2.橙色と黒色

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2.橙色と黒色

 今日の目覚めは橙色の中。扉のない四方の壁はオレンジに塗りたくられている。柑橘系の柄があしらわれた子供用の掛布団を跳ね除けて、俺は窓の外を見る。そこは夕景、ビルのシルエットが遠く立ち並び、下校中の小学生や夕飯を買った帰りの主婦が行き交う街道。  俺は人混みの中から彼を探すが見つからない。暫くして疲れ、先に食事を摂ることにする。今日の朝食はニンジンのグラッセとオレンジジュース。ニンジンをぽりぽりと口に運んでいるとまるでぬいぐるみと同じ兎になったようだ。  ぼんやりと窓の向こう、人々を眺め続ける。信号が赤に変わり往来が止まる。青になり再び動き出す。当たり前の動きが何となく不思議に感じる、こういうのをゲシュタルト崩壊と言うのだったか。赤、青、赤、青。  色合いに伴って決められた動き、しかしそのリズムからずれた存在がいた。一匹の小さな野良猫。行きかう車の運転手は小さなその体躯に気づかず、アクセルを踏んだまま側を通り過ぎていく。猫は危うい所を何度も辛うじて避けているが、遂には横断歩道のど真ん中で立ち往生してしまう。俺はメモを探したが、まだペンがない。彼が現れるまでは何も書けない。それも一つのルール。  焦った俺は身を乗り出して窓に手を当てる。どんどんとガラスをたたき、声を上げる。むろん、それが届かないと知っていても。  大型のトラックが来る。猛獣が吠え狂うようにして、猫に近づく。信号の変わるのを待つ人々の中から小さな悲鳴が聞こえる。  不意に人混みを抜けて一人の男が出てくる。トラックに見えるように大きく手を振りながら。トラックは急ブレーキをかけて、彼の前で止まる。硬直していた猫は彼を威嚇してから、歩道脇の茂みに逃げ隠れた。  クラクションを鳴らされ、男は慌てて再び歩道に戻る。そして誰にも気づかれないように足早でその場を去っていく。俺は安心して深く息を吐く。ありがとうトゥルーマン、と俺は呟いた。ブザーが再び鳴り、布団に潜り込む。明日は土曜日、放送の日だ。  今日の目覚めは黒色の中。照明の落ちた部屋は暗闇の中だが、ポツポツと壁に光が散らばっている。テーブルの上に置かれた小型プラネタリウムが投影する作り物の銀河。俺は漆黒のビロードをまくり、窓辺に立つ。  窓の向こうも小ぢんまりとした部屋の中。その一角の安ベッドの上で眠るトゥルーマン。相変わらず寝相が悪く、秋だというのに布団から身体の大半を投げ出して寝ている。  俺は彼の様子を暫く眺めてから、手元の卓上マイクを近づける。土曜日はいつもの食事とメモの代わりに、マイクと手紙、そして小さな本がある。  マイクスタンドに語りかける。 「こんばんは、全世界うん十億の守護霊の皆さん。お相手は君たちのパーソナリティ、巷で噂のジョンスミスです」  すらすらと決まりきった口上を述べながら、俺は手元の手紙の封を切る。 「この部屋に一人居続けて早、二十年と少し。今日も語りましょう、俺の担当、トゥルーマンの物語。お話のお相手は兎のぬいぐるみさん、今日もつぶらな瞳で俺を応援していてくれ、かわい子ちゃん」  話しながら俺は向かいの彼女に視線を送る。暗闇の中でビーズの瞳だけがきらりと輝いている。 「早速のお手紙コーナー。今週も何通か来ているようで嬉しいよ。早速一通目。『ジョンスミスさん、こんにちは。僕は山城と言います、初めてお便りを書きます。この間の紅葉を落とすのがとても良かったです。笑い過ぎて脇腹が痛くなりました』。ありがとう山城君。君もぜひ自分の守護対象にやってみると良い。でもやり過ぎには注意だよ」  それから何通かの手紙を読む。いずれもこのラジオを聴いている他の守護霊からのレスポンスで、これまで俺がトゥルーマンにしたことや、次にしてほしいことに関する意見や感想をもらう。俺の数少ない外部との交流だ。  俺は自分のことを良くわかっていないが、彼を見守る守護霊であるということだけはわかっていた。だが見ることのできるのは限られた時間だけ。しかもこの部屋からだ。  だから、彼がどんな名前かすら良く知らない。しかし二十年間、時折ちょっかいをかけながらも彼を見守り続けている。最初は男を見守るなんて勘弁と思っていたが、次第に愛着も湧く。  手紙を読み終えた俺は次のコーナーに移る。手紙の横の本を一冊手に取る。 「それでは『題名のない童話』のコーナーです。この時間は俺の手元にある一冊の本、その中の一編の童話を読み上げます。どうか皆の心に残りますように」  どこからともなく音楽が流れる、古いジャズミュージック。その中で俺は物語を読み上げる。今日の物語はシガレットの幽霊の話。安い紙巻き煙草が殆ど吸われないままに捨てられ、その恨みで彷徨うが、そもそも禁煙ゾーンが多くなって居場所を失う話。下らない話だがシガレットの哀愁が愛らしく、儚い。ピアノの旋律に転がされる彼の黎明を祈る。俺はこの時間が好きだった。
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