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3.灰色
今日の目覚めは灰色の中。考えてみれば灰色の部屋で目覚めるのは初めてのことだ。陰気な色合いで、少し肌寒いとすら感じる。ごわごわした灰色のブランケットを捲り、窓辺に立つ。
見えるのは雨の中の、どこかの室内だ。明かりのついていない中、無数の学習机が並ぶ木造の部屋。由緒ありげな教室のようだが、トゥルーマンの通う大学にこんな部屋はない。なぜこの室内に繋がっているのだろう。
少しして教室の扉が開いた。入ってきたのは彼ではなく、一人の少女だ。彼女は陰気そうにのろのろと教室を歩いている、外の足音や喧騒に怯えて肩を竦ませたりする。その動きが卑屈で、直感的に俺は彼女を苦手に感じた。
彼女は電気を点けないまま、教室の一角に座る。机の中からノートを一冊取り出し、何かを書き始めた。
他に何も起きないままブザーが鳴る、その日の終わりの合図。彼を見ることなく終わる一日という、今までになかったことに俺は不安を覚える。
あの怯えた眼差しが頭にこびりつく。何故だか俺は彼女を知っているような気がした。心の奥底が揺らぐ。
それから彼女が現れる日が何度かあった。頻度で言えば一週間に一、二度。彼女が出てくるのは決まって部屋が灰色の時で、同じような光景が続く。制服を着た少女が席に座り、鉛筆を紙に走らせている。彼女が紙に描いているのはどうやら絵だと気づいたのは三回目のことだった。彼女は数十色が入っている色鉛筆のケースを取り出し、鉛筆で描いたアウトラインに色を足していく。暗がりの中でぼんやりと色彩が宿っていく。
俺は彼女が苦手だが、目をそらし続けるわけにもいかない。この時間は食事も、メモ帳も出ないらしく、ただ手持ち無沙汰である。土曜日のラジオで、灰色の部屋について話題にした手紙は来なかった、一通も。それが一層不安定な気持ちにさせて、何でもない日のトゥルーマンへの悪戯を八つ当たり的にしてしまう。ごめんよトゥルーマン。
更に変化が起きたのは、五度目の灰色の部屋の時だった。
その日、彼女が来る前の教室には一か所、いつもと違うところがあった。それは彼女の机の上。花瓶と真っ赤な一輪の花。その意味が分かって俺は少し目を伏せる。彼女はこの学校にとって異物扱いされているということ。
しばらくして彼女が教室にやってくる。机の上のそれに気づいた彼女は悲しそうな表情をして、机の端に寄せる。そうしてノートを置くスペースを作った後、彼女は机に手を入れて、そのまま硬直した。
彼女の手に握られていたのはぐちゃぐちゃに丸め、千切られたノート。せっかく描いたイラストも散り散りになって。あまりの所業に俺もむかむかしてくる。
彼女にとって衝撃は相当なものだったらしく、顔色は真っ白だ。次第に呼吸は不安定な音を立てて、そのまま咳き込んで机に突っ伏してしまう。腕が当たって花瓶が倒れ、割れる音とともに破片と花が床に落ちる。咳は止まる様子もなく、相当苦しそうだが、俺は見ていることしかできない。
すると、彼女の周囲の様子が変化する。最初に俺が気づいたのは花弁の色だ。真っ赤だった筈のそれが次第にその色を失って、白色になり、そして萎んで縮んでいった。続いて花瓶の破片、机が色を失っていく。周囲のものが色を失うのに比例して、彼女の呼吸は落ち着いてくる。最終的には彼女の周囲、半径一メートル程のあらゆるものが色をなくした。神様が色を塗り忘れたような一角が生まれる。
呼吸のリズムを取り戻した彼女が顔を上げる。そして、ゆっくりとこちらを向いた。窓の向こうの彼女が見ている。視線が合う。
この部屋は向こう側から認識されないのがルールのはずだ。なのに、なぜ彼女に見えるのか。視線を逸らさないまま、少女は立ち上がり一歩、また一歩と近づいてくる。俺は先ほどの現象と、そして今起きている出来事にただ恐れ、部屋の隅まで後ずさる。
彼女の手が窓に触れた。そのまま彼女は言葉を紡いでいる、俺に向けた言葉。
「ウサギはアリスを連れて行った。アリスは初めて走って行った。けれどもウサギがいなくなれば、アリスは不思議の国で立ち往生」
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