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それからの日々は発見の連続だった。
よく青と表現される海に行ってみたら、決まった形はなくて、生き物みたいに波が寄せては返す。寄せる波に少し手を浸したら、思いのほか冷たくてすぐに手を引っ込めた。舐めてみるとしょっぱい。母の談では冬場の今はあまりきれいな青ではないらしい。風が強くて寒いので長居もできなかった。「今度は夏に来よう」と母と約束した。
丸くて小さいレモンは黄色。爽やかな香りで、齧ってみると酸っぱい。その経験から黄色は酸っぱい色だと思い込んでいたら、次の日に大好物のプリンを食べながら、プリンも黄色だよと教えてもらったときには驚いた。「プリンの黄色は卵の黄身の色。ヒロムの元気のみなもとだね」
殻を割った生卵を触ってみる(母に言われて手はようく洗った)。距離感がわからないので勢いよくボウルに手を突っ込むと、指先が弾力のある何かに当たった。その刹那、張り詰めていたものがはじけたように、弾力は消え失せどろりとしたものが指先をまとう。
「ああ、黄身を潰しちゃったね。気にしないの。卵焼きにして食べましょう。甘いのがいい、それともしょっぱいの?」
「甘いの!」
卵の黄色に負けないようにヒロムは元気よく答える。それから、母に訊ねた。
「卵の黄身じゃないほうって、白身っていうんでしょ? 白ってどんな色?」
「そうね……代表的な白いものっていえば、やっぱり雪かなあ。きっともうすぐ降るよ」
そんな会話を交わした日から、ヒロムは雪が降るのをずっと楽しみにしていたのだ。
時計のアラームの音で目が覚める。昨夜は興奮のあまり寝つけないかもと思っていたが、気がついたら熟睡していたようだ。
「おはよう、ヒロム。外は真っ白だよ」
母の言葉に、ヒロムの心臓はどきどきと落ち着かない。早く、早く見たい!
母が身支度を手伝ってくれる。最後に、新品のふかふかのコートを羽織らせてくれた。手には毛糸の手袋。足には長靴。
「いってらっしゃい」
母に送り出され、ヒロムはひとり、玄関を出て雪原に一歩、足を踏み入れる。ざくっと雪を踏む音。陽のひかりが燦々と降り注ぐのを感じるから、雪はもう止んでいるのだろう。襟元や袖口から忍び入る冷気に背筋がしゃんと伸びる気持ちだ。
思ったより足を取られて歩きにくい。いったい何センチ積もったんだろう? そんなことを考えて、ふと、以前ほど数字に拘らなくなっていた自分に気づく。
何センチ積もったとしても、それは雪だ。それと同じで、たとえ目が見えなくたって、ぼくはぼくだ。
心が軽くなって、強い風に吹かれたら身体ごと宙を舞ってしまいそうだ。
バランスを崩して、雪の上に倒れ込む。雪の上に身体が沈む感覚。怪我はしなかったようだ。雪は固いようで、柔らかい。冷たいようで、ほんのり、温かい。
これが、雪。これが白。
横になったまま手袋を外して、素手でじかに雪に触れる。今季の初積雪だからか、さらっとした手触りだ。雪玉を作ろうとして両手いっぱいに掬い取っても、ひとつの球状に固めるとみるみる嵩が減って、こぶし大ほどになってしまった。雪だるまとやらを作ろうと思ったら相当な量の雪が必要らしい。
肺を膨らませて大きく息を吸い込み、肺をぺしゃんこにする意識で息を吐き出す。空気が美味しい。……そう感じるのは、冬の凛とした気配のせいか。人声もなく、朝を告げる鳥の唄声もない。ヒロムがたてる物音以外、一切の音が雪に吸収されてしまっているかのようだ。
ヒロムは注意深くゆっくりと起き上がる。頭の上にまだ雪が載っている感触がして、ぶるぶると首を振った。これで落ちたかな。そうして歩き出そうとして、今まで自分が歩いてきた方向を見失ったことに気づいた。
目が見えなくても、百八十度方向転換して来た道を引き返せば家に帰れると算段をしていたのに、これでは戻るに戻れない。たいした距離を歩いたはずはないから、いっそ当てずっぽうで歩いてみるか――?
母の声だ。母がヒロムを呼ぶ声がする。ヒロムは目が見えない分、聴力は人より優れていた。声が聞こえる方向が手に取るようにわかる。
帰る場所はここだ、と。ヒロムのしるべとなり道を照らす母の声。
その声を頼りに足を急がせる。母のもとへ。温かいわが家へ。
わが家の屋根も赤色だったらいいな。そんなことを思いながら、ヒロムは見たことのないわが家の景観を空想した。
Fin.
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