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6.白色と黒色と無色
俺は目覚める。今日の目覚めは白色の中。扉のない四方を覆う真っ白な壁。立ち上がり、急いで窓辺に向かう。
窓の向こうは病院の廊下だ。彼は脇に置かれたベンチに一人で座っている。その横には手術室の入り口。ドラマで見たような構図と静寂。昨日に彼が言った通り、扉の向こうでは彼女が手術を受けているのだろう。彼は手を目の前で組んで、瞳を閉じて祈っている。おそらく、彼女の手術の成功を。
振り返って机を見る。そこに食べ物も、飲み物も、そしてメモ帳もない。何か起きても、俺には何もできないということだ。俺も星斗と同じく、ただ祈ることしかできない。
――そして祈りというのは大抵届かないものだ。
俺も、そしておそらく星斗も感じる。扉の向こうで何かが変質しつつあった。空気が歪むような、この感覚を俺は知っている。彼女が以前に教室で見せた、あの現象。何かが彼に近づいてくる。
逃げろ、と俺は叫んでいた。彼女が奪っているのだ。生きる為に、周囲の色と、そしてその存在を。このままだと駄目なのに。
なのに、彼はすべてを悟ったような顔で立ち止まって。訪れる何かを待っている。
あの馬鹿は何をやっているんだ。窓を叩く。何度も、何度も。椅子を持ち上げて、ガラスにぶつける。それでも破れない。俺は狂ったように叫ぶ、逃げろと。しかし彼は立ち止まったまま。何かが彼の身体を飲み込む。
ごめんね、と彼は最期に呟いていた。
少女は目覚める。今日の目覚めは白色の中。四方を覆う白い壁の一辺には扉があって、その反対側には窓。彼女は白いシーツを捲って、自分の足で立ち上がる。入院して以来、かつてない程に活力を取り戻しているのを感じる。
面会用の椅子に座っている存在に気づく。いつもは彼が座っている席に、今日は別の何かがでんと腰かけている。それは大きな白い兎のぬいぐるみ、プレゼント用のリボンを頭に巻いて。きっと手術の成功祝いに彼が用意したものだ。少女はそのことを喜ぶけれども、何よりもまず彼に会いたかった。
とくん、と自分の心臓が不思議と響いた。少女は自らの胸に手を当てる。そこには彼の息吹を感じた。彼女はそれが何を意味しているかを知った。
そして深く、深く絶望した。
自分の能力が彼を飲み込んでしまったのだ。彼女にとって唯一であった世界を、色彩を、他ならぬこの手で。彼女は完全に袋小路に迷い込んでしまったのだ。もう、彼女に出られる場所はない。
彼女は願う、願う。溢れ出る色彩の中で。彼に寄り添うことを。ずっとずっと、彼とだけ一緒にいたいから。
自分の身体に残る彼の思い出を遡って。自分と彼の場所を作ろう。でも、そこに今の自分は必要ない。彼を奪ってしまうような存在はいらない。彼を守れるような存在でいたい。
だから私は、『私』を捨てて『俺』になった。
「そうして、不思議で泣き虫な少女は守護霊として生きることにしました。彼の色彩の中で、彼の残した童話と、思い出を握りしめて」
俺は、私は最後の一文を読み終えて、本を閉じた。最後の童話。プラネタリウムの空間で。
ぱちぱちと向かいの彼は拍手を送る。兎の座っていた場所、そこに今は卯野星斗がいる。
「素敵な話でした、有難う」
俺は照れくさくなって、そっぽを向いて話す。
「やっぱり、土曜の夜に電話した時、俺と彼女が同一人物って、君は気づいたのかい」
彼は黙って頷く。
「だったら、教えてくれても良かったのに」
「あくまでもそうかな、って推測の域を出ていなかったから。病室の君と話し方があまりにも異なっていたからね。名前を聞いても、君は教えてくれなかったし」
「それは、そうかもしれないけれど」
俺はもごもごと口の中で言葉を詰まらせる。その様子を見て彼はおかしそうに笑った。
「さて、そろそろ僕は行くことにするよ」
「どこに?」
「さあ、どこだろう。でももう、ここには居られないんだ」
プラネタリウムの灯す偽物の星々。その中で、俺は弾かれたように立ち上がり、彼に尋ねる。
「君は、本当に過去の君だったのかい。それとも、罪悪感から俺が生み出した、都合の良い幻想なのかい。俺は本当に過去から君を守れていたのだろうか。それとも」
彼は人差し指を立て、俺の言葉を遮った。
「守護霊さん、君は自分の力を信じることだ。それは確かに多くのものを奪う力がある。でも同時に多くを与える力があるはずなんだ。だから、これから君は君だけの色彩を探すんだよ。この部屋から出て、僕のことを忘れて。僕が偽物か、本物かはどうでも良いんだ、だっと僕の物語はもう終わったんだから。そう、トゥルーマンの、僕の物語は終わった。これからは君の物語だ」
俺は何も言えなかった。いつだって、俺は彼を止めるすべを知らない。
「じゃあ、僕はそろそろ行くね。さようなら」
そう言って、彼は窓辺に立ち、するりとガラスを通り抜けて向こう側へ。
残された俺は、私はマイクを握る。何を語れば良いかはわからなかった。だが、何かを話さないと潰れてしまいそうだった。
寂しい、貴方が死んでどうするんだいトゥルーマン、蜥蜴のジムの話をしてくれよ。見えない飛行船の話を、シガレットの幽霊の話を、太陽の上で踊るレゲエダンサーの話をしてくれよ。君の話をもっと聞かせてくれよ。どうか、どうか。
繰り返す懇願。それが叶わないことを一つ一つ確認しながら、私は少しずつ大人になっていく。安穏とした怯えの中で過ごしていた自分を削り、失った幸福を噛み締めて、生きる為の力を無理やりに口に含んで、嚥下する。
過去の為ではなく、明日の為に。
私は目覚める。今日の目覚めは透明の中。四方を囲んでいた、あれほど堅牢そうな壁も今はなく、薄いレースのカーテンに四方を覆われただけの部屋、いや部屋とはもう言わないか。風に翻る、世界と私を隔てるものはあまりに頼りない。私は守護霊のジョンスミスではなくて、みすぼらしい卑屈なだけの少女。大切なものを見失って、それでも生きていくよアリスリデル。レースに触れて、押しのけて。君のいない世界で生きていこう。君がまだ見ていない色彩を探しに。
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