄暗く、厳しき寒さに咲く、一輪の、八重咲きの、アネモネにも似ている
だが、自然と、芽吹くような、馨(かぐわ)しき花ではない
簡略化した華のみではない
シーシュポスの神話の如く
その男が、幾度となく、岩石を、山頂に、運び続けるような
過酷にして、空虚でいて、激しき、荘厳な姿に、美を見出す
厳粛に苦しむ、その行いに向かう構えに、精神は、打ち震える
だからこそ、麦のような、強さをもってして
何度も踏まれて、凍えに耐え、強くなる
それが青春という名の、瞬間の、若者だけに、許された、託された、力になりうる
思うに、若さこそは烈風
その弾ける熾烈さは、稲に張りつき害する浮塵子(うんか)を、吹き飛ばす
若さは、一陣の風となり、大地を駆け抜けて
麦は、その突風でしなり、なびく
風は、いつまでも、止めどなく、吹き
麦の大地は、悠久の広がりが続くと
青く、漲(みなぎ)り憤っていた頃は、思っていた
春に、焦り張りつめていた頃は、思っていた
勢いというものを、得ていると、思っていた
先行きなど、考えもしなかった
しかし、今では頬を切る風が、吹くような
痛いくらいの、熱風や寒風が、去っていくような
疾風(はやて)の流れが、なくなった
ただ塵芥(じんかい)混じりの、微風ばかりが、首筋に絡みつくマフラーを、横滑りして
幾許(いくばく)かの、生ぬるい颯々(さっさつ)が、無意味に、汗ばんだ脇と、股ぐらの間を、過ぎ抜けるだけ
寄る辺なく、振り返ってみるも
旋風(つむじかぜ)すら、吹く、気配は窺(うかが)い難い
今はただ、屹立(きつりつ)するのみ
唇は、既に、渇いた
肌も、既に、枯れた
そして、涙すらも、渇き、枯れ、遠くへ、逃げていった、忘れてしまった
そう、涙すらも
もはや風は、今、時に気まぐれに、僥倖にも、吹く旋風は
若き日に、すれ違っていた、言わずもがなと思っていた風と同じでは、ない
気迫を乗せて、やっては来ない
ただ、やせ細った木枯らしを、退屈そうに、届けて来るだけ
慙愧(ざんき)の念で、かろうじて残っている、篝火すら、消そうとするのみ
熱を盗み、外套(がいとう)を欲させるだけの風
風の色は、とうの昔に、褪せていったのか
風の質は、幾星霜(いくせいそう)、変わっていったのか
禿げ上がった頭に、沿う風が
冷徹に、標(しるべ)となり、示す
今、気だるく、吹き去る風は、弱冠(じゃっかん)の季節に感じた、躍動を得るような、それではなく
今、時折にして、通り魔的に吹く風は、脳裏に浮かぶ、終(つい)への抗いを、奪うだけの風だと
風は、情を、連れてくるものではなく、心を、連れ去っていくものだと
ただ、懐かしさに、微かな、温度を、残して
それだけが、静かな暮らしの、実りなく、綱渡りしてきた、暇潰ししてきた、命への
僅かな、哀れみだった
古き風の潮流は、単なる時の消費に、化けるまで、冗長に、緩慢に、今まで営んできた、誰にでも訪れる、申し訳ない程度の、他愛のない、ささやかな、歳の重ねの論功
それと、諦念
何もかもが、若葉の頃の残滓(ざんし)
雨嵐(レインスト-ム)は、台風は、烈風は、疾風、旋風は、微風すらも、燃え尽きた
今は、活気も、疼痛(とうつう)もない、弱い風に、包まれるだけ
それが、真に風が止むまでの、せめてもの報いになるのだろう
風、果つるまでの、せめてもの対価となるのだろう
もう、贅肉(ぜいにく)で盛られ凝る肩を、もはや、脂肪の腹巻になった腰を、揺らすような、風が吹く、兆しはない
かつての、眼差しが、薄らぐとともに
風は、見えなくなった
ただ、古い記憶を、思い出と感じるようになった、今
過去、はたまた、昔、という渦中、燃焼した、刹那が、束の間が、須臾(すゆ)が、確実にあった、と信じられる気持ち
それだけが、唯今(ただいま)の依りになっていると
霞んだ風が、教えてくれた気がした
了
最初のコメントを投稿しよう!